Lullaby








 この気持ちを、届けたい。
 今でも大好きな、彼。
 今は遠いウィーンでヴァイオリンを勉強している、月森 蓮くんに。





「香穂先輩!」
「笙子ちゃん、土浦くん。それに、加地くんも」
 香穂子は笑顔で3人を振り向いた。
 ざわざわとしたロビー。香穂子の手にはヴァイオリンケースと中くらいのバッグ。
 冬海がそっと小さめの紙袋を差し出した。
「あの、先輩。よかったら、これ・・・途中でつまんでください。少しだけ、クッキーとパウンドケーキを焼いたので」
「ありがとう、笙子ちゃん。嬉しいよ」
「お前なら大丈夫だろうとは思うが、気をつけろよ? 日野」
「うん。ありがとう、土浦くん」
「日野さん、僕たちはいつでも君を応援してるからね。君の音が、ますます磨かれて輝きを増すのを、楽しみにしてるよ」
「うん、加地くん、頑張るよ、私」
 心の奥には不安もあるけれど。香穂子はそれを隠して笑みを浮かべる。
 搭乗手続きの案内アナウンスが流れた。
「・・・じゃあ、行ってきます」
「元気でな」
「日野さん、気をつけて」
「香穂先輩、行ってらっしゃい」
 見送りの3人に頷いて見せて、香穂子は真っすぐに歩いていった。



