春の歌






 月森がウィーンに来て4度目の春。
 4月には月森の誕生日がある。しかし、今年もそれを意識する暇もない程の多忙さの中に、彼はいた。
 何度かのリサイタルとその準備、オーケストラとの共演の準備、学校の卒業課題。練習に次ぐ練習の日々。
 少しずつではあっても、プロのヴァイオリニストとしての歩みを始めている以上、これは当然なのだろう。
 演奏を聴きに来てくれる聴衆を満足させるだけの演奏をすること。
 演奏で稼ぐというのは、常にそれを要求されるということだ。
 それにはやはり、今まで以上の日々の鍛練が欠かせない。
 でも、それだけでは駄目だということも、月森は知っている。
 弓をおろして、深く息を吐く。
 ヴァイオリンも肩から外し、そっと机の上に置いた。
 そこに飾られた、ナチュラルな木製のフォトフレーム。それを目にして、月森はふっと表情を緩めた。
「香穂子・・・」
 誰よりも愛しく、大切な恋人。月森の音楽に、多大な影響を与えてくれた、かけがえのない存在。
 ただ上手く弾ければいいと思っていた月森に、そうではないことを教えてくれた。香穂子がいたから、彼女と出会えたから、現在の自分がある。
 しかし、現在は香穂子へのメールも途絶えがちで、気にはなりつつもどうしようもない状態だ。
「君は今、どうしているんだろうか・・・」
 ひどりごちて、フレームの中の彼女の顔を指でなぞる。
 香穂子は大学3年目を迎えている筈だ。
 昨秋は国内の学生コンクールで準優勝を果たしたと聞いた。確実に、着実に力をつけてきている。

「・・・蓮くんにはまだまだ及ばないよ」

 彼女はそう言うけれど、彼女の音は、人の心を惹きつける魅力を持っている。
 そうでなければ、ヴァイオリンを始めて数年の彼女がコンクールで入賞、などということは難しかっただろう。
 そんな風に想いを馳せていたら、香穂子のヴァイオリンが聴きたくなってきた。
「・・・君の音は、どんな風に磨かれているんだろうな・・・」
 そう呟きながら、綺麗な空色のドレスに身を包み、ヴァイオリンを手に微笑んでいる写真の香穂子を愛おしそうな瞳で見つめた。
 これは昨年の春に日本で撮られたもの。慌ただしかったが、彼女と一緒に過ごした僅かの時間は貴重なものだった。
 簡単に会えない距離に身を置くことを決めたのは月森の方だから、寂しくはあっても仕方がないと考えている。
 だが、香穂子の方にはそれにつき合う義務はないし、仮に彼女の気持ちが離れてしまうこがあったとしても、仕方がないだろうと思っていた。
 けれど、香穂子は変わらずに、月森を想ってくれている。
 そのことがどれ程、月森の力になっていることか。
「香穂子・・・君に・・・」
 会いたい。
 叶うことならば。

