雨の歌






 4月24日は月森の誕生日。
 こうして日本とウィーンに離れ離れではあるが、香穂子は自分に出来る精一杯のお祝いの気持ちを彼に贈ろうと決めていた。
 昨年は思いがけず、短期留学というチャンスを得て、月森本人に直接お祝いを伝えることが出来た。
 今年はさすがにウィーンへ行くということは出来ないだろうから、何かを送る、という形になるだろう。
 そう思っていたのだが。



「えっ・・・蓮くん、戻ってくるの? 日本に?」
『と言っても2日だけだ。父の会社の関係のレセプションに出席しなければならないんだ。その機会を利用して、取材にもいくつか応じることになっている。あまり自由な時間は取れないんだが・・・』
 月森からそういう電話が入ったのが20日の朝のこと。
 昨秋の国際コンクールで優勝した月森は、ウィーンでの学びを継続しながら、ヨーロッパでは既にソリストとしての活動を始めていた。
 先月には初めてのCDも発売され、日本でも一部のクラシックファンの間では話題に上っている。
 香穂子は月森のCDを、彼自身からの贈り物として受け取った。
 そのCDを、ほぼ毎日のように聞いては刺激され、反面、自分には手が届かないような苦い気持ちにさせられることもある。
 取材というのは、どうやらそのCD関連のものらしい。
『・・・本当なら、君にゆっくり会いたいんだが・・・それが叶うかどうかは・・・』
 申し訳なさそうな月森の声に、香穂子は努めて明るい声で応じた。
「仕方ないよ。・・・でも、ほんの少しでも、会えたら・・・嬉しいな。23日に、帰国するんだよね?」
『ああ。昼過ぎに着く便で戻る。それから、すぐに取材が入っていて、翌日は午前10時半からレセプションだ。終わるのは予定では15時だが・・・その夜の20時にはまた、ウィーンへの便に乗ることになっている。直行便ではなく、経由便なんだが・・・翌日の夜には、用事が入っているので』
「・・・凄くハードなスケジュールだね・・・大丈夫?」
 香穂子は電話の向こうの月森を心配して、眉を顰めた。
『・・・ああ。大丈夫だ。・・・なるべく、君との時間も取れるよう、調整するつもりでいる。23日の夜は、自宅に帰るつもりだから』
「・・・無理は、しないで? 勿論、会いたいけど・・・でも、蓮くんの身体が一番だから」
 ほぼ1年会えていないのだから、会いたい気持ちは勿論ある。ましてや、24日は月森の誕生日。出来るなら直接お祝いを言いたい。
 それでも、彼の負担になってしまうのは気がひける。
 どちらもが、香穂子の正直な気持ちだった。
 電話の向こうの月森が微かに苦笑するような気配が伝わる。
『・・・俺が、会いたいんだ、香穂子。・・・例え、僅かの時間でも、君の顔が見たい。次がいつになるかも判らないような状態だから・・・』
 月森の想いがストレートに響いてくる。
 それが嬉しくて、香穂子は自然と笑顔になっていた。
「・・・ありがとう、蓮くん・・・夜、遅くなってもいいから、連絡して? 楽しみにしてるから」
『ああ。・・・では、また』
 やさしい余韻を残して通話が切れる。
 香穂子は思いがけない再会の機会に胸を躍らせ、ぎゅっと両手を握り合わせた。




