AQUA BLUE







 日曜日の朝、香穂子と待ち合わせて練習をして。
 少し午後の時間にかかってから昼食をとって、月森はこのまま練習だけで明け暮れるよりも、少し、どこかに出かけてみたいと思った。
「香穂子、練習はこれで切り上げて、良かったら、どこかに行かないか」
「えっ・・・いいの? 蓮くん」
「・・・たまには、気分転換も必要だろう。どこか、行きたいところはないだろうか」
「あ、じゃあ・・・水族館がいいな」
 香穂子が提示した場所に、月森は微笑んだ。
「いいな。・・・少し遠出になるが、駅に行こう」
「うん」
 月森と香穂子はゆっくりと駅に向かい、電車に乗った。
 日曜日の昼間は、それなりに人が多い。
 学生同士、家族連れ、恋人同士など、楽しそうな笑顔の人が多くみられ、ざわめいていた。
 香穂子はそんな人々をニコニコしながら見つめている。
「・・・何が、そんなに楽しいんだ?」
 月森に問われて、香穂子はますます笑顔になる。
「うん、楽しそうな表情の人が多いなあって思って。それに、私はこうして蓮くんと一緒だし・・・凄く嬉しいよ」
「香穂子・・・」
 月森も自然に笑顔になる。
「・・・そうだな。俺も、君とこうしていられて良かったと思っている。・・・そう言えば、以前、この水族館がテレビで紹介されていた」
「そうなんだ?」
「ああ。館内に鐘があって、それを鳴らすと幸せになれるというんだが・・・そんなものが出来ていたんだな、と思った」
「へえ・・・」
「そうだ、確か水族館ではハンドベルの演奏が行われていると聞いた。この秋の特別プログラムだそうだ。ハンドベルの音を聞きながら水族館を見て回るのもいいかもしれない」
「あ、それ、ステキだね、蓮くん」
 香穂子の瞳が期待に輝く。
 ハンドベルのやさしい音色は可愛らしい印象で、香穂子も好きだった。
 水族館という雰囲気には、あの音色は似合うだろうと思う。
「ところで、香穂子は水族館で何が見たいんだ?」
「あ、えっとね、ペンギンとか、イルカショーとか」
 香穂子の発言に、月森は目を細めた。
「イルカショーか。子供のころに父に連れて行ってもらった覚えがある。・・・そういえば、最前列にいて、頭から水を被ったんだ。・・・懐かしいな」
「あー、そうだよね。前はよく見えていいんだけど、それがあるよね」
 苦笑する香穂子に、月森はやさしい笑みを向けた。
「じゃあ、メインの館内を見たら、イルカショーを見に行こう。前の席は止めて、真ん中辺りで」
「うん」
 微笑あって、そのまま電車に揺られ、最寄り駅で降りる。
 天気のいい日曜日、人出はそれなりに多い。
 月森はちらり、と香穂子を見る。香穂子も月森を見上げていて。視線が重なった。
「・・・その・・・これだけ、人が多いと・・・はぐれないように、気をつけないといけないな」
「あ、うん、そうだね・・・」
 香穂子はじっと月森を見つめ、躊躇いがちに言ってみる。
「あのね、蓮くん・・・こうしたら、怒る?」
 香穂子は月森のジャケットの肘の部分を指で僅かに摘まむようにした。その頬がほんのりと桜色に染まっている。
 月森はその行動に瞠目し、僅かに目元を赤くした。
 けれど、その遠慮がちの行動はとても愛しく、微笑ましくもあり、月森はジャケットを摘まんでいる香穂子の手をそっと包むように取った。
「・・・なら、この方がいいだろう」
 月森は香穂子の手を、自分の腕に絡めるように掴ませる。
 しっかりと腕を組むような格好になって、香穂子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「・・・うん。これなら、はぐれる心配はないよね」
「ああ。・・・行こうか」
 月森と香穂子はゆっくりと歩いてチケットを買い、メインの館内へと足を進めた。
 押さえられた照明の中、アクアブルーの世界が広がる。
 広く大きな水槽内で魚たちの泳ぐ姿は、ある意味優雅に見える。
「・・・綺麗だね、蓮くん・・・」
「・・・ああ、そうだな」
 魚の動きは早いはずなのに、ゆったりとして見えるのは、一緒に入れられている大きなエイなどのせいなのだろうか。
 時間の進み方が遅くなったような気がする。
 順路に従って生き物たちを見ていく。
 ペンギンの水槽の前では、香穂子は瞳を輝かせた。
「うわーん、可愛いー」
 香穂子の瞳はオオサマペンギンに釘付けだった。
 愛らしい姿でちょこちょこと歩き、一旦水に入ると魚のようにすばやく泳ぐオオサマペンギンは、香穂子のお気に入りだった。
「あーん、可愛いー。ホントに可愛いー」
 あまりにも『可愛い』を連発し、そちらばかりを見ている香穂子に、最初は微笑ましく思っていた月森も、苦笑するしかなくなる。
