カンタービレ








 春の風が柔らかく頬を撫でるように過ぎていく。
 日本を経って1ヶ月と少し。ウィーンでの暮らしも、少しずつ慣れてきた頃だ。
 言葉や文化の違いはそう気にならなかった。元々、両親と共にヨーロッパには毎年来ていたし、留学を視野に入れるようになってから、多少はドイツ語も勉強していたから、簡単な日常会話は直ぐに慣れた。
 ただ、音楽を学ぶ上での専門用語はやはり、辞書を睨みながらになることがまだ多い。
 その辺りは、まだここに来て1ヶ月ほどしか経たない、ということなのだろう。



 学校での講義を終えて住まいのアパートへと戻ると、俺は窓を開け放ち、ヴァイオリンをケースから取り出した。
 手早く調弦を済ませ、思いつくまま、弾き始める。
 まずはじめに「感傷的なワルツ」を。
 そういえば、この曲で、香穂子と競い合ったこともあったな・・・。
 あれも、春のことだった。
 あれからまだ1年しか経っていないというのが信じられないくらい、色々なことがあって・・・。
 何故だろう。今日はやけに香穂子のことを思い出す。



 こっちに来てからとにかく『1人で暮らす』ということに慣れるのに必死だった。
 1人暮らしというものは何かと雑用が多く、日本で家族と暮らしていた時ほど、ヴァイオリンだけに没頭する、という訳にはいかない。
 だが、本場であるこの地で音楽を学ぶことでしか得られないものも多いと思うから、ここへ来た。
 ヴァイオリン以外のことでは、お世辞にも器用とはいえない俺だから、未だに日々戸惑いの連続だ。
 余裕などないに等しい、そんな中、香穂子のことを思い出さない日はなかったが、正直なところ、ゆっくりと想う、なんてことは出来ないでいた。
 それなのに。
 今日は香穂子の笑顔と彼女の音色が浮かぶ。
 明るくて、元気でやさしくて。
 唯1人、俺が愛しいと想う女性(ひと)
 俺と、俺のヴァイオリンの音色を変えることが出来た、たった1人の、大切な存在。
 曲が終わったところで弓をおろして、机の上に飾ってあるフォトフレームへと視線を移す。
 こちらに来て2週間くらい経った頃に、日本から送られてきた写真たち。
 コンミス試験の演奏会と、ホワイトデーのオーケストラコンサートの写真は香穂子から、それまでの学院での日々のスナップ写真は天羽さんから、それぞれ、送られてきた。
 その中の、いつの間にか撮られていた、としか思えない、俺と香穂子が一緒の写真を、フレームに入れてある。
 写真の香穂子は笑っていて、そんな彼女を俺も微笑んで見つめている、そんな一枚。
 ごく自然な俺たちの表情を捉えたそれは、天羽さんの腕がいい証拠だろう。
「香穂子・・・」
 名前を呟く。
 ウィーンに来て、こんなにも君が恋しくなったのは初めてだな・・・。
 ヴァイオリンを一旦ケースへと戻した時、このアパートの大家さんが俺の部屋の扉を叩く音が聞こえた。
「レン、荷物が届いてるよ」
「・・・ありがとう」
 大家さんからそれを受け取る。
 B5サイズくらいの封筒のようなそれの、差出人の名前は・・・香穂子だ。
「香穂子から?」
 俺はそれをゆっくりと開封する。
 厳重な包装の中から出てきたのは、CD、らしかった。
「これは、一体・・・?」
 ケースを開けて、中のディスクを取り出そうとしたら、パソコンがメールの着信を知らせる音を立てた。
「・・・メール? 学校からか?」
 画面にメール一覧を表示させる。
「香穂子・・・」
 何故、今日に限って彼女からのものが届くのだろう。
 俺は怪訝に思いながらメールを開く。


『蓮くん、お誕生日おめでとう。プレゼント、もしかしたら、今日には届かないかもしれないけど、送ったので受け取ってください。元気で、頑張ってね』


「誕生日・・・そうか。今日は24日だったな・・・」
 今日が4月24日で、俺の誕生日だということを忘れていた。
 香穂子、君は俺の誕生日を覚えていてくれたんだな。
 忙しい日常に紛れて、埋もれてしまっていたのに。
 君が祝ってくれる、初めての誕生日が遠く離れたウィーンの地、というのが少し寂しいが。
 それでも、君の気持ちが何より嬉しい。
 お互いの身体は遠く離れていても、心は繋がっているのだと、そう思えるから。
「日本は・・・もうすぐ日付が変わるな・・・」
 サマータイムに入っている現在、日本との時差は7時間だから、じきに0時になる。
 明日にでも見てくれたら、と思い、俺はメールの返信を打つ。


『香穂子、メールとプレゼントをありがとう。ちゃんと、24日に受け取った。自分では忘れていたから、余計に嬉しかった。・・・俺は元気でいる。君も、身体に気をつけて頑張ってほしい』


 それを送信してから、俺は送られてきたCDをパソコンで再生させてみることにした。
 ノートパソコンの内臓スピーカーなので、音はあまり良くないが、俺の手持ちですぐにCDが再生出来るのはこれしかない。
 やがて、聞こえてきたのは。
「これは・・・香穂子の音・・・」
 生の演奏には到底敵う筈もないが、確かに、香穂子が奏でる『アヴェ・マリア』だ。
 ピアノの伴奏がついているから、もしかしたら土浦か・・・いや、この感じは彼じゃない。森さんあたりかもしれないな。
 心地よく、温かな音色。そして何より、危なげなくヴァイオリンを歌わせていることが、君の成長の証。
 演奏に聞き入っていたら、それを断ち切る無粋な着信音が混ざって、俺はムッとしてCDを一時停止にした。
 こんな時にメールを送ってくるのは誰なんだ。
 再びメール一覧を開いてみる。
「香穂子!」
 送信主は君か。
 急いでそれを表示させる。


『蓮くん、メールありがとう。よかった、ちゃんと届いて。私も頑張るね。蓮くんに追いつけるように』


 夜中の筈なのに・・・起きていてくれたのか。
 香穂子の気持ちを感じて、俺の心が震える。
 出来ることなら、今すぐに君を抱きしめたいけれど。こうして、離れることを選んだのは俺自身だから。
 しかし。もしも叶うならば。
 今の俺の気持ちを君に届けたいと思う。


 香穂子の音を聴くのは少し後回しにして、俺は再びヴァイオリンを取り出した。
 再度調弦をして、ゆっくりと弓を乗せる。
 奏でるのは『カンタービレ』。
 何度か2人で弾いたことがある。
 だか、きっと今ならば、もっともっとヴァイオリンを歌わせることが出来る気がする。

 香穂子、君のためだけに。
 今でも愛しい、その想いを込めて。




END








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