カノン







「オケの、コンミス?・・・私が、ですか?」
 3学期が始まって間もないある日の午後、星奏学院高校理事長室で、香穂子は茫然となりそうになった。
 

 理事長の吉羅から呼び出しを受け、告げられた内容は。
 3月に行われる市の音楽祭のオープニングに学院のオケを出演させ、そのオケのコンミスを香穂子に、というものだった。
 オーケストラに加わった経験もなければ、ヴァイオリン歴自体も1年に満たない香穂子に、指揮者に次ぐ、オケのまとめ役のコンミスを、というのは、無謀としか言いようがないような起用だ。
 しかし、吉羅は涼しい顔でこう言ってのけた。
「君になら出来るだろう、日野君。学院分割を私に撤回させたのだから、この位の協力はしてくれて当然じゃないのかね? これまでも不可能を可能にしてきた君のことだ、頑張りたまえ」
 そして、オケの指揮者となる都築 茉莉を紹介された。彼女は王崎の同級生で、王崎が優勝した学内コンクールに出場した実力者だということだった。
 その、茉莉からも、香穂子は厳しい視線を向けられる。
「あなたが本当にコンミスを務めるに相応しいか、テストさせてもらうわよ?」
 そう言って、茉莉から課題を提示された。
 オケのメンバーを集めること。ただし、この中にクリスマスコンサートのアンサンブルメンバーを含まないこと。
 理事長就任パーティーの日に、アンサンブルコンサートを開くこと。
 これらの条件をクリア出来なければ、茉莉は香穂子をコンミスとは認められないと、宣言した。
「日野さん、あなたがひとりの音楽家として、長く音楽を学んできた人間と対等にやっていくつもりなら、手加減なんてしてもらえない。同じこと、いいえ、それ以上のことが出来ないといけない。そうでなければ、認めてもらうことは出来ないのよ」
 茉莉の言葉は厳しいが、真実だった。
 香穂子は唇を噛む。
 ヴァイオリンが好きで、学内コンクールのあともずっと弾いてきた。続けてきたことで、春よりはずっと上達しているのは確かだ。
 それを今後どうしていくのか。その決意を改めて突きつけられる。
 ヴァイオリンをただの趣味として続けるだけなら、こんな挑戦をする必要はない。
 けれど、もしも、演奏家としてやっていきたいと思うなら、今回の挑戦から逃げる訳にはいかないのだ。
 月森に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

『君が音楽の道を歩んでくれるなら、同じ道を歩めるかもしれない。・・・信じてもいいだろうか? 君と俺とは、同じ音楽で結ばれていると』 

 彼の言葉に頷き、同意したのは自分。
 月森はソリストを目指し、いずれウィーンに留学する。その彼と同じ道を進むということは、自分も何らかの形で演奏家になることを目指すということだ。
 最終的に演奏家になれなかったとしても、そうなるために続けていくということ。
 それが、香穂子の決意だったはずだ。
 それならば。答えは、1つ。

「判りました。この話、引き受けます」
 香穂子の真っすぐな瞳に、吉羅と茉莉は頷き、了承した。
 理事長室を出ると、全身を疲労感が襲う。
「香穂、大丈夫? なんか、大変なことになっちゃったね・・・」
 一緒に理事長室にいてくれた天羽が心配そうに香穂子を見つめる。
 香穂子は無理に笑みを作ってみせた。
「・・・うん。不安もあるけど、なんとかなるって」
「私に出来ることがあったら協力するから、言ってよ? 私はあんたと同じ普通科だから、オケのメンバーがどうのってことはよく判らないけど、コンサートの宣伝とかだったら任せてくれていいからね」
「うん。頼りにしてるよ、菜美」
 報道部に所属する天羽はいつだって、コンサートの宣伝や客数を増やすための協力をしてくれた。香穂子には頼もしい友人だ。
 香穂子は笑顔のまま、天羽と別れ、教室へと戻った。
 程なく午後の授業が始まるチャイムが鳴り、慌てて席に着く。
 教科書とノートを広げながら、香穂子は溜息をついていた。
 引き受けはしたものの、前途多難なことは目に見えている。クリスマスコンサートを終えた時点で、香穂子は来年度は音楽科へ転科することを決め、冬休みの間に両親を説得して金澤にもその旨を伝えた。
 正式に了承したという学院からの返事は3学期に入ってすぐにもらっている。
 しかし、それはあくまでも3年生になったら、の話で、今学期は普通科の生徒のまま。
 そんな自分が、音楽科の生徒の中からオケのメンバーを集めて、それを纏めるコンミスの役目を果たせるのか。
 吉羅に挑発されたような形で受けてしまったことを、冷静に戻ってみれば僅かに後悔するが、それでも、今更撤回は出来ないのだ。
 頑張るしかない。
 授業の内容は上の空だったが、香穂子は固く決意しなおした。



