月の破片かけら







 ヴァイオリンを奏でる手を休めて、そっと夜空を見上げる。
 満月に近くなりつつある月が、周囲をほのかに青く染めている。
 
 
 今頃、君は何をしているのだろうか。


 王崎先輩に頼まれて、教会のバザーコンサートでアンサンブルを組むことになった。
 冬海さんと志水くん、そして俺と君。
 このメンバーでのアンサンブルは好評で、その実績を買われた形で、君は創立祭でも演奏をすることになってしまった。
 ソリストを目指す俺にとって、アンサンブルというのは時間の無駄かと思い、最初はメンバーに入ることを断ったが、やってみると、意外と悪くないことに気づいた。
 ましてや、君との練習中に自分の気持ちに気づいてしまってからは、君と共に練習する時間は大切なものになりつつある。
 今日も、学校の屋上で君と奏でた『流浪の民』は互いの音を重ねあって美しいハーモニーを生み出していた。


 君のヴァイオリンが聞きたい。
 そんな衝動が湧いてくる。


 ふと、携帯電話がメールの着信を知らせてきた。
 表示されたのは君の名前。
 俺は急いでそれを開ける。

『こんばんは、月森くん。急にごめんね。月を見てたら、なんとなく月森くんのヴァイオリンが聞きたいな、なんて思っちゃって』

 俺と似たようなことを考えていたんだな。
 自然に笑みが浮かび、俺はそれに返事を送った。

『俺も君のヴァイオリンを聞きたいと思っていたところだ』

 
 程なく、電話がかかってくる。
「・・・はい」
「こんばんは、月森くん。ごめんね、急に」
 君のやさしい声が耳元で心地よく響く。
「いや、構わない。・・・君は、今、何をしていたんだ?」
「私? 家でヴァイオリンを練習するわけにはいかないから、暗譜しようと思って『水上の音楽』の楽譜を見てたの。そうしたら、月森くんはこれをどんな風に弾くのかなって思って・・・」
 創立祭で演奏する曲候補の1つの譜読みをしていたのか。
 時計を見ると、8時前。決して早いといえる時間ではないが。
 それでも、明日は土曜日。どのみち、君と練習する約束をしている。
「日野・・・もしも良かったら、今からうちに来ないか。家族の方の了承をもらえるようなら、迎えに行くから」
「えっ・・・今から? いいの?」
 あまりにも不躾な提案かとも思ったが、君の声は乗り気のようだ。
「ああ。祖父母はいるがじきに休む時間だし、両親は仕事で不在だ。うちの方の時間は気にしなくていい。だが、君の方は・・・」
「ちょ、ちょっと待ってて」
 慌てたような声が、保留のメロディーに変わる。
 きっと、親に俺の提案を話しているのだろう。
 明日になれば会って、一緒に練習出来るのだから、特に今夜、今にこだわる必要はない筈なんだが。
 それでも、許されるなら、今夜のうちに。
 君の音が聞きたい。
「・・・もしもし、月森くん? 遅くなり過ぎなければいいって。甘えても、いい?」
 承諾を得られたことにホッとする。
「なら、今から迎えにいくから、支度をしておいてくれ。すぐに出る」
「あ、いいよ。私が行くから」
「こんな時間に君1人で出歩くのは感心しない。それに、俺が言い出したことだから。帰りもきちんと送るから、待っていてくれ」
「・・・ごめんね、ありがとう」
 ありがとう、は俺の台詞だ。
 そう思いながら携帯電話と財布と鍵を持って、祖母に少し出る旨を伝え、外に出る。
 もうすぐ君に会える、そして君の音が聞けると思うと、自然と足が早くなった。