 無論、それはただの願望でしかないことは嫌という程、解っているが。


 不意に、電話が鳴りだした。
 月森は徐にそれに出る。
「Hallo」
『・・・蓮くん?』
「・・・香穂子」
 思いがけない、しかし、切望していた懐かしく愛しい声に、月森は目を見開く。
『ごめんね。練習中だった?』
 僅かに苦笑したような声で言った香穂子に、月森はふっと肩の力が抜けていくのを感じた。
「・・・いや、丁度休憩していた。そちらはもう、遅い時間じゃないのか」
 ウィーンは現在、午後4時半過ぎ。日本は夜の11時半過ぎだ。
 そんな遅い時間に起きていて、しかも、国際電話などして大丈夫なのか。
 月森は香穂子を思いやり、ついつい眉根を寄せてしまう。
『あ、うん、確かに遅いんだけどね。明日はお休みだし、今夜は両親が出かけてていないんだ。お姉ちゃんと2人なの』
「そうなのか」
 月森は少し納得し、頷いた。
 電話の向こうには見える筈がないのに、つい、行動してしまうことに気づき、小さく苦笑する。
 弾んだ香穂子の声からは、彼女の楽しそうな表情が想像できる。
『うん。だからね、お姉ちゃんに言って、ちゃんと許可もらったんだ。だから、大丈夫』
「なら、いいが。しかし、翌日が休みだと言っても、あまり生活のリズムを乱さない方が良いのではないのか?」
 ついつい、そんな説教じみた言葉を発してしまう月森に、電話の向こうの香穂子がクスッと笑ったのが聞こえる。
『蓮くん・・・ありがとう、心配してくれて。でも、どうしても蓮くんの声が聞きたくなったの。・・・迷惑、だったかな』
 遠慮がちになった最後の方の言葉に、月森はふっと微笑む。
「いや、そんなことはない。・・・俺も、君の声が聞きたいと思っていた。君のことを考えながらの、休憩だったから」
 そう。
 香穂子に会いたいと思っていた矢先の、この電話。
 嬉しくない筈がなかった。
『蓮くん・・・ホントに?』
「ああ、本当だ」
『良かった・・・』
 香穂子が息をつくのが伝わってきて、月森はますます愛しさが募っていく。
「・・・香穂子、君は変わりないか? 最近、なかなかメールも出来なくて・・・すまない」
『ううん、それは仕方ないよ。蓮くん、忙しそうだもん。私は、特に変わりないよ。今年も、コンクールに挑戦する以外は』
「そうか、今年も、頑張るんだな」
 彼女の頑張りならば、いずれは優勝することだって夢ではないだろう。このまま努力し続ければ。
『うん・・・かなり、ハードルは高いんだけどね』
 香穂子が苦笑している気配が伝わり、月森は少しの間思案した。
「・・・もしかしたら、以前、土浦が優勝したコンクールに?」
 土浦が高3の時に出場した、一般向けの大きなコンクール。それに出るというなら、確かに今までよりもハードルは高いかもしれない。
『うん、そうなんだ。私も、私なりに頑張ってるつもりだけど、学生コンクールでも1位を取ったことがない私が、出てもいいのかなあって思うこともあって・・・』
「だが、やってみなければ判らない。そうだろう?」
 香穂子の実力が、コンクールに出場出来るには及んでいないのなら、教師が止めるだろう。資格があると踏んだから、エントリーを認めたのだろうから。
「先生方が出場に反対されていないなら、それは、君に資格があるということだ。君らしい演奏をすればいい」
『・・・うん、そうだね。ありがとう、蓮くん』
 言葉だけで香穂子の助けになれるとは思わないが、少しでも不安を払拭出来ればいいと思う。 
 耳に心地よい、やさしい声。
 いつまでも彼女の声を聞いていたいと思うが、そうはいかないだろう。
「香穂子、何か、用があったのではないのか? 君から電話が来るということは」
『あ、うん・・・でも、それはもう少し待って。まだ、ちょっと・・・』
「・・・香穂子? 一体・・・」
 用事があるから電話をくれたのは間違いなさそうなのに、それを口にしようとしない香穂子に、月森は怪訝な表情になった。
 そんな月森の雰囲気が伝わったのか、香穂子が慌てたように話を続ける。
『あのね、クリスやルドは元気? もうすぐ、卒業でしょう?』
 月森のクラスメートを愛称で呼ぶ香穂子に、眉間に寄った皺も緩む。
