茜の空に響く音








 2人で気持ちを立て直してから、香穂子と月森は順調に文化祭への準備を進めていた。
 各アンサンブルの完成度も上がってきて、それぞれの音が綺麗に響きあうようになってきている。
「・・・だいぶ仕上がってきたな、香穂子」
 放校ぎりぎりまで練習室にいた月森と香穂子は、今日も一緒に並んで歩いていた。
「うん。蓮くんが根気よく私の拙い練習に付き合ってくれてるお陰だよ。ありがとう」
「いや・・・やはり、君が努力しているからだ。それに、俺にとっても、このアンサンブルはいい勉強になる。先輩たちや志水くんの意見は貴重だと思う」
「そうだよね。みんなで1つの曲を作り上げていくのって、大変なところもあるけど、凄く楽しいよ」
「ああ、そうだな」
 月森が穏やかな笑みを浮かべる。
 香穂子は本当にヴァイオリンを愛している。彼女の練習への姿勢や音色から、それがありありと伝わってくる。
 聴いているだけで心が満ち足りる・・・そんな音だ。
 夕焼け色の空が暖かく周囲を、そして月森と香穂子を包む。
 学院から香穂子の家へと続く道の途中に、児童公園があった。
 どう見ても学校帰り、といった感じの小学生の子供たちの歓声が聞こえてくる。
「・・・ずいぶん賑やかだな」
「そうだね。楽しそうに遊んでるね、みんな」
 香穂子が微笑みながら走る子供たちの様子を見つめる。
 公園の入り口近くには、無造作に投げ出されたランドセルが幾つも置かれていた。
「もうすぐ日も暮れるというのに、遊ぶのに夢中なんだな・・・君も、小さい頃はこんな風に遊んでいたのか」
「ん〜、そうだねー。こんな風に走り回ったりじゃなくても、友達とブランコに乗ったり、なわとびしたりはしたかな。・・・蓮くんは?」
 月森はすっと表情を厳しくする。
「俺は、こういうところでは殆ど遊ばなかった。毎日レッスンがあったら、まっすぐ家に帰るのが普通だった。・・・考えてみれば、今とあまり変わらない生活だな」
「そっか・・・蓮くんはずっと小さい頃からヴァイオリンを弾いてきたんだもんね・・・」
 月森らしいといえばらしいが、それは少し、寂しい子供時代なのではと香穂子は思った。
「あ、ねえ、蓮くん、少し公園に寄っていかない?」
「は? 公園に?」
 香穂子の言葉が意外だったのか、月森は目を瞠っている。
「・・・ダメ?」
「・・・いや、少しならば構わないが」
「なら、行こう」
 香穂子はニコッと笑って公園へと足を踏み入れる。
 月森もそれに続いた。
 比較的大きめのその公園には、ブランコや滑り台、砂場などの遊具と、ちょっとした広場とが配置されていて、ところどころにベンチなどが置かれている。周囲はバランスよく、木々が植えられていて、赤や黄色に染まった葉が美しい。
 そんな中。
「あれは・・・」
 ベンチのある一角の後ろに生えている植物の姿が月森の目に留まる。
「少し、いいだろうか?」
「うん・・・?」
 月森が歩いていく方向に、香穂子もついていく。
 ベンチの上にヴァイオリンと鞄を置くと、月森はすっと生えている植物の葉をちぎり、口元に当てる。
 ひゅう、と高めの音が空に響く。
 香穂子は目を丸くして月森を見つめた。
「・・・今も吹けるとは思わなかった」
 月森自身も驚いたように呟く。
「蓮くん、それは・・・?」
「草笛だ。よければ、教えようか?」
「うん」
 わくわくしたような瞳で見つめる香穂子に、月森はそっと微笑んでもう一枚、葉をちぎって渡した。
 香穂子も、月森の鞄の隣に自分の荷物を置いて、それを受け取る。
「葉を口に当てて、しっかり手で押さえるんだ。それで、強く吹く」
「・・・こう?」
 言われたとおりに吹いてみるが、音はしない。
