白い世界に







 吉羅理事長就任パーティーで演奏する予定の『ディヴェルティメント』の練習を香穂子と一緒にしていた月森は、曲を弾き終えて肩からヴァイオリンを外した。
「・・・随分静かだな・・・」
 放課後だから、授業時間中よりは人が少なくて当然だが、それにしても、運動部の気配すら伝わってこないような気がする。
「香穂子、窓を開けてみてもいいだろうか」
「・・・うん、いいよ、蓮くん。確かに、いつもよりずっと静かだよね」
 練習室は防音されているから、音は聞こえにくい構造ではある。けれど、外の生徒の気配くらいなら、いつもは感じ取れる。
 香穂子も、ヴァイオリンを肩から下ろして、窓へと向かう月森を目で追った。
 そっと、鍵を外し、窓を開けてみると。
「・・・香穂子、来てくれ」
「・・・何?」
 香穂子が窓辺へと歩み寄ると、冷たい空気が流れ込んできているのが判る。
 空は、一面に灰色の雲。
 そして。
「雪だ。・・・いつの間に降り出したんだろう」
「ホントだ・・・気がつかなかったね」
 真っ白の綿のような雪が、音もなく舞い降りてくる。
 雪が、音を吸収していたんだと、2人で気づき、ふと、顔を見合わせた。
「少し、外に出てみようか」
 月森が微笑んで、香穂子も頷く。
 窓を閉め、練習室から出て、更に校舎を出る。
「うわぁ・・・白いね、蓮くん」
 香穂子は嬉しそうに声を上げて空を見上げた。
 そっと両手を空へと伸ばすと、月森は微かに瞠目する。
「待ってくれ、香穂子。・・・・手を」
「え?」
「手が冷えるだろう。・・・手袋を貸すから」
 そう言って、月森はブレザーのポケットから暖かそうなネイビーブルーの毛織の手袋を取り出し、香穂子の両手に嵌めた。
「・・・さあ、これでいい。俺の手袋だから、君には少し大きいだろうが、我慢してくれ」
「蓮くん・・・ありがとう・・・」
「かまわない。・・・大切な指だから、大事にしてほしい」
「蓮くん・・・」
 月森は事あるごとに香穂子の指を大切にしてくれる。
 この指からしか生まれない音楽があるのだからと、そう言って。
「でも、蓮くんは? 蓮くんだって、指、大事にしないと」
「俺のことはいいから。・・・大丈夫だ」
 月森はそっと、手袋をした香穂子の手を握った。
「こうしていれば、俺も暖かい」
 僅かにテレたように微笑んだ月森に、香穂子はくすぐったいような気持ちになり、ふふっと笑う。
 静かな空間に2人。
 他の人の視線は全く感じないから、月森も大胆になれるのだろう。
 そうしている間も、雪は少しずつ積もっていく。
「・・・・・しかし、降ったな。校庭が真っ白だ。これではみんな帰るはずだな」
「そうだね」
「この雪に気づかないほど、演奏に集中していたのか・・・君と弾いている間は、時を忘れる。それはきっと、君の音楽や、君と共に奏でる曲が俺にとって、とても愛しいものだからなんだろう」
「蓮くん・・・」
 やさしく、満ち足りたような表情(かお)で微笑む月森に、香穂子の胸がとくん、と高鳴る。
 今年に入ってから時折、難しそうな表情になることがある月森だが、今日はそういうものは一切感じられない。
 むしろ素直に、香穂子と一緒の練習の時間を楽しんでくれている感がある。
 月森が何を抱えているのか、香穂子には判らないけれど、今はこうして一緒にいられる時間を大切にしたい。
「雪が強くなってきたな」
「・・・うん」
 確かに、ここへ出てきた時よりも、雪の降り方が酷くなってきている。
 このままでは公共交通機関にも影響が出るだろう。
 月森と香穂子は共に徒歩通学ではあるが、足元が危険になる恐れがある。
「校舎に残っている生徒は俺たちくらいか。早く帰らないと・・・」
 そう呟くように口にして、月森は逡巡する。
「・・・すまない。1つだけ、頼みがあるんだ」
「何?」
「練習室に戻ったら、1曲だけ合わせてから帰らないか。・・・雪のおかげで、君と2人だけだから」
「・・・うん、いいよ」
 もう少し。
 2人だけの時間に浸りたい。
 月森だけでなく、香穂子もそう思っていた。
 完全下校の時刻まではまだ1時間近くある。下校を促す見回りの教師も、しばらくは来ないだろう。
 練習室に戻ると、2人はもう一度ヴァイオリンを構えた。
「蓮くん、何を弾こうか」
「・・・『愛のあいさつ』にしないか、香穂子」
「・・・うん」 
 リリからもらった、特別な楽譜。ヴァイオリンの二重奏として編曲されているそれは、月森と香穂子にとっての大切なもの。
 香穂子はこの曲が大好きだし、月森と一緒に音を重ねるのは心地よい。
 互いの目で合図を送って、ゆっくりと弓を乗せる。
 澄んだ、やさしい音が練習室に響く。
 重なる音の美しさに聞き入っていた香穂子は、気づかなかった。
 月森の眉根が、ぎゅっと顰められていたことに。





