Fill my heart






「おはよう、蓮くん」
 部屋の扉をノックすると、程なく、それが開かれた。
「・・・ああ、おはよう、香穂子」
 ラフな綿のシャツを着て、眼鏡をかけた月森が顔を覗かせた。
「蓮くん・・・眼鏡、ってことは、コンタクト、これからだったんだ?」
「ああ。・・・今朝は少し目覚めが遅くて・・・少しだけ、待ってもらえるだろうか」
「うん、勿論。どうしよう? 私の部屋で待ってる方がいい?」
「いや、良かったら入ってくれ。早目に済ませるから」
「なら、お邪魔するね」
 今日は日曜日。香穂子がウィーンに来てから、早やひと月の時間が流れていた。
 学校内での専門的な音楽用語などではまだまだ不自由を感じているものの、日常の簡単な会話くらいなら、香穂子もドイツ語で交わせるようになってきて、アパートの管理人夫妻とは月森なしでも話せるようになってきている。
 そんな中、新しい環境で、新しいことを学ぶ新鮮さと、本場の空気や音に触れることで、香穂子自身の奏でる音もまた、変化しつつあるのを、月森は感じていた。
 ヴァイオリンを始めてまだそう長くないことと、純粋にそれを愛する気持ちとで、香穂子は真綿が水を含んでいくように、演奏者としての音色を磨いて成長し続けている。
 技術そのものは一足飛びに進歩、とはいかなくても、地道な努力が確実に力になってきている。
「・・・香穂子、今日もいつものところで練習、でいいのか」
「うん。午前中は練習して、蓮くんと一緒にランチして、少しお散歩して、それからまた楽しく弾いて。・・・あ、でも、夜は蓮くんはお出かけなんだよね? 確か。演奏会でしょう?」
 月森がクラスメイトと約束していることを、香穂子も聞かされていた。
 プロの本物の音楽を聴くことも大切な勉強になる。香穂子もこちらに来てから2度ほど、プロのリサイタルに行く機会に恵まれた。
「ああ・・・それ、なんだが・・・良かったら、君も行かないか。実は、今夜の演奏会には、母も出演するんだ」
「えっ・・・そうなの?」
 月森の母・浜井美沙のピアノは何度か聞いている。
 土浦から聞いていた通り、明るくて、それでいてやさしい美沙のピアノは聴いていてとても心地いい。
 月森の音とはかなり雰囲気が違うが、香穂子は美沙の音も大好きだった。
「・・・もしかして、協奏曲、とか?」 
「・・・ああ。それで、チケットが手元に2枚あるものだから。どうだろう」
「・・・いいの? 私が一緒でも」
「ああ。ルドルフも彼女を連れてくると言っていた。だから、良かったら、君も」
「嬉しい。ありがとう、蓮くん」
 香穂子の笑顔に、提案した月森は安堵する。
 ルドルフ・シュタイナーはこちらに留学してきて出来た友人であり、楽器は違うがライバルだ。以前、香穂子へのメールで演奏を褒めたクリスティーネ・コーエンを恋人に持つピアニストで、月森の母である美沙のファンでもある。
 彼は月森の伴奏をよく務めてくれていて、相性はいい方だと思う。無論、彼も演奏家だから、ぶつかる時も少なくないが。
 そのルドルフに誘われる形で、今夜の演奏会に行くことになった。彼がクリスティーネを同伴するということは、昨日になってから聞かされて、香穂子も誘えと言われていたのだ。
「・・・では、あまり遅くならないように練習時間を調整しよう。早速、出かけようか」
「うん」
 月森と香穂子はヴァイオリンケースを手に、外へと出かけた。




