「香穂子、ベルリンに来ないか」
 月森からそんな電話が入ってきたのは、桜の花が散った頃だった。










ロマンス 第二番











 香穂子と冬海は会場に足を踏み入れて、ドキドキしていた。
 5月も半ばを過ぎた今日は、土浦の留学先である音楽学校の定期演奏会。
 演目はブラームスの交響曲一番と、シベリウスのヴァイオリン協奏曲。
 シベリウスの方で、土浦と月森が共演するからと知らされ、しかも、2人は招待されたのだ。
「何だか、凄いね、笙子ちゃん」
「はい・・・き、緊張、します」
 学生オケだから、比較的気軽に楽しめるように設定されているらしいが、それなりにおしゃれな服装の客が多い。
 香穂子も冬海もワンピースを着ているから、違和感はないのだが。
「カホコ、ショウコ、そんなに硬くならなくても大丈夫だよ」
「ルド、クリス」
 今回、空港まで迎えに来てくれたのは、ウィーンの音楽学校で月森と共に学んでいた、ルドルフ・シュタイナーとクリスティーネ・コーエンだった。
 2ヶ月ではあったが、香穂子も一緒に学んだ仲なのでよく知っている。
 ルドルフとクリスはそれぞれプロとして活動を始めているが、昨日、今日はたまたまオフだったこともあり、月森の演奏を聴きにきた。そこで、彼に頼まれて、香穂子たちを案内してくれたのだ。
「開演までまだ少し時間があるけど、席に行く? それとも、あちらでお茶でも?」
 クリスの言葉に、香穂子は冬海に問いかけた。
「どうする? 笙子ちゃん。気持ちを落ち着かせるために何か飲む?」
「あ、えっと・・・紅茶があれば、少し、飲みたいです」
「そうだね。私もちょっと飲んだ方が良さそう」
 香穂子は微笑んでクリスに伝える。
「クリス、紅茶もあるよね?」
「ええ、勿論。じゃあ、行きましょうか」
 カフェスペースに移動して、香穂子と冬海は紅茶を、ルドとクリスはコーヒーをそれぞれ注文し、飲む。
 レモンを少し落とした紅茶が、香穂子たちの過度な緊張をほぐしてくれた。
 ドイツ語を実際に話すのが久しぶりな香穂子は時々、上手く伝えられなくて身振りや手振りも加えながら、クリスたちと談笑している。
 冬海は最低限のドイツ語しか話せないので、香穂子たちの話を隣で聞いていた。
「そういえばカホコ、レンが今日をとっても楽しみにしてたよ。君に会えるからかと思っていたら、演奏出来るのも楽しみらしい。今日のコンダクター、リョータローはレンのライバルなんだって?」
 ルドルフの言葉に、香穂子はふふ、と笑う。
 冬海も、土浦の名前が出てきたことで、自然とルドルフに視線を向けた。
「うん、そうね。日本にいたころから、2人はお互いをライバルだと思ってたよ。年も同じだし、演奏レベルが高かったから」
「演奏って、リョータローはコンダクターだろ?」
「うん、今はね。でも、彼はピアノも弾けるんだよ。出会った時はヴァイオリニストとピアニストだったんだ」
「・・・へえ」
 自身もピアニストであるルドルフは、その言葉に大いに刺激されたらしい。
 俄然、土浦に対する興味が増したようだ。
 そうこうしているうちに、開演時間が近づいたので客席へと移動する。
 香穂子と冬海は隣同士の席で、2人を挟むようにしてルドルフとクリスが座る。
 位置はホールの丁度真ん中辺りのやや前側で、舞台がそれなりによく見えた。
 最初はブラームスの一番。こちらの指揮者は土浦ではなかった。
「土浦くんはシベリウスの方だけなんだね」
「そうですね」
 小声でそっと囁き合いながら、香穂子と冬海は演奏に聴き入る。
 危なげなく、無難なまとまりで、それなりに気持ち良く聴けた。
 10分の休憩の後、いよいよシベリウスのヴァイオリン協奏曲となる。
 オケメンバーが着席すると、土浦が袖から出てきて、一礼する。
 そして、月森の登場だ。
「・・・先輩」
 冬海の微かな呟きに、香穂子はやさしく微笑んだ。
 彼女と土浦は8ヶ月振りの再会、ということになる。自分と月森も、会うのは大方半年振りだが、自分たちは遠距離恋愛になってもうかなりの年月が経っている。
