感傷的なワルツ






 蓮くんが、ウィーンへ留学する。
 それは全く予測しないことではなかったけど、今、このタイミングで出てくるなんて思ってなかった。



「日野さん? どうかしたの?」
 茫然として席に着いた私に、加地くんが声をかけてきてくれた。
「・・・あ・・・ううん、どうもしないよ」
「・・・何かあったの? 月森と」
「え・・・加地、くん?」
 どうして蓮くんと何かがあったって判るの?
 私が目を丸くしていると、加地くんはフッと苦笑した。
「・・・昼休みはたいてい月森と一緒でしょ? 日野さんは。僕としては、ちょっとだけ悔しいんだけど、それでも、君が笑ってるほうがいいから、黙ってたんだけどね。でも・・・」
 そこで1度言葉を切って、加地くんは真顔になる。
「あ、勿論、それが演奏上での意見の違い、とかなら、いいと思うよ。月森の実力は本物だし」
「うん・・・そうなんだよね・・・」
 蓮くんの力は、きっとあんなものじゃない。
 もっともっと高いところへと、上っていける人だ。
 だからむしろ、当然なんだと思う。留学っていう話も。
 ただ・・・留学して、ウィーンに行ってしまうっていうことは、離れ離れになっちゃうってことだ。
 私には・・・現在の私には、留学なんて絶対に無理だから。
 もっともっと練習して、上手くなって、蓮くんみたいに弾けるようになったら、もしかしたら、出来ることなのかもしれないけど。
 だけどそんなの、一体いつの話なんだろう。
 私はまだ、蓮くんには追いつけてない。蓮くんは私の遥か前を進んでいる。
「・・・日野さん?」
 加地くんの声にはっとして隣を見る。
 明るい碧の瞳が心配そうにじっと私を見つめていた。
「月森がどうかしたの?」
「あ・・・ううん、たいしたことじゃないの。ちょっと、月森くんとの差を、しみじみと感じちゃったっていうか・・・」
「月森は月森、君は君だよ、日野さん。月森は確かに凄く上手いけど、君には、君にしかないものがある。僕は、正直に言うと月森よりも君の演奏のほうが好きだよ、日野さん」
「加地くん・・・」
 きっと、アンサンブルのことで蓮くんと意見が合わなかった、とか、そんな風に思ってくれてるんだろうな、加地くんは。
 本当は、全然的外れだけど、でも、蓮くんの留学のことを今、考えたってどうしようもないのも事実だし。
「・・・ありがとう。・・・あのね、加地くん」
「何?」
「私、文化祭でもアンサンブルコンサートをやることになったんだけど、加地くん、また一緒に弾いてくれる?」
「僕の、ビオラで?」
「うん。・・・ダメかな」
「・・・僕で、役に立つのなら」
 ほんの少し、躊躇したような様子が気になったけど、それでも、引き受けてくれたことが嬉しくて、私はようやく笑顔になれた。
「ありがとう、加地くん! 明日には楽譜を渡せるようにするね」
「うん。後で、曲名だけ先に教えてくれる? それと、メンバーと」
 午後の授業が始まったので、私たちは小声になる。
「まだメンバーは確定じゃないけど、一応教えるね。メモにしておくから」
「判ったよ」
 蓮くんのことはとりあえず脇において、私は文化祭のことを考えることにした。
 まずはアンサンブルを成功させなきゃ。
 次の休み時間には土浦くんのところへ行こう。放課後は、出来たら火原先輩と柚木先輩を捕まえて・・・志水くんと笙子ちゃんとも、話せたらいいな。
 日直の仕事も、ちゃんとやらなきゃ・・・。
 ともかく、今は勉強しないとね。
 そう思い、私は英語の教科書に目を落とした。




