月の光とやさしい音色
月はかなり西の空へと傾いている。
あと半時間もすれば日付が変わろうかという、そんな時間。
「蓮くん、かぁ・・・」
呟いてみて、やっぱりまだテレてしまう自分がいる。
それでも、窓から見える月は綺麗で。
澄んだ光を放つ、ほんの少し冷たい印象のそれは、その名を持つ男性(ひと)を思い起こさせる。
月森 蓮。
私と同じ、2年生。
そして、色々な意味で、大事な男性(ひと)。
その彼と、名前で呼び合うことになったのが今夜の出来事なんだけど、まだ、半分夢だったような気がしている。
音楽科の蓮くんと普通科の私が知り合ったのは、春に行われた学内音楽コンクールでのこと。
うちの学院に住む妖精・リリに魔法のヴァイオリンを貰うことになってしまった私は、全くの素人なのに、コンクールに参加することなってしまって。
その、参加者の1人が蓮くんだった。
小さい頃からヴァイオリンを弾いてきた彼の技術は確かなもので、素人の私が聞いても凄く上手で、素直に凄い、と思った。
あんな風に弾けたらどんなに気持ちがいいだろうって思って、見様見真似で弾き始め、魔法の力に助けられながら弾いていくうちに、私は、ヴァイオリンが好きになっていった。
同じヴァイオリンを演奏する蓮くんは、私にとって憧れであり、目標でもあり、同時に、リリの魔法の力を借りないと演奏出来ない自分を突きつけられる相手でもあった。
魔法のヴァイオリンの力を借りていても、素人の私がいきなり上手に演奏出来る筈もなく、蓮くんには何度も厳しい言葉を浴びせられた。
けれど、それは私の全てを否定するものではなく。時にはむしろ、私を励ましてくれるものでもあった。
魔法のヴァイオリンが壊れて、普通のヴァイオリンを手にしてからも、蓮くんの態度は一貫していて。
だからこそ、惹かれたんだと思う。
自分にも他人にも厳しい人だから、冷たく、無愛想な印象ばかりが前に出てしまうけど。
本当は、自分の気持ちを言葉にするのが下手で、不器用なだけでとても優しく、純粋な部分もあるんだって知っているから。
蓮くんのヴァイオリンの音が少し変わったな、と感じはじめたのは、多分、コンクールが終わって少しした頃からだったと思う。
現在の私だったら絶対に指が攣っちゃう、と思うような、技巧的なパガニーニの曲なんかを弾けてしまう蓮くんは、在校生の中では間違いなくトップクラスの腕の持ち主。
ただ、春の学内コンクールの頃は、凄く上手いんだけど、なんとなく、苦しそうに弾いているように見えることもあった。
第2セレクションの時に会った、蓮くんのお母様は、彼がコンクールとか、そういうものに縛られすぎているっておっしゃってたけど、そうだったのかもしれない。
それが、コンクールが終わって、そういう気負い、みたいなものがなくなったからなのか、別の理由があるのかは判らなかったけど、のびやかになったように聞こえていた。
そして、秋になって、王崎先輩の依頼で一緒にアンサンブルを組むことになって、練習もよく一緒にするようになって、実感した。
蓮くんの音は、確かに変わったって。
優しい響きを含む、より深い感じの音に。
だから私は、ますます蓮くんの奏でる音が好きになっていって・・・彼を好きな気持ちも、育っていってた。
時折だけど、見せてくれるやさしい笑顔と、やさしい言葉が、彼の真実(ほんとう)だって、信じさせてくれたから。
でも、それは同じヴァイオリニストとしてのものなのかと思ってた。
だからこそ、今夜の彼の『アヴェ・マリア』はあまりにもやさしくて、温かくて、驚いた。
私の心の奥底にまで染み渡るような、深い想いを感じた。
そう、彼の想いに包み込まれてしまったかのように。
だから、演奏を終えた蓮くんに、つい、言っちゃったんだよね。「月森くんも、音も大好きだと思った」って。
口にしてから後悔したって遅いんだけど、蓮くんは私の想いを受け止めて、くれて。
そして、名前で呼び合うことになった、んだよね。