 でも、冬海たちはそうではない。きっと会いたい気持ちは募っていただろう。
 そんな風に思いながら、香穂子は改めて、舞台の上に立ち、調弦の具合をチェックしている月森を見つめた。
 それが終わり、月森は土浦へと合図を送る。
 土浦がそれに応える仕草が僅かながら見られて。スッとタクトが振り下ろされた。
 ごく小さな、それでいてピン、と張りつめたような冬の空気を思わせるヴァイオリンが響きだす。
 やがて重なるオケの音も美しい。
 香穂子は言葉どころか、瞬きすら忘れて、月森の演奏に魅入られていた。
 こんなに美しいシベリウスを聴くのは初めてだ。
 昨年末に聴いたアヴェ・マリアやG線上のアリアなどの音よりも、更に深みと清冽さが増しているように思う。
 これがプロとしての月森の力。
 飽くことのない音楽への探求心が、厭わない努力が、月森の音を磨き、高みへと上らせていく。
 少しでも近づきたいと願っているけれど、到底敵わないだろう。
 そう、思ってしまう程の演奏を、月森はしている。
 途中、オケの方のほんの僅かの音の乱れもあったが、月森の音がブレることは一切なく。
 演奏が終わった時には、会場は大きな拍手に包まれた。
 香穂子も、半ば茫然としながらも拍手をし、立ち上がった。
 土浦が、そして月森が頭を下げると、拍手は更に大きくなり、メンバー全員が退席するまでそれは続いた。
「カホコ、ショウコ、マエストロがお呼びだ」
 ルドルフに声をかけられ、通路の方を見ると、確かにマエストロ・ヴェルナーが笑顔で手招きをしている。
 2人は挨拶もそこそこに、楽屋に連れて行かれた。途中で花束を渡されて、それを月森と土浦に手渡すように伝えられる。
 楽屋の扉が開かれるのを、香穂子と冬海は緊張しつつ見守った。 
「レンもリョータローも、みんなもよくやってくれた。いい定演になったな」
 マエストロ・ヴェルナーが声をかける。
 彼が花束を抱えた女性を2人連れているのを見て、月森は微かに頷き、土浦は驚愕した。
「な、まさか・・・!」
「レンとリョータローにプレゼントだ。・・・さあ」
 香穂子と冬海は、ヴェルナーに言われて前に進み出た。
「蓮くん、土浦くん、ステキな演奏だったよ」
 香穂子がまずそう言い、月森に花束を渡す。
 月森は今までの、どこか硬い表情を一変させ、やさしい笑みで香穂子を見つめる。
「ありがとう、香穂子、来てくれて」
「ううん、こちらこそ、ありがとう、招待してくれて。・・・ほら、笙子ちゃんも」
 香穂子にそっと背中を押されて、冬海ははにかみながら土浦の前に立った。
「先輩、あの・・・凄く、ステキでした。私・・・凄く、感動して・・・」
 そっと花束を差し出す冬海に、土浦はまだ瞠目したままだった。
「・・・・・どう、して、ここに・・・?」
「彼女たちを呼んだのは俺とマエストロだ」
 土浦の疑問に答えたのは月森だった。
「お前と先生が?」
「ああ。君と俺の共演が決まった時から、香穂子を招きたいと思っていた。だが、冬海さんもきっと聴きたいんじゃないかと思って、マエストロに相談したんだ。それで、こういうことに」
 さらりと言う月森と、ニコニコした笑顔のヴェルナーに、土浦はすっかりしてやられたという感じの表情になり、髪をぐしゃりと握った。
 それでも、土浦は笑みを向けた。
「・・・ありがとな、笙子。・・・こんな遠くまで来てくれて」
「いいえ! 私・・・来られて良かったです。ずっと・・・ずっと、先輩に、会いたかったから・・・」
 冬海の瞳が僅かに潤む。
「・・・それは、俺もだ、笙子。元気そうで、良かった」
 冬海を見つめる土浦の瞳のやさしさに、周囲の誰もが、彼女が特別な存在なのだということを知り、ある者はニヤリと笑い、ある者は溜息をつき、肩を竦め・・・さまざまな反応をした。
 そういった周囲の視線から少し外れて、月森は香穂子をじっと見つめる。
「・・・いいな、その服。君によく似合っている」
