降り積もる雪のように
没頭していたヴァイオリンの練習に区切りをつけて、ひと息ついた。
新年を迎え、月森は自分の中の音がまた少し、変化していることに気づき始めていた。
「香穂子・・・俺は・・・」
自分の中に変化をもたらしている原因である、愛しい女性(ひと)の名を呟く。
ふと、視線を移した窓の向こうは、白い雪で覆われようとしている。
「雪・・・か」
この辺りでは、雪が降ることそのものが珍しいのだが、この冬は既に何度か見ている。
それだけ、寒さが厳しいということなのだろう。
やがて、月森が留学しようとしているウィーンも、寒さは厳しい。
尤も、月森は冬の寒さは嫌いではない。むしろ、夏の暑さの方が苦手だ。
だから、ウィーンの気候は自分には合っていると思う。そういう意味での不安はない。
1人暮らしという点では、苦手な家事もある程度こなさなくてはいけないので、最初は戸惑うだろう。
音楽学校での生活も然り、だ。だが、いずれも慣れれば、どうということはない筈だ。
むしろ、学ぶべきこと、己を高めることへの期待の方が、不安よりも遥かに大きい。
けれど。
たったひとつ、月森には気がかりある。
それが、香穂子のことだった。
彼女と遠く離れること。
これだけが、まだ、月森にも納得しきれていない唯一の想いだった。
「香穂子・・・俺は、君と、離れたくない・・・」
口に出すと、改めて思う。
香穂子と出会い、月森は変わった。想いを重ねる毎に、更に変化は顕著になっていった。
彼女の音を近くで聴いていると、月森の心が温かな想いで満たされる。
それだけではなく、彼女は練習を重ねることで、確実に成長していっている。豊かに、ヴァイオリンを歌わせられるようになっていきつつある。
香穂子の近くで、これからも更に成長していくであろう彼女の様子を見守れないこと。想いを交し合えないこと。
そのことが、留学という選択に僅かな躊躇いを生じさせている。
「本場で音楽を学ぶことは、俺にとって必要なことで、迷いを感じるなんて・・・俺らしくもない。だが・・・香穂子、君との時間も、俺にとってはかけがえのない、大切なものになっている・・・」
そう呟いた時。
机の上に置いてある携帯電話がメールの着信を知らせた。
「・・・香穂子」
開いてみて、送り主の名が口をつく。
『件名:雪だよ!
蓮くん、こんにちは。
今、何してる? 出来たら窓の外を見て!
雪が降ってきてるよ!
なんだか、蓮くんの音が聞きたくなってきちゃった。
明日には3学期が始まるのにね。
会いたい、かも。
なんて、迷惑かな?
香穂子』
明るい香穂子の声が聞こえてきそうなメールだ。
月森も急いで返信を打つ。
『香穂子、メールをありがとう。
雪は、丁度俺も見ているところだ。
ついさっきまで、練習していた。
俺も、君に会いたい。
君の音を聞きたいと思う。
月森 蓮』
送信して、また雪を見つめた。
吹雪、とまではいかないが、当分止みそうにない。
こんな雪模様では、互いに外出など出来ないだろう。せめて、雪が止まないことには。
足元が不安定な中に出歩いて、ケガでもしたら大変だ。
そう思ったのだが。
「ねえ、蓮くん。もし良かったら、今から、蓮くんのおうちに行ってもいい?」
程なくしてかかってきた電話で、香穂子は明るくそう言った。
月森はぎゅっと眉根を寄せる。
「香穂子・・・雪が積もり始めている。これでは、歩くのも大変だろう」
「・・・確かに積もりかけてるけど・・・このくらいなら大丈夫だよ」
「だが、うちへ来るまでには坂だってある。もしも転んで怪我でもしたら・・・」
「・・・蓮くんってば・・・心配性だね」
電話の向こうの香穂子は苦笑しているようだった。
「そんなこと言ってたら、雪の日は学校にも行けなくなっちゃうよ?」
「それは、そうかもしれないが・・・」
「あ、それとも・・・やっぱり、迷惑、かな。突然だし」
「いや・・・迷惑なわけじゃない。・・・俺が、そちらへ行こうか」
「あ、それはダメ。うちじゃ、ヴァイオリン弾けないから。蓮くんの音を聞きたいし、出来たら、一緒に弾きたいんだもの」
「それは・・・確かに魅力的なお誘いだな」
香穂子の言葉に、月森もつい、笑みになる。
2人で一緒にヴァイオリンを奏でられたら。それは至福の時間(とき)になるだろう。
「ちゃんと暖かい格好で行くから。いい? 蓮くん」
「・・・仕方がないな。くれぐれも、気をつけて、香穂子」
「うん。じゃあ、また後でね」
電話を切って、月森は階下へと降りた。
祖父母は在宅だが、両親は仕事のために不在だ。
彼女の来訪を祖母に告げて、月森はお茶を淹れる支度をしようとキッチンに向かう。
小窓から見える外は、すっかり雪景色になっていた。
香穂子が転んで怪我をするのではないかと、心配になってきて、月森は玄関へと移動し、コートを羽織って外へと出てみる。
勢いは少し落ちたようだが、やはり、雪が降り続いていた。