「・・・香穂子」
 放課後に訪れた音楽棟で、香穂子は月森と、そして何故か彼と一緒にいる土浦、冬海、加地にぐるりと囲まれた。
「蓮くん・・・それに、土浦くんたちまで、どうしたの?」
「お前、オケのコンミスやるって本当か?」
 土浦に問われ、香穂子は目を丸くした。
「え? どうして知ってるの?」
「本当だったのか・・・」
 月森も瞠目して香穂子を見つめる。
「どうしてそういう話になったの? 日野さん」
 加地に聞かれて、香穂子は吉羅とのやり取りをかいつまんで話した。
「理事長は何を考えてるんだ・・・」
 土浦の呟きに、加地が僅かに眉を顰めながら言う。
「普通科の日野さんを使って、学院の名声を高めようって魂胆じゃないかな。まあ、それだけじゃないのかもしれないけど」
「・・・何にせよ、学院の代表としてオーケストラを率いる立場になるということには変わりはないということだな」
 月森が厳しい視線で香穂子をじっと見つめてくる。
 香穂子もそれに真摯な瞳で応えた。
「うん、そういうこと。難しいのは判ってる。私が力不足だってことも。だけど、受けた以上は逃げられない。前を向いて、進むしかないよ」
「香穂先輩・・・あの、私・・・先輩のこと、応援してますから」
 まだどこか心配そうな表情の冬海に、香穂子はニッコリと笑ってみせた。
「うん、ありがとう、冬海ちゃん」
「俺たちの手が必要なら声をかけてくれ、日野。オケの方はダメでも、アンサンブルの方はいくらでも手伝うぜ?」
「うん、土浦くん。頼りにしてるよ」
「僕のビオラで役に立つのなら、いつでも声をかけて、日野さん」
「加地くんもありがとう」
 心強い仲間たちの励ましに、香穂子は勇気をもらった。
 そして。
 土浦と冬海は練習室の方へ、加地は帰宅すべく玄関の方へと去っていった後で、香穂子はゆっくりと月森と向かい合った。
「・・・蓮くん・・・」
「・・・とりあえず、練習室に行かないか。その方がゆっくり話せる」
「うん、そうだね」
 月森が予約しておいた練習室に、一緒に入る。
 中のピアノの上にヴァイオリンケースを置いて、改めて月森と香穂子は向かい合った。
「学院代表のオケのコンミスということは、この学院のヴァイオリン奏者の・・・いや、音楽科のトップに立つということだ、香穂子」
 月森は厳しい瞳のまま、香穂子に事実だけを告げる。
「普通科の君が、しかも、ヴァイオリン歴も浅い君がそれを務めるということを、快く思わない人間はたくさんいるだろう。それも、覚悟の上なんだな?」
「・・・・・うん。判ってるよ。実力ではどうしたって音楽科で長くやってきた人たちには敵わないってことは。でも、私は・・・蓮くんと同じ道を行きたいって、そう思ってるから・・・なら、逃げてちゃダメだって、思って・・・」
「香穂子・・・」
 月森は瞠目して香穂子を見つめた。
 音楽家として歩みだす決意の表れとして、今回のことを受けたのか。
 クリスマスコンサートの後で話したあの言葉を、香穂子は今まさに実行しようとしている。
 それならば、自分のすべきことは。
 月森は香穂子の両手をそっと握った。
「香穂子、俺に手伝えることはあるだろうか? 必要なら、俺は協力は惜しまない。君の音楽には、人を惹きつけるものがあると、俺は思う。それを更に磨いていけば、きっと君はコンミスを務め上げることが出来るだろうから」
「蓮くん・・・ありがとう」
 自分にも、そして他人にも厳しく、音楽科の中では1、2を争う実力の持ち主の月森の応援は、何よりの力になる。
 ことヴァイオリンに関しては、恋人だから甘くなるということがない月森だからこそ、信用出来る。
「蓮くん、アンサンブル、一緒にやってくれる? それから、ヴァイオリン、教えてくれる?」
「・・・ああ。俺で良ければ」
「ありがとう。よろしくお願いします」
 ぺこり、と頭を下げた香穂子に、月森はふっと表情を柔らかくした。
「香穂子・・・」
 月森はそっと香穂子を抱き寄せた。
 自分に出来る精一杯で香穂子を支える。やがて訪れる別離(わかれ)の時までは。
 月森は改めてそう誓った。
「では、練習を始めようか」
「うん」
 調弦を済ませて2人が奏で始めたのは『パッヘルベルのカノン』。
 やさしい旋律が練習室の窓の隙間から冬の澄んだ空へと溶けていった。




END







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