「ああ、2人とも元気だ。クリスも昨年、コンクールで優勝してプロとしての活動を始めたからな。ルドルフはピアノではなく、作曲の方で入賞して、そっちの仕事も始めている」
『え〜、凄いね! さすがだなぁ、やっぱり』
 弾んだ声が聞こえてくる。きっと、香穂は今、微笑んでいるだろう。
「そうだな。ルドルフは今後、クリスの伴奏者として演奏して、作曲家として活動していくつもりらしい。俺の伴奏も頼んではあるが」
『ルドのピアノと蓮くんのヴァイオリン、いい感じだったものね。私、2人の演奏、好きだったよ。クリスとルドのもいいなって思ってたけど』
「いずれまた、君にも聞いてもらいたい。そう出来るよう、努力する」
 現在はまだ無理でも、いつか、日本でもプロとしての演奏会が出来たらいいと、月森は思っている。
 出来るだけ早く、それを実現させられるような自分でありたい。
 そう考えながらふと、時計に目をやると、後5分ほどで5時になろうとしていた。
 さすがに、長電話に過ぎるだろうと、月森は瞠目する。
「香穂子、名残惜しいが、やはり、そろそろ・・・」
『えっ、でも、私、まだ・・・』
 香穂子の声は不満そうだ。
「・・・しかし・・・そうだ、一度切って、こちらからかけ直そう。それならばもう少し、話していられる」
 彼女の側にだけ、電話代を負担させるのはどうかと思い、月森は提案した。
『えっ、でも・・・いいの? 蓮くん』
「ああ。俺も、出来るならもう少し、君と話していたい。・・・では、一度切るから」
『うん。すぐに取るからね』
 一度通話を切って、月森は彼女の番号を押す。ワンコールあるかないかくらいで、それは再び繋がった。
『蓮くん、ごめんね。気を遣わせちゃって』
「いや、すぐに気づくべきだった。すまない」
『ううん・・・なんかね、申し訳ないなあって。これじゃあ、何だか・・・』
 話している間に、香穂子の背後で短い音楽が流れる。
 電子音のアラームのような感じだった。
「今のは・・・?」
『うん、12時になったところ。そっちはまだなんだけど、こっちでは日付が変わったの。蓮くん、お誕生日おめでとう』
「・・・香穂子」
 月森は目を瞠る。
 そして、カレンダーに目をやると、確かに、今日は23日だ。
 何故、香穂子が電話をくれたか、その意味がようやく解った。
「・・・ありがとう、香穂子。君の気持ちが、何より嬉しい」
 月森はごく自然に、柔らかな笑みを浮かべていた。
『・・・ううん。本当は言葉だけじゃなくて、もっと色々、伝えられたらいいんだろうけど・・・あのね、もう少し、時間大丈夫? 夜中だから、生は無理なんだけど、昨日、録音してもらった曲を、聞いてもらえたらなって思って』
「君の演奏が聴けるのか。楽しみだ」
『じゃあ、このまま聞いてね』
 程なく聞こえてきたのはメンデルスゾーンの「春の歌」。
 いつだったか、学院の屋上で香穂子に弾いて聞かせたことがある曲だ。
 とても暖かな、春を喜ぶような伸びやかな音。 
 全てを愛しむような香穂子の想いが、月森の心にじんわりと染み込んでいく。
 ああ、愛している、誰よりも。
 そんな告白がすんなりと出てきそうだ。
 曲が終わってからも、月森はその余韻に目を閉じて少しの間、浸っていた。
『・・・蓮くん? えっと・・・どう、かな』
 遠慮がちの言葉に、月森は現実へと引き戻され、そして、初めて気づいた。
 頬を滑る感触に。
「・・・ありがとう、香穂子・・・君の、想いが、伝わってきた。本当に、豊かにヴァイオリンを歌わせられるようになったんだな」
 努めて声を平静に保ち、月森は感謝と感想を伝えた。
『ホント?・・・なら、頑張るね、コンクールも。初めての曲もあるから、不安だけど・・・でも、私なりに精一杯、弾けるように』
「・・・ああ。俺も、負けないように努力する。本当に、ありがとう、香穂子。いつも、君を想っている」
『私もだよ、蓮くん。・・・じゃあ、また』
「ああ。おやすみ、香穂子」
 通話を切った後も、月森は暫し、香穂子のやさしい声と、心を揺さぶり、涙まで引き出した彼女の音に想いを馳せていた。


 
 



END







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