「・・・そんなに、ペンギンが好きなのか」
「うん、大好き。ずっと見てても飽きないくらい」
「・・・ずっと・・・?」
 確かに、ペンギンは愛嬌があるが、さすがにずっと見ていても飽きない、とは、月森には思えない。
 何より、すぐ隣にいるのに、腕に温もりを感じているのに、香穂子に忘れられてしまっているような気がして、少し寂しい。
 月森は僅かな溜息をついた。
 さすがに、香穂子もそれには気づく。
 すぐ隣の月森を見上げると、僅かに困惑したような表情になっていて。
「えっと・・・蓮くんは、ペンギン、嫌い?」
「いや・・・嫌いということはない。だが、君ほど好きかと言われたら、違うと思う」
「・・・ごめんね。久しぶりに見たから、ちょっとはしゃいじゃった。・・・次、行こう」
 香穂子が手を組んでいる腕をそっと前へと押し出すような仕草をして。
 月森も表情を和らげて頷いた。
 やがて、水のトンネルのエリアに差し掛かる。
「わあ・・・」
 香穂子が小さく感嘆の声をあげた。
   ゆっくり、ゆっくりと水のトンネルを進む。実際は違うのに、海の中にいるような錯覚を覚える眺めに、香穂子と月森は言葉を奪われる。
 上から陽がさして、水の流れにあわせてキラキラと輝く様子はまさに幻想的で。
「・・・海の中を歩いているみたい・・・」
「・・・ああ」
 言葉はあまり出てこない。けれど、今はそれは不要に思えた。
 2人で一緒に同じものを見つめている。それを美しく、心地よいと感じている。
 それだけで。
 月森と香穂子は自然に顔を見合わせ、微笑みあった。
 そこを抜けると、他の水槽などが設置されているエリアに出る。
 色鮮やかな熱帯魚の群れや、不可思議なくらげなどを見て。
 イルカショーの行われるステージに出ると、程なくショーが始まるところで、観覧席はかなり埋まっていた。
「どうする、香穂子。この回は見ないで、次の回にするか?」
 空いているのは最前列と後ろの方と端の方くらいだ。
 香穂子は月森を見上げ、僅かに首を傾げた。
「私は端でもいいけど・・・蓮くんは?」
「俺も、特に場所にはこだわらない。最前列でなければ、どこでも」
「じゃあ、行こう!」
 香穂子の笑顔につられ、月森も頷いて席を探す。
 すると、やや後ろではあるが真ん中に近いところに3人分くらいの空きをみつけ、そこへ腰を下ろした。
 途端に、ショーが始まる。
 イルカたちが優雅に泳ぎ、ジャンプしたり演技をしたりする様を、香穂子と月森は夢中になって見つめ、周囲の観客と共に拍手を送った。
 ショーが終わってからも、月森と香穂子は暫くそこから動かなかった。
「・・・凄かったね、蓮くん。イルカって、ジャンプする姿がとても綺麗だった」
「・・・ああ。幼い時も凄いと思ったが、今見てもやはり凄いと思える。・・・いいものが見られた」
「うん! イルカって、やさしい目をしてるよね。そういうところが大好き」
「そうだな。それに、イルカは頭もいい。音楽も聴けると聞いたことがある」
「そうなの? ヴァイオリンの音とか、好きかな」
「どう、だろうな」
 月森は微かに苦笑してゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、行こうか。あまりここでゆっくりしていると、他のところが見られなくなる」
「うん、そうだね」
 香穂子も立ち上がって、再び月森と歩き出した。
 残りの館内を見て回ったあたりで、時間的にかなり進んでいたので、2人は帰ることにした。
 夕陽に染まった空の下、電車に乗り、最寄り駅で降りて歩く。
「疲れていないか、香穂子」
 見慣れた交差点の辺りまで帰ってきたとき、月森はそう尋ねた。
 香穂子は月森に自然な笑みを向けた。
「全然。凄く楽しかったよ。・・・蓮くんは?」
「・・・俺も、楽しかった。多分、君と一緒だったからだろう」
「蓮くん・・・」
 月森の笑みに、香穂子はますます嬉しくなる。
 一緒に練習出来ることも嬉しいが、こんな風に2人で出かけられること、そしてそれを月森が楽しいと感じてくれていることが何よりも嬉しい。
「・・・機会があれば、また、一緒に行こう」
「うん!」
 香穂子は満面の笑みで頷いた。


 充実した休日。
 香穂子と共に、少しでも多く、こんな日々を過ごしていきたい。旅立つまでに。
 彼女の家からの1人の帰り道で、月森はそっと暮れ始めた空を見上げ、輝き始めた三日月に目を細めた。





END







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