アヴェ・マリア








 月森と香穂子の微妙な雰囲気に、冬海だけでなく志水と柚木も気づいていた。
「・・・ちょっと待って」
 演奏中に柚木が声を上げ、全員の手を止めさせる。
「柚木先輩」
 月森がやや棘のある視線で柚木を見つめたが、彼は少し憂いのある表情で真っすぐに見つめ返している。
「月森くん・・・今の演奏はなんだか君らしくないね。日野さんもだ。・・・ちゃんと他の人の音を聞いてるかい? 2人とも」
 柚木の言葉に、香穂子は少し俯き、月森も僅かに視線を逸らす。
「全く・・・このままじゃ、練習にならないね。今日はもうお終いにしよう。月森くん、日野さん、明日は、こんなことはないようにしてもらえるかな。僕も、暇ではないんでね」
 やる気のない者たちとのハーモニーが上手く行くはずがない。
 柚木は内心で毒づきたい気持ちを抑えて、表面上はあくまでも穏便に笑みを浮かべる。
「じゃあ、僕はこれで帰らせてもらうよ。・・・志水くんと冬海さんは? どうする?」
「僕は・・・・・もう少し、弾いて帰ります」
「あ・・・私は・・・えっと・・・べ、別の、練習室に・・・」
「そう。・・・それじゃ、失礼するよ」
 柚木が出て行き、冬海も出て行って。
 志水も、チェロをケースに片づけた。
「『弦楽四重奏』も、今日はお休み、ですね。・・・月森先輩も、香穂先輩も・・・泣かないで、下さい」
「!」
「し、志水くん・・・私は・・・泣いて、なんか・・・それに、月森くんだって・・・」
 香穂子はそう言いつつも、月森からは微妙に視線を外していて。
 志水は、そんな香穂子にゆっくりと首を振ってみせた。
「・・・いいえ。泣いてるのは、先輩たちの『音』です」
 志水の言葉に、月森と香穂子は揃って瞠目した。
「音が、泣いているので・・・全体が、哀しげに、なるんだと思います。・・・じゃあ、僕は、これで失礼します」
 チェロケースを抱えて、志水は出て行った。
 残された月森と香穂子は、暫く沈黙したまま、互いに口にすべき言葉を探していた。
「・・・香穂子」
 先に口を開いたのは、月森の方だった。
「すまない、香穂子・・・俺らしくもない失態で、迷惑をかけているな・・・」
「蓮くん・・・」
 香穂子はううん、と首を振る。
「私こそ、ごめんね・・・蓮くんが留学するって聞いて、思ってるより、動揺してたみたいで」
「香穂子・・・」
「凄いなあって思うし、蓮くんらしいとも、思うんだよ? ただ、少しだけ、ね・・・寂しいかなって、思って・・・」
「香穂子・・・」
 月森はヴァイオリンをケースに置いて、香穂子のそれも同じようにする。
 それから、彼女の手をそっと握った。
「・・・留学のことを決めたのは、春の学内セレクションが終わってからだった。今、俺にとって必要なことは海外で学ぶことだ、そう思ったから留学を決めた。この選択は間違ってはいないと思う。だが、君と・・・こんな風に想いを重ねあうことが出来て、俺は少し、迷っているのだと思う。ウイーンで学ぶことに対してではなく、君と、離れてしまうことに対して」
「蓮、くん・・・」
 香穂子は目を瞠った。
「私と、離れるのを、寂しいって、思ってくれてるの? 蓮くんも」
「・・・ああ。それに・・・こんな風に、演奏に支障をきたすような事態を招くつもりはなかったんだが、あまりにも唐突に君に知らせてしまったことに対して、俺も、少し動揺していたようだ。本当に、すまない、香穂子」
 月森は眉間に皺を寄せたまま、目線だけを僅かに下げた。
 感情に左右されて演奏が乱れるなどということは、演奏家としての失態だ。
 練習とはいえ、他の人間と共につくり上げていくアンサンブルである以上、他の演奏者に迷惑をかけてはいけない。
「演奏に支障は私もだよ。・・・柚木先輩や志水くんや笙子ちゃんに悪いことしちゃった・・・」
 香穂子は苦笑した。
「・・・でも、なんだか少し嬉しかった。遠く離れることを寂しいって思うのが、私だけじゃなくて、蓮くんもなんだって判って。・・・蓮くん、頑張ってね」
「香穂子・・・」
 月森が香穂子の方へと足を踏み出そうとした、その時。
 練習室の扉が軽くノックされ、土浦と心配そうな表情をした冬海が入ってきた。
 途端に、月森の表情が厳しくなる。
「・・・何か用か? 土浦。冬海さんも」
「・・・月森、お前、留学するんだってな」
 詰問するような口調の土浦を、月森はまっすぐに見据えた。
「・・・ああ。それが?」
「日野も、知ってるんだろ? そのこと」
「うん・・・知ってるよ、土浦くん」
「月森、お前には日本では学ぶべきことはもうないってわけか。・・・そいつは恐れ入ったな」
「・・・俺は、自分の演奏に満足できないから行くだけだ」
 どこか喧嘩腰に言い合う土浦と月森に、香穂子と冬海は口を挟むことが出来ず、ただ見ているしかない。
「・・・クラシック音楽はヨーロッパの風土に深く根ざした音楽だ。その土地に行って、その風土を知らない限り、最終的な理解は得られないと思う。・・・君は、ヨーロッパへ行ったことは?」