ここまで考えて、やっぱり夢じゃないんだなあって実感した。
「・・・今夜は眠れないかも」
ひとりごちてもう1度、夜空を見上げる。
やっぱり、月を見ていると蓮くんを思い出してしまう。
早く眠らないと、明日も蓮くんと練習するのに。
そうは思っても、まだ耳に残ってる。
蓮くんが奏でてくれた、やさしくて、どこか甘さすら感じさせる『アヴェ・マリア』の旋律が。
今夜の蓮くんの音は、言葉よりも雄弁にその『想い』を語っていたんだと思う。
言葉にするのは確かに得意じゃないみたいだし、あまりにも周囲の嫉妬とか羨望とかお世辞に囲まれてきてしまったせいか、コミニュケーションの取り方とかは上手くない。
だけど、そんなものは些細なことだって思えてしまう程、蓮くんの演奏は人の心を掴むから。
「・・・あー、もう! 蓮くんのこと考えてたら眠れないよ・・・」
枕をぎゅっと抱きしめ、ベッドに寝転んでみた。
目を閉じるけど、そうしたら余計に蓮くんの音が響いてくる。
心地よい、いつまでても聞いていたくなるようなやさしい音色。
でも。
突然の機械音でのカノンで、それは破られて。
「メールだ」
私は起き上がって、机の上に置いてあった携帯を手に取り、メールを開いた。
「蓮くん・・・」
メールが来たってことは、蓮くんもまだ起きてるってことだよね。
文面に目を通す。
『香穂子、君はもう眠っているだろうか? もしも起こしてしまったのならすまない。俺は、なんだか眠れないでいる。明日にはまた会えるというのに、今夜のことがなんだか夢のようで』
おんなじだね、蓮くん。
私も、そうだもの。
自然と笑顔になって、私も返事を書く。
『私もなんだか眠れないの。蓮くんの音がまだ、耳元で鳴ってるよ』
送信したら、少ししてまた、メールが届く。
『俺も、君の音を思い出している』
なんだか、くすぐったい感じ。
蓮くんが私の音を思い出してくれてるなんて。
だけど、凄く嬉しいよ。
『ありがとう。蓮くん、明日も練習、頑張ろうね。私はまだまだだけど、蓮くんみたいに上手くなれるよう、頑張るから』
私にはまだ、はっきりとこれが私の音です、って言える程のものはないけど。
でも、いつか、そう言えるように努力することは続けていきたい。
蓮くんみたいに音楽の道をずっと進んでいく、とまでは考えられてないけど、ヴァイオリンを弾くことだけは止めようとは思わないから。
『練習して、技術を磨く努力を続けることは必ず君のためになる。ただ、頑張り過ぎて指や腕を痛めないようにだけは気をつけてくれ』
ふふっ、きっといつもの厳しい表情(かお)になっちゃってるんだろうな、蓮くん。
容易に想像できちゃうよ。
本来やさしい意味の言葉ですら、厳しい表情(かお)で淡々と言っちゃうから、なかなか相手に伝わらないんだよね。
でも、それが蓮くんだって、私は知ってる。
『ありがとう。指にも腕にもちゃんと気をつけるよ。練習しすぎないようにするね。また、色々教えてくれる?』
そう送ったメールにも、すぐに返事が来た。
『俺に解ることなら何でも。そろそろ、日付が変わるな。また、明日』
あ、と思ったら、12時になった。
いい加減、眠らないとね。蓮くんとの練習に遅刻したりしたら大変だし。
『うん、また明日。おやすみなさい、蓮くん』
少し名残惜しい気もするけど、携帯を閉じる。
そうしたら、またメール。
『おやすみ、香穂子』
短い一言だけど、こんな風にちゃんと言葉を返してもらえるって、本当に嬉しいことだよね。
相手が蓮くんだから、余計に。
「・・・そうだ。『アヴェ・マリア』って着メロにあるかな・・・」
明日になったら探してみよう。あったら、それを蓮くん専用の音にしちゃおう。
まだ、耳元で鳴っている蓮くんの音には敵わないのは解っているけど。それでも、私と蓮くんにとっての大切な曲だから。
携帯を机の上に戻して、私は今度こそベッドに潜った。
明日もまた、蓮くんのやさしい音を聞けることを楽しみにしながら、私はやがて穏やかな眠りについた。
END
BACK
|