黄 昏







『蓮くん、お元気ですか? 私は元気にしています。
 今日もヴァイオリンのレッスンで先生に注意されてしまったけど、
 でも、頑張ってるんだよ。
 放課後の練習室で、よく土浦くんや笙子ちゃん、志水くんと会います。
 オケ部の練習日には、火原先輩と会うこともあります。
 ごくたまにだけど、加地くんと合わせることもあるんだよ。
 蓮くんもきっと、毎日がヴァイオリン漬けなんだろうね。
 ちゃんと食べて、寝てね。

 では、またメールします。
                 香穂子』


 こんなメールが届いたのが昨日。
 月森はふう、と溜息をついてヴァイオリンを肩から下ろした。

 香穂子は4月から、音楽科に編入したという。
 それは彼女にとって必ずプラスになるだろう。今後、彼女がヴァイオリンを続けていく限り。
 だが、去年まで普通科だった彼女には、音楽科の専門カリキュラムはキツイのではないだろうか。
 期待と心配が交差する。
 それに、香穂子が音楽科に編入したということは。
 もしも、あのまま自分が学院に残っていたなら、同じクラスになれたかもしれない。
 そんな可能性が、少しだけ月森の未練を刺激する。
 ウィーンに来てから、ヴァイオリンの演奏だけでなく、その音楽性の深さと広さに改めて感心させられている。
 毎日が刺激を受けることばかりだ。
 オーストリア人だけでなく、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、ロシア、韓国など、多くの国の人々がこのウィーンの音楽学校で学んでいる。
 国民性が違えば、音楽に対する解釈なども違ってくるし、演奏家というものの地位なども違ってくる。
 日々、全てのことが勉強だった。
 楽しいことばかりではない。苦しいことだってある。
 だが、これは月森自身が選んだ道だ。
 それを後悔するつもりはなかった。
 それでも、香穂子とこうして離れていることだけは、一抹の寂しさを覚えさせる。
「香穂子・・・あまり、加地や志水くんや火原先輩に近づかないでくれ・・・」
 机の上の笑顔の写真に向かって呟いてみる。
 身勝手な願いだということは解っていても、願わずにはいられない。
 自分だけを想っていてほしいと。

 



『香穂子、メールをありがとう。
 音楽科のカリキュラムはキツイかもしれないが、きっと君の役に立つだろう。
 俺は、毎日ヴァイオリンを弾いている。
 今はちょっとしたテストのようなものが行われていて、クラスのメンバーが
 1日に3人ずつ、順に演奏していくことになっている。
 今日演奏したクリスティーネ・コーエンの音には、興味を引かれた。
 少し華やかで、それでいてしっとりとした音色で、豊かにヴァイオリンを
 歌わせていた。
 久しぶりだ、こんな風に誰かの演奏が気になったのは。
 ここでは、みんなが真摯に音楽に取り組み、ソリストやオケのメンバーに
 なることを望んでいる。
 俺も、負けてはいられないと思っている。
 君も、無理にならないよう、ヴァイオリンを続けてくれ。
 それじゃあ
                   月森 蓮』




 香穂子がこのメールを受け取った時。
 彼女は教師からとある国内のヴァイオリンコンクールに出るように勧められて不安定な中にあった。
 今まで、香穂子なりに努力はしてきた。しかし、何と言ってもヴァイオリンを始めてまだ1年と少ししか経たないのだ。
 そんな自分が、腕に覚えのある者ばかりが参加するコンクールになど本当に出られるのだろうか。
 リリの助けは勿論ない。そして、月森や王崎先輩の助言ももらえない。
 加地や土浦は『大丈夫だ。自信を持てばいい』と言ってくれるが、香穂子はいまひとつ信じられないでいた。
 月森に話を聞いて欲しい。そして、現在の自分の演奏を聴いてもらって、正直な感想を聞いてみたい。
 そんな切望が心を支配している中の、このメールは、香穂子を落ち込ませるには充分すぎた。
「・・・蓮くんが褒めるくらいだもん・・・相当、上手い女性(ひと)なんだろうなぁ・・・」
 ひとりごちて、溜息をつくと、涙まで滲んできた。
 日本とウィーン。
 この、互いの距離がこんなに恨めしく感じたのは初めてだ。
 月森はウィーンで。自分はこの星奏の音楽科で。
 お互いにヴァイオリンを続けていく。そしていつか、また。お互いの道が重なることを信じて。
 月森が旅立つ日、そう決心した筈。
 けれど、滅多に他人の演奏を褒めない月森が、女性の演奏を褒めている。そのことが、香穂子に言い知れぬ不安をもたらしていた。
「こんなじゃ・・・蓮くんには、永遠に追いつけないよ・・・きっと、呆れられちゃう・・・もっと、頑張らないと・・・」
 涙を乱暴に拭って、香穂子はヴァイオリンケースを手に、外へと向かった。