 
「・・・日野」
 登校の時に時々会う交差点で、君の姿を見つけ、驚いて駆け寄る。
「ごめんね、月森くん、無理言って」
 微笑む君に、俺はどうしても厳しい表情になってしまう。
「家で待っていてくれと言った筈だが?」
「わざわざ家まで来てもらうなんて、申し訳ないなって思って。それに、早く会いたかったんだ、月森くんに」
 思いがけないその言葉に、俺は瞠目した。
「日野・・・」
「・・・今夜の月は綺麗でしょ?」
 微笑みながら空を見上げる君に倣って、俺も空を見る。
 先程よりも若干高い位置になった月は、清冽な光を放っていた。
「あまりに綺麗で、光がやさしくて、ああ、月森くんの音みたいだなって思って。そう思ったら、会いたくなったの。だけど、もう夜だし、無理だろうなって思ってたから、月森くんが誘ってくれて本当に嬉しかったんだよ」
 嬉しそうな笑顔で話す君を抱きしめたい衝動に駆られ、苦笑した。
 歩きながら話そうと提案し、俺たちはゆっくりと足を進める。
「・・・俺の音は、君にはやさしく聞こえているのか」
「うん。いつもやさしくて綺麗だよ、月森くんの音は。・・・春は、少し違ってたんだけど」
「・・・冷たい音だったろう? あの頃は」
 上手く弾きさえすればいいと思っていた。音楽を楽しみたいなどとは考えていなかったあの頃の俺の音はきっと、窮屈で面白みはなかっただろうと思う。 
「うーん、『冷たい』っていうか、綺麗だけど、なんかこう、辛そうというか、哀しそうというか・・・でも、凄く上手いなって思った。凄く上手い、のは今でも同じだよね」
 出会った当初から、君は素直な感覚で俺の演奏を受け止めてくれていた。 
 音楽的な知識は殆ど持たない君だったからこその、正直な飾らない感想。だからこそ、信じることが出来た。
 その素直な感覚は、音楽の知識が増え、自身の演奏技術が向上してきつつある現在も変わらない。
「自分では、よく判らないが・・・俺の音は変わったと、最近他人(ひと)に言われる。・・・先日は、志水くんにも言われた」
「そうなんだ。冬海ちゃんも言ってたよ。『月森先輩の演奏、なんだか柔らかい感じになりましたよね』って」
「冬海さんが・・・そうか。志水くんも同じようなことを言っていた」
「・・・アンサンブルに入ってくれるようになってからかな、月森くん自身も、少し雰囲気変わったよね」
「・・・そう、だろうか」
 音だけでなく、俺自身の雰囲気も変化している?
 自覚はないが、もしもそうだとしたら。それもきっと、君のせいだ。
「うん。音楽に対する姿勢の真っすぐさとか厳しさは変わってないんだけど、でも、全体的に柔らかい雰囲気になったと思うよ」
「そう、なのか?」
 そんな風に言われたのは初めてだ。
 君という女性(ひと)を愛しいと想う気持ちが俺を変えるのだとしたら、それは、悪くないと思う。  うちに着いた俺たちは早速ヴァイオリンの練習を始める。
 最初に君が弾いて、俺が同じ曲を弾き、お互いの解釈の違いや疑問点などの意見を交換し、また弾いてみる。
 1時間半近くそれを続けて、アンサンブルとしての俺たちなりの方向性がおぼろげに決まった時点で、今夜はもう終わりにしようということになった。
「すまない。遅くなってしまったな」
「ううん、大丈夫。・・・ねえ、最後に月森くんに弾いてほしいな。何でもいいから1曲。ダメ?」
「・・・それは、構わないが・・・何故?」
「・・・月森くんのヴァイオリンが好きだから、なんだけど・・・ダメかな」
「・・・判った」
 俺の奏でる音が好きだと言われて、嬉しくない筈がない。
 君のためだけに、君だけに聴かせるために、俺はヴァイオリンを構えて、ゆっくりとシューベルトの『アヴェ・マリア』を弾いた。
 君が初めて俺の演奏を褒めてくれた曲。君との、大切な思い出。
 この曲があったからこそ、俺は君にこんなにも心惹かれることになったんだと思うから。
 君を愛しく思う、その想いを込めて、ヴァイオリンを歌わせていく。
 やさしい旋律が君の心に届くようにと願いながら。


 静かに演奏を終え、閉じていた瞼を開けると、君は瞳を潤ませ、目元を僅かに赤く染めていて。
「・・・日野?」
「・・・・・月森くん・・・今の、『アヴェ・マリア』・・・今まで聴いた中で一番ステキだった・・・やさしくて、温かくて、聴いてたら音色に包まれるようで・・・それから・・・あの・・・」
 君は更に頬までを赤くして、俺の瞳から少し視線を下げる。
「弾いている時の、月森くんの表情も・・・凄く気持ち良さそうで・・・改めて、月森くんも、音も、好きだなあって、思ったの・・・」
「!・・・それは・・・」
 恥ずかしそうに俯く君の、耳までが赤くて。
 それは、俺の『想い』が、君に届いた、ということなのか。そして、君の想いは俺と同じだと?
「・・・その・・・君のことを、香穂子、と呼んでも、いいだろうか」
 心なしか、俺の頬も熱い気がするが、君の表情を伺いながら尋ねてみる。
 君は一瞬瞠目したが、すぐにテレたような笑みになった。
「・・・うん、いいよ。そう呼んで? 月森くん」
「・・・なら、俺のことも、名前で呼んでくれていい」
「えっと・・・蓮、くん?」
「いや・・・『くん』はなくても構わないが・・・」
「でも、ホラ・・・なんとなく、テレるというか、な、慣れてない、というか、だし・・・少しずつ、頑張るから・・・ね? 蓮くん」
「嫌だ、ということでは・・・」
「ないない! それだけは違うから。・・・嬉しいよ、名前で呼んでもいいって、蓮くんが言ってくれて」
 君の恥ずかしそうな笑顔に安心して、俺はなんとも言えない充足感を味わっていた。
 微かに頭を過ぎる一点を振り払い、今は、君に想いが届いたことを喜んでいよう。


 君を家へと送り届ける道中、そっと手を繋ぎあった。
 ささやかだが、なんともいえない温かな想いが、心を満たす。
 柔らかな、月のかけらが溶け込んだかのように。
「・・・蓮くん、明日も、一緒に練習しようね」
「・・・ああ。君の家まで迎えにいこう」
「うん。楽しみにしてるね」
 確かな『約束』を交わして、俺たちは沈みはじめた月を背に歩いていった。




END







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