 香穂子のところに、短期留学の話が持ち上がったのは高校卒業前のことだった。
 高3の1年間に、香穂子は2つのヴァイオリンコンクールに出場し、いずれも入賞を果たしていた。
 その、類稀なる才能に、吉羅理事長が着目しない筈がなく。今年は全国的な、一般向けのコンクールに挑戦することが決まった。
 しかし、香穂子はまだヴァイオリンを始めて2年しか経たないことから、やはり、本場の音に触れ、学ぶ機会を得ないと更なる成長は望めないだろう、との教師陣の見解から、留学話が浮上したのだ。
 期間は2ヶ月。僅かではあるが、これも将来を考えていく上で大切なきっかけになるだろう。
 そんな思いで、香穂子は吉羅理事長の申し出を受けることにしたのだ。
 行き先は、ウィーン。
 月森とは、時折メールをしているが、今回の短期留学の話はまだ出来ていなかった。
 会いたい気持ちは勿論あるが、会うのが恐い気持ちも存在していることは確かで。
 半日以上の長いフライトを終えて、ウィーン国際空港へと降り立つと、香穂子は自然と緊張した。
 高等部の金澤先生によると、日本人の通訳が待っていてくれている、ということだったが、どんな人なのかは判らない。
 入国手続きを済ませると、日本人らしき人を探すために、少し立ち止まった。
 短期留学が正式に決まってから、少しはドイツ語の勉強をしたものの、会話が出来るまでに至っているかはかなり怪しいので、通訳という人が助けてくれるのはありがたいと思う。
 けれど、その人に甘えているだけではいられないと、香穂子は思っている。
 ある程度、自分で何とか出来るようにならないと。
 そうでなければ、とても月森の前には出られない。
 おそらく真っすぐに、ヴァイオリンの道を突き進んでいるであろう彼に、恥じない自分でいたい。
 そんな思いが、香穂子の中にはあった。
 幼少時からずっとヴァイオリンを弾いている彼に比べたら、足元にも及ばないほどの自分だけれど、それでも、彼が目指す音楽の道を自分も追う、と決めた。
 決めた以上、どんなに辛くても、苦しくても進んでいくしかないのだから。
「蓮くん・・・」
 呟いて、ヴァイオリンケースを握り直した時。
「・・・・香穂子?」
 聞き覚えのある声に、香穂子は反射的に顔を上げた。
 目に飛び込んできたのは、瞠目して立ち尽くす月森の姿。
 1年以上前、日本で見送った時よりも大人びた顔立ちになってはいるが、間違いなく月森 蓮、その人だ。
「・・・蓮、くん?」
「本当に・・・香穂子、なんだな?」
 月森の方も信じられない思いで香穂子を見つめていた。
 過日にもらった手紙に同封されていた写真よりも遥かに綺麗になったその姿に、言葉が上手く出てこない。
 言葉の代わりに、足を踏み出す。夢でないのなら、香穂子との距離は縮まる筈だ。
 月森はゆっくりと足を進め、香穂子のすぐ前に立って、その腕に手を伸ばす。
 細くて、けれど温かい香穂子に触れた瞬間、月森はこれが現実なのだとはっきりと認識した。
「香穂子・・・」
「・・・蓮、くん・・・」
 香穂子も、月森の温もりに安堵して、ゆっくりと息を吐く。
「・・・久しぶり、だね、蓮くん。元気そう」
「・・・君こそ・・・元気そうで、何よりだ」
「でも、蓮くん、どうしてここに? もしかして、金澤先生に何か、言われた?」
「ああ。・・・短期留学生が行くから、最初の数日は面倒を見てやって欲しいと・・・まさか、君のことだとは思わなかった。きっと、後輩が来るのかと」
 香穂子は既に大学生となっている。金澤先生は高等部の教師だから、月森は高校生が留学してくるのだと思っていたのだ。
「・・・ともかく、移動しよう。君の下宿先も知っているから、案内する」
「あ、うん。ありがとう、蓮くん」
 香穂子のスーツケースを受け取り、月森は彼女と並んでリムジンバスの乗り場へと案内した。
 市内まではバスで移動する。
 初めて見るウィーンの景色に、香穂子は興味津々といった風情で窓の外を見ていた。
 綺麗な建物、緑、全てが映像や写真でしか知らないものだったが、それらが現実の目前にある。
「・・・ここが、蓮くんが暮らす街なんだね・・・」
 バスを降りて、地下鉄に乗り、最寄り駅で降りて歩きながら、香穂子は感慨深そうに呟いた。
 そんな香穂子の手を握り、月森はゆっくりめに歩を進める。
「ああ。だが、君も、2ヶ月とはいえここで暮らすことになる。今日は無理でも、明日から、俺に判ることは教えよう」
「・・・ありがとう。甘えすぎにならないよう、頑張るね、私も」
 メインの通りから少し奥に入った道に面した、年数を感じさせるアパートの前で、月森は立ち止まった。
「ここだ。部屋は3階の左。・・・俺はその上の部屋だ」
「・・・えっ? 蓮くんの住んでるアパートなの? ここ」
 香穂子が驚きの声を上げると、月森は僅かに苦笑してみせた。
「たまたま、先月から空いてたんだ。金澤先生から連絡があった時にその話をしたら、すぐに大家さんに連絡が入ったらしい。しかし・・・大家さんも来るのが女性だとは教えてくれなかったんだが・・・もしかしたら、それも金澤先生の計略だったのかもしれない」
