俺の人生にとって、音楽は絶対のもの。
 その筈だった。





 不透明な秋の空





 創立祭のコンサートも無事に終わり、俺と香穂子はひと息つく暇もなく、文化祭での演奏をすることが決まった。
「蓮くん、今回は3曲演奏しないとだから、早く曲を決めて、練習しないと。それに、曲によって、協力してもらう人たちにも声をかけなきゃね」
「そうだな。香穂子は、弾いてみたい曲はあるのか?」
「ん〜、そうね・・・」
 昼休みに待ち合わせた音楽室で、候補の楽譜を睨みながら、香穂子は唸る。
 まだヴァイオリンを始めて半年程しか経たない香穂子は、それでも、相当な努力を重ねて、そこそこのレベルまで弾けるようになってきている。
 元々の音楽的センスは良かったんだろう、曲を弾き始めると彼女らしい音を響かせることが出来る。
 素直で優しい、香穂子だけの音を。
「・・・これ。出来たら弾きたいな。『モルダウ』は。後は・・・『展覧会の絵〜プロムナード』を入れたら、みんなとアンサンブル出来ることになるし。それから・・・どうしよう? 蓮くんと、一緒に弾けるのがいいんだけど・・・」
 香穂子が選んだ楽曲の編成は、ヴァイオリン2本とフルート、チェロ、クラリネットの分と、ヴァイオリン、ビオラ、トランペット、ピアノだから、確かに、コンクール関係者と加地の全員が出られることになるな。
 しかし。
 香穂子が選び出したのは現在の彼女には少々手に余るレベルかと思われる曲たちだ。
「・・・いい曲ばかりだが、今の香穂子には少し難しいんじゃないだろうか」
 率直な意見を伝えてみると、香穂子は一瞬言葉に詰まって、項垂れた。
「・・・・・やっぱり、そうかな・・・まだまだ、だもんね、私は」
「・・・いや、君はよく努力しているとは思う。だが、無理をするのもどうかと、そう思っただけだ」
「・・・うん。解ってる」
 香穂子は少しだけ悔しそうに頷いた。
 俺に指摘されなくとも、彼女自身が一番自身の実力を感じている。だが、それを甘んじて受けるつもりはないようだ。
 顔を上げた香穂子の瞳は、強い想いを宿していた。
「それでも、みんなと一緒に舞台に立ちたい。先輩たちや蓮くんや、土浦くんたちに比べて、私だけが劣ってることははっきりしてるけど、それでも頑張りたいの。蓮くん、迷惑だろうけど、協力してほしい。お願い!」
「・・・香穂子」
 俺がヴァイオリンに、音楽に対して決して妥協しないことは香穂子も充分に理解してくれている。その上でのこの発言は、同じ思いで音楽に取り組みたいと言う決意の表れなんだろう。
「かなり、練習は厳しくなるが、構わないと?」
「うん。演奏を引き受けた以上、いいものにしたいっていうのは、私の思いでもあるから。蓮くん、よろしくお願いします」
 真摯な瞳で俺を見上げてくる香穂子に、俺も頷いてみせた。
「判った。・・・なら、あと1曲は、これでどうだろうか。そうすれば、3曲とも異なる曲調のものになるが」
 俺が手にしたのは『弦楽四重奏曲「アメリカ」第1楽章』の楽譜。
「弦楽四重奏なんだ・・・なら、蓮くんと、加地くんと、志水くん、かな」
「そう、だな・・・それでいいと思う。彼らが、承知してくれれば、の話だが」
「みんなには私が話してみるね、明日にでも、早速」
「ならば、俺は人数分の楽譜のコピーを手配しよう。金澤先生に頼んでみる」
「ありがとう、蓮くん」
「放課後、練習室でざっとさらってみようか。まずはどんな曲なのか知らないと始まらないだろう」
「うん。よろしくお願いします」
 香穂子の笑みに、俺も笑みで応えた時。
「おーい、月森〜」
 金澤先生の声が聞こえた。
「あ、じゃあ、蓮くん、私、早速加地くんに話してみるね。あと、掴まえられたら土浦くんにも」
「ああ」
 手を振る香穂子に頷いて、俺は近づいてきてくれる金澤先生の方へと歩み寄った。
「先生、何か」
「・・・ああ、『例の』話だ」
 先生の言葉の意味を察し、俺は僅かに眉を顰めた。
「お前さん、住む場所はもう決まってるのか?」
「・・・いえ、これから決めます」
「どこかにお世話になるにしろ、ひとりで暮らすにしろ、問題だけは起こすなよ? ・・・で、もし何かやらかしたらさっさと逃げる! これが得策だな」
 金澤先生は海外生活経験者だからな。