「ないね。それがどうした?」
「・・・香穂子、君もないんだったな」
 月森の質問に、香穂子はただ、頷く。
「クラシック音楽にたずさわる人間なら、誰でも一度はヨーロッパへ行くべきだと思う。自分の完成させるべき音楽を、そこで見いだすために。・・・少なくとも、俺はそう考えている」
 月森の真摯な表情と言葉に、土浦はムッとしたような表情のままだが、彼の意見には一理ある、と認めざるをえなかった。
「あの・・・月森先輩、私・・・凄いと、思います。月森先輩の、音楽に対する想い。あの・・・頑張って、ください」
 冬海の言葉に、月森は少しだけ、表情を緩めた。
「ありがとう、冬海さん。・・・それから、さっきは、すまなかった」
「月森、先輩・・・」
「・・・私も。ごめんね、笙子ちゃん。柚木先輩や、志水くんにも謝らなくちゃ。大切なこと、忘れちゃいけないのにね」
 月森と香穂子の表情が、先程の練習の時とは違い、落ち着いているのを見て、冬海は微笑んだ。
「・・・いえ。よかったです・・・お2人の気持ちが、通じたみたいで」
「明日は、今日のようなことはないと約束する。・・・君にも、心配をかけた、ということなのか? 土浦」
 心持ち厳しい表情になってしまうのは、ある種の条件反射なのかもしれない。
 そんな月森に、土浦の方も、やや睨むような格好になった。
「・・・いや、別に? 日野のことは多少気になったがな」
 双方とも、全く素直じゃない・・・と溜息をつきながら、香穂子は苦笑いで土浦にも謝った。
「ごめんね、土浦くんにも心配かけて。・・・笙子ちゃんから聞いてビックリしてくれたんでしょ。・・・ありがとう」
 土浦はきまり悪そうに視線を逸らした。
 それだけで、香穂子の言葉が真実だと白状したようなものだ。
 いずれにせよ、こうして気にかけてくれる仲間がいることは幸せなことだと、香穂子は思う。
 月森も、アンサンブルを組む以前(まえ)とは異なる、不思議な連帯感のようなものを土浦や冬海に感じ始めていた。
「・・・日野、明日は、全部の練習、再開だろうな?」
 誤魔化すかのようにぶっきらぼうな口調で言う土浦に、香穂子は笑みを向けた。
「勿論だよ! よろしくね? 土浦くん」
「おう。・・・邪魔したな、日野、月森」
「あの、香穂先輩、月森先輩、明日は、また、よろしくお願いします」
「うん。こっちこそ!」
「よろしく、冬海さん。・・・ところで、君は何故土浦と? アンサンブルの練習、ではなさそうだが」
 月森の言葉に、冬海は赤くなり、土浦は言葉に詰まった。
 香穂子も、土浦に口止めされていたため、月森には2人のことを話していなかったのだ。
 苦笑しながらちらり、と土浦と冬海に視線を送って、香穂子は小声で月森に打ち明けた。
「えっと・・・実は、笙子ちゃんたちは・・・」
「おい、日野!」
 土浦が慌てて止める。
「・・・そこまで隠さなきゃいけないこと? 土浦くん。悪いことしてる訳じゃないのに」
 香穂子に睨まれ、土浦は仏頂面になった。
「あ、あの・・・私は・・・梁太郎先輩と、あの・・・」
 冬海の言葉はそれ以上続かなかったが、さすがの月森も、彼女が土浦の名前を呼んだことと、耳まで赤くなった様を見れば自ずと見当がついた。
「・・・・・そうなのか」
 月森は瞠目して冬海を見、それから仏頂面の土浦を見た。
 土浦の音は、近頃聞いていないが、冬海の音は近くで聞いていて、とてものびやかになったと感じていた。
 以前のような、自信なさげな、硬い印象はすっかりなくなり、どこまでも清らかで自由な感じの音になった理由が、土浦と想いを重ねることにあるのなら、悪くないと、月森は思った。
 自分が、香穂子を想うことによって音を変化させてきたのと同じなのだとしたなら。
「・・・少し、意外な気もするが・・・冬海さん、少なくとも君にとってはいい方向なんだろうな」
 月森は冬海に僅かにではあるが笑みを向けた。
「月森先輩・・・」
 冬海もはにかんだ笑みを浮かべる。
 土浦はますます眉間に皺を寄せた。
「・・・行くぞ、笙子。じゃあな、日野、月森」
 土浦と冬海が練習室を出て行くと、月森と香穂子はお互いに顔を見合わせ、苦笑しあった。
 それから、月森はやさしく微笑んで、そっと香穂子の両手を包むように握った。
「とにかく今は、文化祭でのコンサートを成功させよう。君と俺と、そして、みんなと一緒に」
「うん、そうだね。頑張らなくちゃ」
 今はこうして一緒にいられる。共に音を奏でていられる。
 まだ先のことを考えて不安になるのではなく、今のことを考えてしっかりと進まなければ。
 大切な音楽という絆のために。リリのために。
「蓮くん、一緒に『アヴェ・マリア』を弾いてくれる?」
 香穂子が微笑む。
「ああ、いいな」
 月森も微笑んだまま頷く。
 やがて、奏でられた『アヴェ・マリア』は美しい音色で2人を包んだ。


 

END






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