「・・・そう、もう少し強く」
 もう一度挑戦してみると、小さくではあるが、月森と同じような高めの音が出せた。
「吹けたよ、蓮くん」
「ああ。それでいい」
 微笑んで頷く月森と一緒に、草笛を吹く。
 素朴なやさしい音が、茜色に染まった空に響いていく。
「・・・懐かしいな・・・父が、教えてくれたんだ」
「蓮くんのお父さんが?」
「ああ。母が横で見ていてくれて・・・いい音が出た時はやはり嬉しかった。・・・・・いい思い出だ」
 穏やかに微笑む月森を、香穂子も微笑んで見つめる。
 両親ともが名のある演奏家だということで、月森が微妙に家族と距離を置いている風に感じていただけに、こんな風な大切な思い出もあるのだと知ることが出来たのはやはり嬉しい。
 ひとしきり草笛を楽しんで、月森と香穂子は再び帰路につく。
「・・・今日、君と帰るまで、草笛のことなどすっかり忘れていた。寄り道をしなければ思い出すことなどなかっただろう。・・・寄り道も、無駄ではないんだな」
「蓮くん・・・」
 香穂子はふふっと笑う。
「今日の寄り道は『無駄』じゃなくて『ゆとり』だね」
「『ゆとり』か・・・そうだな」
 上手く演奏したい。その為には己の技術を磨くために練習を重ねるしかない。
 一分でも、一秒でも多く練習する。曲と向き合う。
 ずっとずっと、その為だけに時間を使ってきた。音楽以外は不要だといわんばかりに。
 けれど、それだけではより良い音楽は生まれないということを、月森は香穂子と知り合ってから学んだ。
 日々の些細な感動や、温かな思い。驚きや発見、時には挫折や悩み。
 様々な経験が、より音楽を豊かにしていく。
 香穂子と接し、好意を抱いた中で、月森が得たものはきっと多い。
 奏でる『音』が変わったと周囲が評するのは、そういうことなのだろうと月森は思う。
「『ゆとり』といえば・・・蓮くん、空、見て」
「空?」
 いつの間にか、深い茜色から少しずつ夜の藍色へのクラデーションに染められ、星が瞬き始めている。
「・・・こんな、色をしているんだな・・・夕暮れの空は」
「綺麗よね、とっても。・・・少し、寂しい感じもあるけど、やさしい色・・・」
「・・・ああ」
 自然が創り出す色合いの妙は、言葉では言い表せない美しさを醸し出している。
 月森と香穂子は暫くの間、空を見上げていた。
「・・・香穂子」
「何? 蓮くん」
「ありがとう」
「・・・どうしたの、いきなり」
 戸惑って、ぱちぱちと瞬きを繰り返す香穂子を、月森はやさしい瞳で見つめる。
「・・・君のお陰だ。俺がこんな風に、周りの風景に目を向けることが出来るのも、大切なことを思い出せたのも」
「蓮くん・・・」
 香穂子は月森の言葉に、ふわりと微笑んだ。
 演奏技術の高い月森には今更なのかもしれないが、こんな風に『ゆとり』を持って綺麗なものを感じたりすればきっと、彼の音はますます磨かれていくのではないかと思う。
 あまりにも高みへと行かれてしまっては追いつくことなど出来なくなってしまうかもしれないけれど。
 それでも、月森は香穂子の目標だ。
「蓮くんのヴァイオリンが聴きたくなってきた・・・」
「・・・香穂子?」
 唐突な香穂子の言葉に、月森は目を瞠る。
「夕暮れの空に、蓮くんの音が響いたらステキだろうなぁって思ったの。・・・今日は無理でも、今度、聴かせてくれる?」
 香穂子の笑みに、月森も微笑んで頷いた。
「・・・そうだな」
「明日も、一緒に練習しようね」
「ああ」
 頷きあって、月森と香穂子はゆっくりと歩き出した。 



 

END






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