 少しだけ郊外の公園の隅。それが、香穂子のお気に入りの練習場だ。
 ウィーンの森の近くのこの辺りは、比較的音を出しても怒られることのない地域で、ここで月森と一緒に、休日練習をするのがここへ来てからの習慣になっていた。
 平日は学校で、決められた時間ギリギリまで練習している。アパートに帰れば、自分の部屋の掃除とか食事の準備をする。平日は時々、大家さんが食事を作ってくれたりもするが、基本は自炊だ。
 それでも、誰にも咎められることもなく、ヴァイオリンのことだけを考えていられる日々は、香穂子にとって充実したものになっている。
 月森とも、曲の解釈や、互いの演奏について、あれこれ意見を交わすことが出来るし、時には、恋人らしく寄り添ったり、キスを交わしたりもする。
 ウィーンと日本で、離れていた時間(とき)よりも遙かに満ち足りた日々だ。
「蓮くんは課題のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の練習だよね?」
「そうだな。香穂子は、バッハの無伴奏ソナタ、だったな」
「・・・うん。これがなかなか、難しいんだけどね・・・」
 曲自体は好きだと思うが、譜面通りに弾く、というのは意外と難しい。
「・・・互いの練習は大切だが、最初は、一緒に弾かないか? 君さえ良ければ」
 月森のお誘いに、香穂子は瞳を輝かせた。
「ホントに? いいの? 蓮くん」
「ああ」
 月森は穏やかな笑みで頷いた。
 2人は手早く調弦を済ませて、そっと弦に弓を乗せる。
 ともに奏でるのは、シューベルトの『アヴェ・マリア』。
 やさしく温かな旋律が空へと解放されていく。
 重なり、溶け合う美しい音が心地よく響き、月森と香穂子の心を、ヴァイオリンの音色が通わせていく。
 最後の音を弾き終えると、拍手が聞こえてきた。
 互いの音に聞き入っていた2人は、はっとして目を開ける。
 いつの間にか、小さな人垣が出来ていた。
「れ、蓮くん・・・どうしよう?」
「とりあえず、会釈しておこう」
 2人揃って頭を下げると、拍手が大きくなった。
 そして、まだ聞かせろ、という声も上がる。
「どうする? 香穂子。まだ弾いて欲しいという声が出ているが」
「えっと・・・どうしよう? 蓮くん」
「嫌でなければ、リリからもらったあれを弾こうか」
「あ、うん」
 月森と香穂子は目で頷きあって、演奏を始めた。
 2人で何度も弾いた『愛のあいさつ』。
 豊かにヴァイオリンを歌わせて、互いの想いを重ね合わせる演奏は、聴く人々の気持ちも、やさしくしていくかのようで。
 弾き終えた時には、更に観客が増えていて、拍手も大きくなっていた。
「えっ、嘘、いつの間にこんなに・・・」
 香穂子は焦って頬を染めるが、月森は落ち着いている。
「それだけ俺たちの音が人々の心に届いたということだ。自信を持っていいと思う」
「蓮くん・・・」
 月森はもう一度会釈して、再度、ヴァイオリンを構えた。
「香穂子、少し、聴いていてもらえるだろうか」
「あ、うん」
 すっと弓を乗せた月森が奏で始めたのは、『タイスの瞑想曲』。
 洗練された音が周囲に響く。
 上手いだけではない、温かく穏やかな心情が込められたような演奏は、留学してからの月森の研鑽を窺わせ、香穂子は息を呑んだ。
 ソリストとして必要なものを、月森は確実に手中にし始めている。
 香穂子の憧れであり、目標。そして、出来るなら同等でありたい、そんな存在である月森は、やはり、自分よりも遥かに先を歩いているのだということを実感させられる。
 勿論、そんなことは出会った頃から判りきっているけれど。
 もう少し、せめて大学を卒業するまでは、自分の精一杯をヴァイオリンにぶつけて、音楽家としての道を模索していきたいと思う。
 とはいえ、ひとつだけ確信を持っていえることがある。
 たとえプロの音楽家になれなかったとしても、香穂子はヴァイオリンが好きだし、生涯、手放す気はないということ。
 これだけは絶対に譲らない。
 月森が教えてくれた、美しい音色。リリが出会わせてくれたヴァイオリン。
 今となっては、香穂子にとって、なくてはならないものだから。
 最後の音が静かに消えていくと、周囲の人たちに混ざって、香穂子も惜しみない拍手を月森に贈る。
 月森は人々に会釈して、これから練習をするということを伝えた。
 用事のある人たちは歩き出し、月森と香穂子に笑顔を向けて去っていった。
 月森も傍らの香穂子にそっと微笑みかける。
「香穂子、ありがとう」
「蓮、くん?」
「・・・君がいてくれるから、俺はこうしてヴァイオリンを歌わせることが出来ている。ただ、上手く正確に弾けたらそれでいい、そう思っていた俺に、それだけではダメだと教えてくれたのは君だ。君がいなければ、俺はここまで来られなかった。そして、これからも、君がいれば進んでいけると思う。だから、ありがとう」
「蓮、くん・・・」
 香穂子は目を見開く。
 月森がこんなことを言うとは思わなかったから。
「そ、そんな・・・ありがとう、は私のセリフだよ、蓮くん。蓮くんがいてくれるから、私はヴァイオリンをここまで続けてこられたんだよ? こんな風に、ウィーンに勉強に来られるくらい、ヴァイオリンが弾けるようになったのは、蓮くんがいるからだもの。私・・・」
「君がここまで上達したのは、君が努力をしてきた証だ。君が真っすぐにヴァイオリンに取り組んできた、その成果だから、俺は特に何かをした訳じゃ・・・」
「ううん、蓮くんのお陰だよ。最初に、ヴァイオリンの音の美しさを教えてくれたのは蓮くんだもの。それに、いつだって、蓮くんはお世辞とか言わずに、真摯に私と私の音に向き合ってくれたでしょ。そりゃあ、時にはへこむこともあったけど、でも、蓮くんはいつだって本当のことを言ってくれた。だからこそ、私はちゃんと弾き続けてくることが出来たんだと思うの」
「香穂子・・・」
 月森はふっと苦笑して、ヴァイオリンを1度ケースに置き、香穂子のそれも同様にして、そっと両手を握った。
「・・・ならば、やはり、俺たちはお互いに、なくてはならない、大切な存在だと、いうことなんだろう」
「・・・うん、そうだね」
 香穂子も微笑んで頷いた。
 大切な、かけがえのない存在。互いの心を満たす、ただ1人の。
 繋いだ手を、やがてまた離さなければならない日が来ても。それでも、互いの心は、ずっと近くにある。
 そう信じられる。
「・・・香穂子、今日の練習は午前だけにして、久しぶりにゆっくり過ごさないか・・・ウィーンの森をのんびりと散策も、悪くないだろう」
 月森の穏やかな微笑みに、香穂子も満面の笑みで応える。
「うん!」



 ウィーンに来て、1ヶ月。
 残りの滞在期間も、1ヶ月。
 それでも、その限られた時間の中、月森と一緒に時間(とき)を重ね、音を重ねて過ごしていきたい。
 互いの心を満たしあって、気持ちも重ねて。
 香穂子はそう思いながら、月森を見つめ、ふわりと微笑んだ。



  
   

 

END







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