 弾き終えて、急いで弓を緩め、ヴァイオリンを片づける。
 それから、慌しく外に出た。
「・・・やはりまた少し積もったな・・・」
「ホントだね。・・・気をつけて歩かないと」
「ああ。・・・転ばないでくれ、香穂子」
「・・・判ってます」
 月森の過保護的な発言はいつものことだ。
 ヴァイオリン奏者としても、恋人としても、月森は香穂子を大切に想ってくれている。
「理事長の就任パーティーまで、あと一週間だな」
「・・・うん。明日くらいから、他のみんなと合わせていかないとね」
「ああ。加地と志水くんも練習をしてくれている筈だから、明日には一度合わせてみるとメールしておこう」
「あ、メールなら私が・・・」
「香穂子は他にもやらなければならないことがあるだろう。俺に出来ることは限られているから、そのくらいはさせてくれ」
「蓮くん・・・」
 真摯な瞳を向けられて、香穂子は僅かに戸惑った。
 このまま月森の言葉に甘えてしまっていいのだろうか。
「でもね、蓮くん。蓮くんだって、自分の練習とか、いずれ来る留学のための準備とかもあるでしょう? なのに・・・」
「・・・いや、それは大丈夫だ」
 月森はきっぱりと言い切った。
「自分の練習はきちんと調整している。留学の準備も、特に問題はない。君は練習の他に、オケのメンバー勧誘のこともある。都築さんから出された課題をこなすことに、時間を割いてくれ。アンサンブルのことでしか、俺は君を手伝えないんだ、そこは甘えてくれないか」
「蓮くん・・・」
 オケのコンミスになることを引き受けたと、月森に話した時に『必要なら、俺は協力は惜しまない』と言ってくれていた。それをそのまま、実行しようとしてくれているのだ。
 練習につき合わせ、教えを請うている時点で、充分に月森の手を煩わせていると思うのに、雑用まで引き受けようとしてくれている。
 香穂子は嬉しい反面、やはり申し訳なさでいっぱいになる。
「ごめんね、蓮くん。・・・巻き込んで」
 そう言うと、月森は少し切なそうな表情(かお)になった。
「香穂子、気にしないでくれ。・・・俺は・・・ただ、君の力になりたいだけなんだ。君が、音楽の道を歩くと、そう言ってくれるから」
 コンミスになることを引き受けたのが、音楽家として立つための一歩だと香穂子は言った。
 その道を歩んで欲しいと願いながら、それが同時に厳しく、険しい道であることを嫌という程実感している月森は、喜びと共に苦しさも感じている。
 選んだのは香穂子自身だが、それを示唆したのは紛れもなく自分なのだから。
 それに、彼女と共にいられる時間は限られている。
 残された時間の中で、可能な限り、香穂子と過ごし、助けたいと痛切に願っている。
 そう、遠くない、香穂子との別離(わかれ)
 せめて、その日が来るまでは。
 月森は香穂子の瞳を真っすぐに見つめた。
「香穂子、君が頑張っていることは俺だけでなく、加地や志水くんも解ってくれている。それに、冬海さんや土浦も、多分、柚木先輩や火原先輩も、応援してくれている筈だ。だから、自分のすべきことをやろう。お互いに」
「・・・うん、そうだね。・・・ありがとう、蓮くん」
 ようやく香穂子は微笑んだ。
 月森も安堵の笑みを浮かべる。
「・・・さあ、冷えないうちに帰ろう。まだ、君といたい気もするが、風邪をひくわけにはいかないから」
「うん」
 月森と香穂子は並んで歩き出す。
 白い世界の中、2人で。



  
   

 

END







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