 今日は日曜日。
 心置きなくヴァイオリンを弾ける場所を求めて、香穂子は自然と学院への道を進む。
「・・・香穂先輩?」
 交差点でいきなり声をかけられ、ハッとして顔を上げると、制服を着た冬海がクラリネットケースを手に小首を傾げていた。
「笙子ちゃん・・・」
「練習、ですか? あの、学院で?」
「あ・・・う、ううん、そういう、訳じゃ・・・」
 普段と全く変わらない冬海の顔を見ていたら、香穂子はまた、泣きそうになってきた。
「香穂、先輩?」
 潤み始めた香穂子の瞳に、冬海は瞠目する。
「あ、あの、先輩、良かったら・・・こっちへ、行きましょう」
 冬海は近くの児童公園に香穂子を連れて行った。
 まだ朝早めの時間だからか、誰もいない。
 ベンチに並んで腰を下ろし、冬海はそっと香穂子の顔を覗きこんだ。
「何が、あったんですか? 香穂先輩」
「笙子ちゃん・・・私・・・」
 香穂子はコンクール出場に不安を感じていること、月森のメールのことを、正直に冬海に打ち明けた。
「・・・なんか、情けないよね、私・・・ごめんね、笙子ちゃん」
 香穂子は無理矢理笑みを作る。
「香穂先輩・・・月森先輩と、話すことは、出来ませんか?」
「え・・・?」
 冬海は、真っすぐに香穂子を見つめてくる。
「香穂先輩の気持ち・・・月森先輩に、直接、伝えた方が、いいんじゃないかなって、思って・・・あの、私も、あの・・・梁太郎先輩に、よく言われるんです。『言いたいことは、ちゃんと言え。そうしないと伝わらないだろ?』って。だから・・・」
「笙子ちゃん・・・」
 香穂子は目を丸くした。
 あの、大人しくて自信なさげだった冬海が、しっかりと自分の意見を香穂子にぶつけている。
 土浦との関係が、冬海を随分と逞しく成長させたようだ。
 そして、彼女の言うことは正しい。
 不確かなことを、相手に確認もせずに思い悩んでみたところで、解決などありえない。
「それから、あの・・・私、香穂先輩の音、今でも大好きです。勝ち負けじゃなくて、先輩らしい演奏、して下さい、コンクールで」
「笙子ちゃん・・・」
 香穂子は冬海に微笑んでみせた。
「・・・ありがとう。蓮くんに、電話、してみるね。コンクールのことは、練習、するしかないんだし・・・頑張るよ、私なりに」
「・・・はい。あの、香穂先輩。私や、梁太郎先輩に、お手伝い出来ることがあれば、言って下さいね。いつでも、協力しますから」
「・・・うん。ありがとう、笙子ちゃん。土浦くんにも、ありがとうって、伝えて?」
 これからオケ部の練習があるという冬海とそこで別れて、香穂子は携帯の時計を見た。
 午前9時半を少し過ぎた頃。ウィーンはまだ夜中だ。
 電話をするなら夕方になってからだろう。それまでは練習をしようと、香穂子は森林公園へと向かうことにした。
 コンクールの一次予選の曲はベートーヴェンの『ロマンス 第一番』。ピアノ伴奏は同じクラスになった森 真奈美に頼んである。
 彼女とは、学内コンクールからの知り合いなので、二つ返事で引き受けてくれた。
 二次予選の曲はヴィタリの『シャコンヌ』。現在、その両方を平行して練習している。
 この二次で残ることが出来たら、最終予選に進むことが出来るが、最終までには少し間があるので一次の結果が出てからの練習開始という予定を、担当教師から言い渡されていた。
 『ロマンス 第一番』は、自分でも少し、練習したことがあり、『シャコンヌ』は、月森が演奏しているのを聴いたことがある曲だ。
