窓から差し込むのは眩しく暖かな春の日差し。
綺麗に晴れた空は、パステルブルー。
出窓前では、鉢植えのピンクのガーベラが可愛らしい花を咲かせている。
「・・・春だよねー」
ひとり呟いて微笑んだ時、電話の呼び出し音が鳴り響いた。
急いでそれを取る。
「はい、月森です」
『・・・香穂子、俺だ』
最愛の人の声に、自然と笑みが浮かぶ。
「・・・蓮」
『今、フランクフルトだ。これから、東京行きに乗る。待っていてくれ』
「うん、気をつけてね?」
『ああ』
心待ちにしている時間(とき)が、近づいている。
途切れた通話の余韻を噛みしめ、香穂子は静かに受話器を置いた。
優しい愛の歌
月森と香穂子が結婚したのは昨年の夏の終わり。
春にプロポーズされ、それから数か月で実際の結婚に至った。
月森が急いだのは、秋にはヨーロッパでの演奏会の予定が入っていたからだ。
結婚を機に、月森は拠点をウィーンから日本へ移すつもりでいた。しかし、仕事は圧倒的にヨーロッパでのものの方が多い。
なので、マネージャーと、妻となる香穂子とを交えて相談した結果、家庭は日本だが、ウィーンの拠点もシーズンの間は残しておき、移動距離を少なくする方向でまとまった。
要するに、秋から冬にかけての数か月は今までとなんら変わりない生活を送ることになったのだ。
シーズンに入ってしまうと、それが終わるまで結婚など出来ない。
そう考えた月森は迅速にコトを運んだ。
そして、親族と、ごく近しい仲間たちのみの立ち合いで、2人は結婚式を挙げた。
ドイツ在住の土浦は、帰国出来ずにメッセージだけを冬海に託してきたが、加地や火原、志水に天羽、金澤と柚木も出席してくれたし、王崎もツアーの合間を縫って、駆けつけてくれた。
その後、数日を日本で過ごし、新婚旅行と仕事関係者への披露を兼ねて、月森と香穂子は渡欧し、香穂子は半月経たないくらいで1人、帰国した。
年末年始は月森も帰国したが、その後また渡欧し、ようやく今日、向こうでの仕事を終え、戻ってくることになったのだ。
本当は、向こうを拠点にする方が良いのだろうが・・・香穂子にも都合がある。プロのソリストとしての道は諦めたが、いちヴァイオリニストであることは継続したくて、プロの交響楽団のオーディションをいくつか受けた。残念ながら、それらも落ちてしまったのだが、ある市民オケのメンバーにはなることが出来た。
そこでヴァイオリンを続けながら、また、オーディションの機会を狙いつつ、プロになる道を模索中、というところである。
ソリストの道を選ばなくとも、香穂子がヴァイオリンを続ける決意をしたことは、月森にとって喜びであったし、彼女の選択を応援すべく、家庭を日本に置くことを決めたのだった。
「そろそろ、羽田に着く頃かな・・・」
時計を見上げて、香穂子はひとり呟く。
1月に月森を送り出した頃はまだ寒くて、コートや手袋がかかせなかったのに、今は桜も終わり、昼間は汗ばむこともある。
そんなに長く会えていなかったんだと思うと、結婚しても独身の頃と大差ないような気もするが、それでも、間違いなく自分のいる家に帰って来てくれるのだと思うと、やはり結婚したのだな、とも思う。
「ともかく、今日は頑張らなくちゃね。蓮のために」
特に狙った訳ではないのだろうが、今日は4月24日、月森の誕生日だ。
甘さ控え目のいちごのレアチーズケーキは昨日のうちに作って、冷蔵庫に入れてある。
食べる前に、少し飾り付けをすれば完成だ。
食事は和食に、とも思ったが、ケーキと和食、というのがいまいち結びつかなかったので、それは明日にしてもらって、今日はローストビーフのサラダと海老と白身魚のフライ、ロールパンという感じにしてみた。