 土浦くんにはちゃんと了承をもらい、丁度、彼に用事があったらしい火原先輩にも話をすることが出来て、残りは3人ってことになった。
「一応柚木には日野ちゃんが話をしに来るって言っとくよ」
 火原先輩はそう請け負ってくれて、少し安心。
「火原先輩、私、今日日直なので、すぐには、お伺い出来ないかもしれないんですけど、柚木先輩を何とか止めておいてもらえます?」
「うん、少しくらいなら大丈夫だと思うよ、柚木も。教室で待ってるからね」
「はい。よろしくお願いします」
 私は火原先輩にぺこりとお辞儀をした。
「お前も、次から次へと・・・忙しい奴だな」
 土浦くんに苦笑されて、軽く彼を睨んだ。
「・・・だって、リリが元気ないのなんて、イヤじゃない。それに・・・みんなと1つの曲を演奏するのって、楽しいし」
「・・・まあ、そうだよな。アンサンブルってのも、悪くないよな」
 あ・・・ちょっと意外かも。土浦くんがこんな風に言うなんて。
 蓮くんにせよ、土浦くんにせよ、1人で弾くっていうイメージの方が強い感じだからかな。
「とにかく、よろしくね、土浦くん。土浦くんは、火原先輩と加地くんと私、の『展覧会の絵〜プロムナード』の予定だから」
「判った。お互い、頑張ろうぜ」
「うん」
 6時間目の生物の授業中に、加地くんに土浦くんと火原先輩のOKが取れたから、1曲は確定したことを伝えた。
 全部の授業が終わって、私はもう1人の日直の子と仕事を分けて、学級日誌を書き上げると職員室に届け、その足で3年B組の教室へと向かい、柚木先輩に頭を下げて参加の了承をもらった。
 それから、1年A組を覗くと、志水くんが丁度帰るところ、なのか、練習室へ行くところなのかは判らなかったけど、とにかく、掴まえたから彼にもアンサンブルの話をして、頷いてもらい。
 笙子ちゃんは今日も練習室を予約しているようだったから、そこで頼めばいい。
「思ってたより、遅くなっちゃったな・・・」
 練習棟に足を踏み入れた時には、授業終了から30分以上の時間が経っていた。
 練習室の番号を確かめながら、笙子ちゃんを探す。
 予約表にあった通りの部屋を覗くと、確かにクラリネットを吹く笙子ちゃんの姿が見えたから、扉をノックしてそおっと開けた。
 クラリネットの音と、ピアノの音が聞こえる。
 そっと身体を滑り込ませて、曲が終わるのを待った。
 浸るように目を閉じていた笙子ちゃんが最後の音を吹き終わると同時に、私は小さく拍手して。
「笙子ちゃん、ステキだったよ」
「香穂先輩・・・」
「・・・日野?」
「土浦くん・・・!」
 思いっきり瞠目してる土浦くんが、ピアノの前に座ってる。
「一緒に練習してたんだ・・・あ、もしかして、思いっきりお邪魔しちゃってる? 私」
 ちょっと悪戯な笑みでそう言うと、笙子ちゃんは真っ赤になって、土浦くんはムッとしてて。
 ものすごく判りやすい2人だ。
「でも、知らなかったな。いつの間にそういうことになったの?」
「え・・・えっと・・・あの、それ、は・・・」
「いい。言うな、冬海。それより日野、お前、冬海に話があんだろ?」
 うっわー、土浦くん、超不機嫌だわ。
 まあ、追究はまた今度にしよう。
「そうそう! あのね、笙子ちゃん。文化祭で、またアンサンブルやることになったの。笙子ちゃん、一緒に出てくれる?」
 笙子ちゃんの表情がぱあっと明るくなる。
「えっ・・・いいんですか? 香穂先輩」
「うん。『モルダウ』やりたいなって思って。それには、クラリネットが必要だから。お願いしていい?」
「はい。私、頑張ります」
「後のメンバーは、私と月森くんと志水くんと柚木先輩。出来たら、帰るまでに楽譜渡せるようにするね。まだ、暫くは一緒に練習てしてるんでしょ?」
「はい。・・・・だと、思い、ます」
 笙子ちゃんがチラッと土浦くんを見る。
 土浦くんは、相変わらず不機嫌全開。
「・・・一応、下校時間までは押さえてある。楽譜が用意できたら早めにくれ。俺も冬海も、それぞれさらっておくから。それと、月森が待ってんじゃないのか? 日野」
「あ、そうだった!・・・じゃあ、また後でね」
 私は慌ててその部屋を出て、蓮くんが押さえてくれている部屋へと向かい。そっと扉を開けた。
 途端に耳に飛び込んできたのは、今までに聞いたことがないくらい悲しげな『感傷的なワルツ』。
 一心不乱にそれを奏でているのは、蓮くんだ。
 こんな、悲鳴みたいな音色・・・初めて聴いた。
 どうして・・・こんな。
 確かに、元々ちょっと憂いを含んだような旋律ではあるけど・・・春のコンクールの時期に聴いた蓮くんの演奏は、こんな悲痛な音じゃなかったのに。
 最後の音が奏でられるまで、私は金縛りにあったかのように動けなくて。
 蓮くんが弓を下ろして、大きな溜息をつき、扉の横の壁に張り付くようにして立っている私を見つけて瞠目した。
「香穂子・・・いつの間に・・・」
「・・・どう、したの? 蓮くん・・・今の、音は・・・」
「・・・・・いや、別に・・・」
 ばつが悪そうに視線を逸らした蓮くんに、私は首を傾げた。
「・・・なんだか、悲鳴を聞いてるみたいだった・・・」
「・・・だから、泣いてるのか?」
「・・・え?」
 言われて初めて、私の頬に涙が滑っていることに気づく。
「あ、あれ? 私・・・」
「・・・香穂子」
 ヴァイオリンと弓をケースに置いた蓮くんは、ポケットからハンカチを取り出して私の頬をそっと拭ってくれた。
「すまない。・・・今の演奏は忘れてくれ」
「えっ? 蓮、くん?」
 意味が判らなくて問いかけたけど、蓮くんの表情はいつもの冷静なものに変わってた。
「だいぶ、遅かったようだが、もしかして、メンバーを捕まえてたのか?」
「あ、うん・・・全員、オッケーしてもらったよ」
「そうか。では、明日にでもこの楽譜を全員に配らないとな」
「あ、もうコピーしてもらったんだ。ありがとう」
「いや。早く練習に取り掛かれるほうがいいだろう。特に、柚木先輩と火原先輩は受験のこともある。あまり勉強の邪魔をするわけにもいかないだろうから」
「うん、そうだよね・・・」
 淡々と話す蓮くんは、いつもと全く変わりない。
 じゃあ、さっきの『感傷的なワルツ』は一体・・・?



 忘れろって言われても、きっと忘れることなんて出来ない。
 蓮くんが奏でていた音色の意味を知るのは、まだ少し先の話になる。





 

END

 

 



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