「香穂子・・・本当に大丈夫なのか・・・?」
月森の家と香穂子の家は、歩いて20分ほどの距離だが、近い、とも言い難い。
ただこうしてつっ立っていても仕方がないとは判っているが、月森はどうにも落ち着かなかった。
これも、香穂子と想いを交し合う以前の自分では考えられないことだ。
「・・・蓮、寒い中、来てくれるお嬢さんにすぐに温まってもらえるように、中でお茶の用意をしてあげたら? そこに立っていても仕方がないでしょう」
祖母に促され、ようやく、月森は家の中へと戻った。
「温かくて香りのいい紅茶を淹れてあげるといいわ。お菓子は、昨日いただいたケーキがあるから、それをお出しすればいいし。私が焼いたクッキーもあるから、好きなものを出して差し上げたらいいわ」
「ありがとうございます」
月森は祖母に教わりながら、香穂子のためのお茶の準備をした。
ティーポットやカップを温めているうちに、時間が過ぎていたらしい。
玄関のチャイムが響くと、月森は急いで玄関の扉を開けた。
「・・・こんにちは、蓮くん」
「・・・香穂子」
ニコニコと笑っている香穂子は、フードつきのコートを着て、可愛らしい毛糸の帽子と、お揃いの手袋を嵌めていた。
けれど、外の寒さを現すかのように、頬が真っ赤になっている。
「早く、入るといい。寒かっただろう」
「ちょっと、ね。でも、蓮くんと一緒に弾けると思ったら、嬉しくて。あまり寒さなんて感じなかったよ」
「香穂子・・・」
月森は微笑んで、彼女の手からヴァイオリンケースを受け取った。
「これは部屋の方に運んでおく。香穂子はリビングにいてくれ。すぐにお茶を淹れるから」
「あ、蓮くん、いいよ。おかまいなく」
香穂子がブーツを脱いでいる間に、月森はヴァイオリンを自室へと運び、再び降りてきて祖母がいいタイミングでお湯を注いでおいてくれたポットの紅茶をカップに注いで、ソファに座っている香穂子に差し出した。
「これを飲んで温まるといい。ヴァイオリンを弾くのはそれからでも遅くないだろうから」
「うん、ありがとう。いただきます」
香穂子は微笑んでカップに口をつける。
ふわりと、りんごの香りが広がった。
「アップルティー、ね。美味しい」
「・・・それは良かった」
香穂子の笑顔が嬉しい。
月森もごく自然に微笑みを浮かべる。
「良かったら、ケーキもあるが。もらいものなんだが、俺はあまり食べないし」
「蓮くん、あまり甘いものは得意じゃないものね」
「少しなら食べるが、ケーキ1個分もあっては多すぎるからな。君は、1つくらいなら平気だろう」
「うん。さすがに、火原先輩みたいに、一度にたくさんは無理だけど」
「・・・火原先輩は・・・凄いな、あの人は」
ずっと前に、火原がいくつものケーキを立て続けに食べる様子を見たことがある月森と香穂子は、揃って苦笑した。
「えっと・・・ケーキは、ヴァイオリンを弾いてから、貰ってもいい? 今はあまりお腹も空いてないし」
「では、そうしよう」
月森は頷いて、ゆっくりと紅茶を飲み干す。香穂子もそうしたのを確認してから、カップをシンクへと移動させ、一緒に2階へと移動した。
廊下はひんやりしているが、月森の部屋はしっかりと暖められている。
「蓮くんのおうちはいいよね、防音がしっかりしてて。いつでもこうやってヴァイオリンが弾けるんだもん」
「・・・香穂子・・・」
月森はそれには曖昧な笑みを返す。
昨年の春からヴァイオリンを始めたばかりの、ごく一般の家庭の香穂子の家に防音室がないのは、むしろ当然のことだろう。
だが、今後はそういうことも含めて、考えていかなければならなくなるかもしれない。
彼女の家族がどこまで香穂子の音楽に理解を示してくれるかは、重要な気がする。
自分がこのまま、日本にいるのなら。この家を練習場所として貸し出すことも可能かもしれないが、そうはいかない。
確実に近づいてくる、ウィーンへ旅立つ日。
それを改めて突きつけられたようで、月森はぎゅっと眉根を寄せた。
「・・・蓮くん? どうかしたの?」
突然押し黙ってしまった月森の顔を、香穂子は訝しげに覗き込む。
「あ、いや・・・何でもない。・・・調弦は、済んだようだな。リクエストは?」
月森は自分のヴァイオリンの音を確かめて、構える。
「じゃあ『G線上のアリア』がいいかな」
「・・・判った」
香穂子の音に、そっと自分の音を重ねる。
澄んだ、美しい旋律が深みを増して響き渡る。重なる音が心地よい。
出来ることなら、いつまででも奏でていたと思う程に。
香穂子への思いが、音と共に溢れていく。
窓の外で降り積もる雪のように。
旅立つまでに、少しでも多く、香穂子と過ごしたい。共に音楽を奏でていたい。
月森はそう願いながらヴァイオリンを弾いていた。
END
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