ロールパンも、生地はホームベーカリーで捏ねてもらったが、香穂子が焼いたものである。
ローストビーフは美沙からのいただきものだ。
フライの下ごしらえも済ませてあるし、月森が帰宅したらゆっくり作ればいい。
羽田からこの横浜の自宅までは1時間半、というところだろう。夕方には帰ってくる筈だ。
洗濯物を取り込んでたたんでしまうと、少し時間が出来た。
香穂子は少し思案してから、玄関の鍵をかけ、ヴァイオリンを取り出した。
調弦をしてから、そっと弓を乗せる。
月森を想うと、自然と紡ぎだされたメロディーは『感傷的なワルツ』。
それが終わると『カンタービレ』を奏でる。
月森に憧れて、追いかけたくて、必死に練習していたあの頃を思い出しながら。
追いつくことは到底無理でも、少しだけ、並んで立つことに自信が持てるようになった今でも、こうして練習して。
スタートが遅かった自分には、難しい部分が多すぎて、何度も挫折しかけたけれど、ヴァイオリンを続けてきて、本当に良かったと思う。
一度弓を置き、うっすらとにじんだ汗を拭いて、再度調弦をし。
ゆったりと紡ぎ出したのは、シューベルトの『アヴェ・マリア』。
香穂子の原点ともいえる曲。
ヴァイオリンの音の美しさに感動し、月森の音色に魅せられた、すべての始まりのメロディーを、香穂子はやさしく、包むように奏で上げていく。
目を閉じたまま最後の音を弾き終えて、ゆっくりと弓を下ろすと、拍手が聞こえて、香穂子はぎょっとして目を見開いた。
「いい演奏だった」
「蓮!」
香穂子は慌ててヴァイオリンを降ろし、ケースに置く。
「香穂子、慌てなくていい。ヴァイオリンは丁寧に」
「わ、解ってます!」
そっと丁寧に扱い、弓もふわりと置いて、香穂子は笑顔の月森に駆け寄った。
「お帰りなさい、蓮」
「ただいま、香穂子」
月森は笑みのまま香穂子を抱きしめ、口づける。
軽く触れ合うだけのものから、深いものへと、離れていた時間を埋めるかのように熱いキスを交わし、見つめ合う。
「やはり、いいな・・・帰ってきて、一番に君の顔を見られるのは」
「蓮・・・予定より、早いよね?」
「ああ、運よくひとつ早い便に乗れたんだ。ただ、それも少し到着が遅れたので、この時間に」
「そうだったの。でも、会いたかったから、嬉しい」
「俺も君に会いたかった」
「蓮・・・」
再び、やさしいキスを交わし、月森は視線を彼女のヴァイオリンへと向けた。
「何を想って弾いていたんだ? さっきの『アヴェ・マリア』は」
「それは・・・勿論、蓮のことだよ」
少しだけテレながら応えると、月森は一瞬目を丸くし、それから柔らかな笑みを浮かべる。
「そうか、俺のことを・・・ありがとう、香穂子」
「だって、今日は蓮の誕生日でしょう? おめでとう、蓮」
満面の笑みで言われ、月森は再び目を丸くした。
「そう、か・・・今日、だったな」
「また忘れてた?」
「ああ・・・だが、いい時に帰ってこられたようだ」
「ホントよね。今夜は腕を振るうからね? 期待してて?」
ふふ、と笑う香穂子に、月森も笑みを戻す。
「なら、香穂子・・・ひとつ、願ってもいいだろうか」
「何?」
「君と何か弾きたい。そうだな・・・久しぶりにあれはどうだろう」
「リリにもらったやつね?」
「ああ」
月森は自分のヴァイオリンを持ってきて、ケースから取り出す。香穂子も、再びヴァイオリンを構えた。
調弦をし、それぞれの目で合図をして奏でるのは『愛の挨拶』。
2人が紡ぐ、優しい愛の歌は、春の夕暮れにふわりと溶けていった。
END
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