 しかし、微妙に釈然としない気がするのは俺だけなんだろうか。
「・・・・・ご忠告、肝に銘じておきます」
「あー、あと、学校側で必要な書類は揃えておくよ」
「ありがとうございます」
「あーあ、どいつもこいつも、若人はこう熱いんだか・・・まったくかなわんねぇ」
 呆れている、と言った言葉だが、先生の瞳はそうではなかった。
「ま、やるだけやってこい。突き進むのも悪くないさ。若いうちはそうじゃないとな。・・・ほんじゃ、書類が揃ったら連絡する。下がってよし」
「はい、よろしくお願いします。では、失礼します」
 俺はかるく会釈して、金澤先生に背を向け、音楽室の扉へと歩を進めて、はっとした。
 扉の陰に、人影がある。そして、それは。
「・・・香穂子・・・今の、話を、聞いていたのか・・・」
 もうとうに教室に戻ったと思っていた香穂子がそこにいたことに、俺は驚愕した。
 香穂子は気まずそうに俺の方へと身体の向きを変えた。
「・・・今日、日直だったのを思い出して・・・放課後、練習室に行くのが、少し遅れるかもって、伝えようと、思って・・・」
 明らかな戸惑いの表情に、俺も 困惑しそうになる。こんな風に、いきなり知らせるつもりなどなかったのに。
 だが、ここではぐらかしても仕方がない。
「そうか。・・・・・そのうち、話そうと思っていた。これが、いい機会かもしれない。留学のことは、以前から決めていた。・・・・・・行き先は、ウィーンだ。向こうで、1度ゆっくり音楽を学んでみたいと思っていた」
「そう、なんだ・・・」
 どこか茫然としたような香穂子の表情が、俺の心を締め付ける。
「驚かせて、しまったな・・・いきなり、だったから」
「うん・・・・・でも、よく考えたら、蓮くんなら、当たり前、なんだよね。音楽の世界で、ずっとやってくつもりなら。・・・でも、今すぐに行っちゃうわけじゃないんでしょ?」
「ああ、まだ先の話だ」
 そう答えると、香穂子は笑顔に戻った。
「だよね。・・・蓮くん、頑張ってきてね」
「・・・ありがとう。できるだけたくさんのことを吸収してくるつもりだ」
「・・・じゃあ、そろそろ昼休みが終わるから、教室に戻るね。・・・放課後、少し、遅れる、から」
「・・・ああ。それじゃあ」
 香穂子は何でもないように微笑んで、音楽室から去っていった。
 だが、彼女の瞳は微妙に揺らいでいたように、俺には見えた。
 コンサートを控えた香穂子を動揺させるつもりはなかった。だから、言い出せないでいたんだ、ずっと。
 留学のことは、本当に随分前から視野に入れていて、具体的に話が進み始めたのは、春のコンクールが終わってからだ。
 いずれはソリストになりたいと考えている俺にとって、本場のヨーロッパで音楽を学ぶことは必要不可欠なことだと考えていた。
 だから、父から勧められた時、迷わずそうしたいと返答した。
 それなのに。
 俺の中に、僅かではあるが躊躇いがある。
「香穂子・・・」
 俺自身の音に深みを与えてくれた、初めて女性(ひと)を愛しいと思う気持ちを教えてくれた香穂子。
 留学するということは、彼女と離れる、ということだ。
 音楽を学び、俺の音楽をより高みへと導くことは、俺が切望していること。
 けれど、香穂子の存在が、その俺に迷いを生じさせている。
「俺は、君と・・・・・」
 呟きは、始業のチャイムにかき消された。



 午後になると、晴れていた空が曇り始めた。
 雨の予報は出ていなかったが、いつ泣き出してもおかしくないような色をしている。
 香穂子は少し遅れると言っていたから、俺は自分の練習をするべく、ヴァイオリンを取り出して調弦を済ませ、久しぶりに『シャコンヌ』を弾き始めた。
 けれど、音に迷いが表れているのがはっきり判って、曲の途中で弓を降ろした。
 俺は重い溜息をつく。
 こんなことではいけない。それははっきりしている。
 だが、今の俺にはこの迷いを振り払う術が判らない。
「香穂子・・・」
 不透明な気持ちのまま、俺は微かに彼女の名を呟き、再びヴァイオリンを構える。


 奏でた『感傷的なワルツ』は悲愴な音を響かせていた。






 

END

 

 



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