「・・・私と蓮くん、両方を驚かそうとして?」
「・・・違うだろうか」
「うーん・・・確かに、あるかも」
 香穂子も苦笑した。
 けれど、それもある意味『粋な計らい』なのかもしれない。
「大家さんは年配のご夫妻で、1階に住んでいる。後で、挨拶に行くといい。今は、買い物がてら、散歩に行っている筈だから」
「うん。蓮くん、通訳、お願いして、いい?」
「・・・ああ。だが、挨拶だけは自分で出来るだろう?」
「ホントに挨拶と自分の名前を伝えるだけなら。先月、王崎先輩が演奏会で帰ってきておられて、その時にチェックしてもらったから、それだけは大丈夫だと思う」
「・・・そうか」
 月森は空港に行く前に大家さんから預かった香穂子の部屋の鍵をポケットから取り出し、それを開けてスーツケースを中へと運び入れた。
「香穂子、ここはまだ何もないに近い状態だから、とりあえず、俺の部屋にこないか。長いフライトで疲れただろう、お茶くらいは出さないと」
「あ、いいの? 蓮くん」
「ああ。明日には、必要なものを買いに行っておかないと。明後日は日曜日だから、殆どの店は休みになってしまう。買い物にも付き合おう」
「・・・ありがとう。お世話をかけます」
 ぺこり、と頭を下げた香穂子に、月森はやさしい笑みを向けた。
「・・・いや。・・・後で、君のヴァイオリンを聞かせてもらえるだろうか? もしも、疲れていないようなら」
「あ、うん。聞いてくれる?」
「ああ」
 香穂子はヴァイオリンと、必要な荷物だけを手に、月森の部屋へとお邪魔することになった。
 部屋の中は月森らしい雰囲気で、雑然とした部分は少なかった。
 ただ、楽譜と洗濯物だけはやや、散らかり気味だ。
「・・・済まない、散らかっているな」
「・・・ううん、そんなことないよ。思ってたのより、ずっと綺麗」
「・・・それは・・・褒められているのだろうか」
 月森は苦笑してお湯を沸かし、紅茶を入れてマグカップに注いだ。
「気の利いたカップがなくてすまないが、我慢してくれ」
「あ、ううん、全然気にならないよ、そんなの。ありがとう」
 温かい紅茶はやさしい味がして、香穂子は微笑んだ。
「美味しい」
「・・・それは良かった」
 安堵したような月森の表情を見て、香穂子もほっとする。
 離れていた時間は互いの外見を少し、変化させたけれど、基本的なものはたいして変わっていないようだ。
 香穂子はカップをテーブルに置くと、日本から持ってきた包みを鞄から取り出して、月森に差し出した。
「蓮くん、今日は4月24日でしょう? お誕生日、おめでとう」
「香穂子・・・」
 月森は目を丸くし、香穂子を凝視する。
「・・・今年は直接言えて良かった・・・全然、たいしたものじゃないけど・・・もらってくれたら、嬉しいな」
 少しテレたように言う香穂子に、月森は穏やかな笑みに変わる。
「・・・ありがとう・・・こんな、お祝いをしてもらえるとは、思ってもみなかった・・・」
「留学が決まった時から、行くなら、24日までに行きたいって思ってたの。蓮くんのお誕生日には、ウィーンにいて、直接、お祝いを言いたいって」
「・・・香穂子」
 月森は香穂子が差し出す包みを受け取り、テーブルにそっと置くと、ぎゅっと彼女の両手を握りしめた。
「君の気持ちが何より嬉しい・・・香穂子、本当にありがとう」
「蓮くん・・・」
 香穂子は嬉しそうに微笑んだ。
 そんな彼女を、月森はそっと抱きしめ、確かな温もりを身体で感じ取る。
「香穂子・・・会いたかった」
「・・・私もだよ、蓮くん・・・」
 暫し互いの温もりを感じあうと、月森と香穂子はどちらからともなく、キスを交わす。
 やさしい、触れるだけのキスを何度も。
 再会を喜ぶかのように、お互いの気持ちを確かめあうように。





「・・・聞かせて、くれるか? 君のヴァイオリンを」
 キスを終えて、再び抱きしめあってから、月森は微笑んで香穂子に尋ねる。
「・・・うん」
 香穂子も微笑んでヴァイオリンを取り出し、調弦する。
 準備が終わると、ゆっくりと弓を乗せた。
 ベートーヴェンの『ロマンス 第二番』のやさしい旋律が紡がれていく。
 以前よりもずっと豊かに、危なげなく深く滑らかな音を奏でていく香穂子に、月森は感嘆する。
 音楽科に転科したことと、学外のコンクールに参加したことが彼女を顕著に成長させたということなのだろう。
 短期とはいえ、留学の話が浮上する筈だ、この成長ぶりならば。
 最後の音を弾き終えた香穂子に、月森は惜しみない拍手を贈った。
「もう1曲、聴いてくれる? クラシックじゃないけど、蓮くんに聴いてほしいの。『Lullaby』っていう曲だよ」
 そう言って、香穂子は月森のためだけにヴァイオリンを奏でた。
 やさしくあたたかい旋律は、月森の心に安らぎを満たしていく。


 香穂子の奏でる音色は、何よりの誕生日のプレゼントとなった。




END







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