 4月23日。
 大学でヴァイオリンのレッスンをしていた香穂子の元に、メールが届く。
「蓮くん・・・無事に着いたんだ」
 成田に到着したとのメールだった。
 これから都内に移動して、取材を受けるということだ。音楽関係の雑誌とラジオ番組のものだと聞いている。
 終了時間ははっきりしない、ということだったが、夜は自宅で家族と共に休むということだから、2年ぶりに地元に帰ってくることになる。
「・・・取材が早く終わるといいなぁ・・・でも、取材、かあ・・・なんだか、遠く感じるなぁ・・・」
 ふう、と息をついてヴァイオリンをそっと持ち上げる。
 積み重ねてきた年月の差を思えば当然のことなのだが、それでも、月森との実力の差を顕著に物語っているようで、少し胸が痛い。
 月森がウィーンに旅立つ時、彼と同じところへ進めるように努力していくと誓った。
 香穂子は自分なりに努力してきたつもりだし、始めた頃よりは遥かに上達もしていると思う。
 それでも、月森には敵わない。判ってはいても、それが辛いことがある。
 月森が永遠に手の届かない、そんな存在になってしまいそうで。
「蓮くん・・・」
 呟いて、そっと弓を乗せる。
 ブラームスのヴァイオリンソナタ一番『雨の歌』の第一楽章。
 いつもなら、やさしく穏やかな雨を思わせるその旋律は、少し悲愴感を漂わせた、切なく響くものになり。
 香穂子は静かに弓を下ろした。
「・・・こんなんじゃダメだ・・・落ち着かないよ、今日は・・・」
 溜息をひとつつく。
 その時、練習室の扉を控えめに叩く音がして、香穂子は目を上げた。
 そっと扉のガラス窓から顔を覗かせているのは冬海だ。
「あの、香穂先輩、実は、吉羅理事長から呼び出しが・・・梁先輩と、香穂先輩と、私にって」
「・・・え? 大学の方に来てるの? 理事長」
「はい、そうらしいです。・・・行けますか?」
「・・・判った。行こう」
 また無理難題を突きつけられるのかと、香穂子は諦めの溜息と共にヴァイオリンを片付け、それを手に冬海と理事長室に向かった。
 部屋の前で合流した土浦と共に、中へ入る。
「実は明日、君たちに行ってもらいたいところがある。この学院にも関係のある会社のレセプションで演奏を頼まれたのでね。冬海くんと土浦くんで1曲、日野くんと土浦くんで1曲の計2曲だ。勿論、土浦くんはピアノで」
「あ、明日ですか?」
「そんな、急に言われても・・・」
 香穂子も土浦も抗議したが、吉羅はそれを無視して、「決定事項だ」と告げた。
「普段から練習している曲で構わない。日野くんは今練習している『雨の歌』で、冬海くんは『クラリネット・ポルカ』で。この2つなら、土浦くんも伴奏は可能だろう? 彼女たちと時々練習しているそうだからな」
「なんでそんなこと・・・!」
 土浦は勿論、香穂子や冬海も言葉を失った。
 全く、吉羅の情報網は侮れない。
 結局、そのまま押し切られる形で、香穂子たちはその演奏依頼を受けるしかなかった。
「仕方ない。練習しようぜ、日野、笙子」
 土浦が諦めの溜息をつき、吉羅から受け取ったレセプションの案内状を広げながら練習室へと移動した。
「・・・へえ、今度の世界的マエストロの演奏会を前にしたレセプションか。浜井美沙と国内オケとの共演ってことで話題に上ってる・・・」
「・・・え?」
 香穂子は目を丸くして、土浦の手元の案内状を食い入るように見つめる。
 それは、月森が出席すると言っていたものと同じだった。
「嘘・・・」
「? どうしたんですか? 香穂先輩」
 冬海が怪訝な表情で僅かに首を傾げている。
 香穂子は、月森がこのレセプションに出席するために一時帰国していることを話した。
「・・・じゃあ、尚更練習しないとな。・・・半端なことは出来ないぜ? 日野」
「・・・うん」
 土浦の言う通りだ。月森はともかく、人前で演奏をする以上、いい加減なことは出来ない。しかも、音楽関係者が多く集う場であれば尚更。
 香穂子と冬海、土浦は空が暗くなるまで練習を重ねた。




 結局、帰宅したのは夜8時を回ってからになった。
 月森からの連絡もない。今夜、会うのはおそらく無理だろう。
「・・・話す時間があるかどうかは判らないけど・・・とりあえず、明日は、会えそうだし」
 香穂子は急変した事態を思い、溜息をつく。
 こんな形で月森と再会することになるとは、今朝方までは思いも寄らなかったのに。
 その、月森から電話が入ったのは10時を過ぎてからだった。
『これから、家に帰る。着くのは、おそらく11時を回るだろう。今日は、君に会えそうもない』
「うん、仕方ないよ。明日は、会えそうだし。実はね・・・」
 香穂子は自分もレセプションで演奏することになったことを伝えた。
『・・・そうか。それは、楽しみだ。君のヴァイオリンが聴けるんだな』
 月森の嬉しそうな声に、香穂子は苦笑いを浮かべる。
「・・・や、えっと・・・頑張ります」
『大丈夫だ、きっと。いつも通りに弾けばいい。君なら出来る。それに、伴奏は土浦だろう? それも楽しみだ。冬海さんの演奏も』
「・・・笙子ちゃんと土浦くんのは凄くいいよ。楽しみにしてて。・・・じゃあ、また、明日ね」
『ああ。おやすみ、香穂子』
 いつもよりずっと近い声。
 演奏を聴かせるのは緊張するが、本当に会えるんだと実感することで、香穂子の肩の余計な力が抜けた。
 明日は頑張ろう。
 そう思いつつ、眠りについた。