「あ、ありがとう・・・選んだ甲斐があったかな」
 香穂子は少しだけ照れて笑う。
「ルドルフとクリスにお礼を言わなければ」
「うん、2人が迎えに来てくれてたのには吃驚したよ。でも、心強かった。ありがとう、蓮くん」
「・・・では、俺はそろそろ着替えてくる。君はどうする?」
「あ、笙子ちゃんと一緒に蓮くんのところに行くね」
「判った。ここの隣だから、暫くしたら来てくれ」
「うん」
 月森が彼の楽屋に移ると、香穂子は冬海に視線を送る。すると、彼女は土浦の花束を預かっているところだった。
 土浦もこれから着替えるのだろう。
「笙子ちゃん、楽屋の外に出ていようか」
「あ、はい」
 声をかけると、冬海が頷いたので、2人でそこを出る。
 少しして、隣の扉をノックすると、着替えを終えた月森が顔を出した。
「ここはあまり広くないから、ホールの入り口の方に移動して土浦を待つ方がいいだろう」
 月森の提案で、3人は場所を移した。
「月森先輩、招待して下さって、ありがとうございます」
 冬海が改めて頭を下げた。
「いや、折角の機会だから、演奏は勿論だが、君も土浦に会いたいんじゃないかと思ったんだ」
 月森が穏やかな笑みで応える。
「はい・・・凄く、会いたかったんです。だから、とても嬉しくて・・・」
「良かったね、笙子ちゃん。私も気持ち、凄く解るよ、同じだったもの」
 香穂子の言葉に、月森は少しだけ肩を落とす。
「そう、だな・・・君にも、たくさん辛い思いをさせているな、香穂子」
「ううん、それはきっと、必要なことだったんだよ、蓮くん。だから気にしないで」
 そんなことを話しているうちに土浦と合流することが出来たので、花束や着替えなどの荷物をホテルに置きに行き、そこから2人ずつに分かれることになった。
 明日には、マエストロ宅で顔を合わせる約束になっている。
 月森の泊まっている部屋に招かれた香穂子は、彼がヴァイオリンケースをそっとテーブルの上に置くなり、ぎゅっと抱きしめられて口づけられた。
「香穂子・・・会いたかった」
「・・・私も」
 何度も何度も確かめるようなキスを繰り返し、互いの温もりを感じあう。
 下手をすればこのまま全てを奪ってしまいそうになる衝動をどうにか抑えて、月森が香穂子を解放する頃には、彼女も相当ぼんやりとしてしまっていた。
「・・・すまない、香穂子」
「・・・・・ううん。・・・そうだ、聴いてくれる? 約束してたもの」
 思い出したように香穂子が口にしたことに、月森は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ。楽しみにしていたんだ、実は」
 4月の半ばに、今回の誘いの電話をした時。
 香穂子から、誕生日プレゼントに欲しいものはないかと尋ねられ、それならば、会えた時に演奏を聴かせてほしいと頼んでおいたのだ。
「ひと月遅れのプレゼントだけど、聴いてね」
 香穂子が奏でるのはベートーヴェンの『ロマンス 第二番』。
 彼女らしいやさしさと温かさに満ちた音色は、月森の心に沁みわたり、深い満足感と穏やかな幸福感をもたらしてくれる。
 叶うならばずっとずっと、この音色に包まれていたい。
 あまりの心地よさに、月森は香穂子が演奏を終えたことにも気づかず、目を閉じていた。
「・・・蓮、くん? 寝ちゃった?」
「・・・いや、起きている」
 心配そうな香穂子の声に反応して、月森はゆっくりと目を開けた。
 そして、微笑む。
「ありがとう、香穂子。また、更にいい音になったな」
「ホント? 良かった、喜んでもらえて」
 香穂子も笑顔になった。
「遅くなったけど、お誕生日おめでとう、蓮くん」
「ありがとう、香穂子。君にこうして直接祝ってもらえて何よりだ」
 月森は香穂子の手を引き、もう一度口づけた。
 
  
   

 

END







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