 翌、24日。
 会場となるホテルに、香穂子は冬海・土浦と共に入って、着替えた。
 主催者の挨拶や主賓の紹介と挨拶などが終わってから、演奏を披露するということになっている。
 その部分には出席しなければならないとのことで、音出しや調弦はその前に行うことになっていた。
 土浦は置かれているグランドピアノを簡単な音出しで狂いがないかを確かめ、香穂子と冬海も音出し調弦を済ませた。
 やがて、客が来場し始め、定刻通り、レセプションが始まる。
「・・・凄い人だね・・・」
「・・・ですね、香穂先輩」
 少し緊張が高まる。それでも、香穂子は周囲の人々の中に、月森の姿がないかと見回した。
 結局、見つからないままに演奏の時間がやってくる。
 香穂子は土浦と共に、会場の前方に用意されているグランドピアノの側に移動して、ヴァイオリンを構えた。
 ふと、目線を上げると、ほぼ目の前に月森が立っているのが見える。
 香穂子は瞠目したが、月森の方は微かな笑みを湛えて頷いてみせた。
 まるで『大丈夫だ』とでも言うように。
 香穂子はゆっくりと目を閉じる。それを開けた時にはもう、緊張での揺らぎは消えていた。
 ゆっくりとヴァイオリンを構え、土浦に向かって頷く。
 やさしく穏やかな、美しい雨が降り注ぐかのような旋律が会場いっぱいに広がって。
 香穂子らしい、明るさも含んだ、そんな雨を思わせる心地よい音は、月森の心にもゆっくりと染み渡っていく。
 土浦のピアノがまた出すぎず、引き過ぎず、絶妙なハーモニーを醸し出している。
 和やかな余韻を残して、最後の音が紡がれた後は、会場中が拍手で満ちた。
 香穂子は一礼をして、冬海と交代する。
 冬海と土浦の演奏も清らかでありながら軽快で、温かなハーモニーとなって会場の聴衆を満足させた。
 主賓のマエストロも笑顔で、その耳を楽しませることが出来たことが窺える。
 大役を終えて、控え室で楽器を片付け、再び会場に戻ろうとした香穂子は、入り口扉の側に立つ、月森の姿を見つけて足を止めた。
「・・・いい、演奏だった」
 穏やかな笑みで、月森は香穂子に話しかける。
「・・・本当に?」
「ああ。去年よりもずっと、いい音になった。君らしい、温かな音色だった」
「・・・本当?」
「ああ。・・・俺の言葉は、信じられないか?」
 少し不安げな瞳になった月森に、香穂子はふるふると首を振った。
 だんだん、月森の姿がぼやけていく。
 そんな香穂子の瞳に気づいた月森は、ゆっくりと彼女に近づき、ふわりと包むように抱きしめた。
「・・・香穂子」
「蓮、くん・・・!」
 品のいいスーツを着ている月森の上着にぎゅっとしがみついて、香穂子は込み上げてくる嗚咽を堪えようと努めた。
 逢えて嬉しい気持ちと、プロとして歩き始めている月森への羨望と、微妙な距離感に伴う不安、演奏が褒められた達成感、様々な感情が香穂子の中に渦巻き、彼へと向かっている。
「香穂子・・・逢いたかった、君に」
 月森は愛しそうに香穂子の髪を撫で、彼女のやさしい香りをいっぱいに吸い込む。
 言葉と仕草、両方から月森の想いが伝わってきて、それまで混沌としていた香穂子の中の感情はすっと1つに纏め上げられた。
「・・・・・私も、だよ・・・蓮くん・・・」
 逢えて、本当に嬉しい。今はこの一言に尽きる。
「・・・今日、逢えて良かった・・・お誕生日、おめでとう、蓮くん」
 嬉しくて零れかけた涙をそっと押さえながら、香穂子は月森に笑みを向けた。
 月森は軽く瞠目し、それから、僅かにテレたような笑みを浮かべた。
「ありがとう・・・そう、だったな。今日は4月24日だった」
「そうだよ。・・・また、忘れてたの?」
「・・・ああ。俺にとっては自分の誕生日より、君にこうして逢えたことの方が大事だから・・・」
「蓮くん・・・!」
 香穂子はきゅっと月森を抱きしめる。
 本当にどうしてこう、この人はこんなにも香穂子が喜ぶ言葉を伝えてくれるのだろう。
 プロとして歩き始めていても、やはり月森は月森だ。
「香穂子・・・」
「・・・大好きだよ、蓮くん」
「・・・俺も、君が好きだ。・・・まだ、離れたくはないが、そろそろ、会場に戻ろう。・・・今頃、土浦と冬海さんはマエストロに捕まっている筈だ。きっと、君も」
「・・・え?」
「先程の演奏はそれだけ心を動かす力があった、ということだ。・・・君をエスコートしてこいと言われたんだ。さあ、行こう」
 差し出された手にそっと自分の手を重ねる。
 月森は香穂子の指先にそっとキスをして、やさしく微笑む。
「とても心地のいい雨が、この指から生まれたんだな」
 香穂子は瞬間真っ赤になり、それから恥ずかしそうに微笑んだ。



  
   

 

END







BACK