 先生のアドバイスを思い出しながら、繰り返し練習する。
 夢中で練習していたら、昼を大幅に過ぎていて、香穂子は家に帰ることにした。
 遅い昼ごはんを食べて、今度は高台の公園へと足を運んだ。
 以前、王崎先輩の演奏を聞いたことがある場所だ。
 そこで更に練習をし、空が茜に染まり始めるころに家に帰って、電話を持ち上げた。
 ごくり、と息を呑んで、番号をプッシュする。
 待つ時間が、異様に長く感じられ、耳元で鳴るコール音を聞いていた。
 ふっと、それが途切れ。
『Hallo』
 ドイツ語の言葉だが、間違いなく月森の声だ。
「・・・蓮、くん?」
『香穂子、か?』
 驚いたような声音だが、確かに月森が自分の名前を呼んでくれている。
 不覚にも、涙が滲んできて、香穂子はごくん、と息を呑み、それを収めた。
「久しぶり、だね。・・・元気?」
『ああ・・・君も、変わりないだろうか』
 月森の声がやさしい響きに変わる。
「・・・うん、って、言いたいんだけど・・・大変かも」
『確かに音楽科のカリキュラムは大変かもしれないな。だが、きっと君の役に立つと思う』
「・・・うん。そうだね・・・」
 香穂子は月森の言葉を聞きながら、意を決して引っかかっていたコトを問うてみることにした。
「・・・あのね、蓮くん。この前のメールに、書いてあった女性(ひと)って、美人さん?」
『は? いきなり、何を・・・』
「・・・蓮くんが褒めてたから・・・もしかしたら、その女性(ひと)のこと、好きになったのかなって、思って・・・」
『・・・そんなこと、あるわけないだろう。確かに、彼女の演奏はいいものだったが、それはあくまでも演奏者としてのものだ。俺は、今でも君が・・・好きだ』
「蓮くん・・・」
 微かにテレたような月森の声が、香穂子の耳に甘く響く。
 香穂子は安堵の笑みを浮かべていた。
『・・・君こそ、加地や火原先輩や志水くんと、随分仲が良いようだが』
 明らかに硬い声音で問うてくる月森に、香穂子はクスッと笑う。
「私が好きなのは、蓮くんだよ。・・・今までも、今も」
『・・・そうか。ありがとう・・・安心した』
 微笑むかのようなやさしい月森の声が嬉しい。
 お互いに逢うことは叶わなくても、確かにこうして繋がっている。そのことが。
「あのね、もうひとつ、聞いてくれる?」
 香穂子は自分が国内のヴァイオリンコンクールに出ることを月森に打ち明けた。
『そうか。学院の先生はちゃんと教えて下さっているのだろう? ならば、それを聞きながら、君らしい演奏をすればいい。数々のアンサンブルと、オケのコンミスを務め上げることが出来た君の、全てをぶつけてくればいい。俺はいつでも、君を応援しているし、君を、ライバルだと思っているから』
「蓮くん・・・」
 月森らしい激励に、香穂子はふっと、肩の力が抜けるのを感じた。
「うん。私、頑張るね。私らしい音を、演奏を、聞いてもらえるように。結果は、その後だよね」
『ああ。努力は君を裏切らない。俺も、日々努力あるのみだ』
「うん、そうだよね。ありがとう、蓮くん。話、聞いてくれて」
『いや・・・君の声が聞けてよかった。香穂子、お互いに頑張ろう』
「うん」
 香穂子は月森にもう一度お礼を言って、通話を終えた。
 僅かな寂しさはあるけれど、今は、これでいい。
「うん、頑張ろう。私なりに。・・・あ、笙子ちゃんにもお礼しなきゃ」
 窓の外へと視線を移すと、そこは鮮やかな夕焼け。
 その美しさに、香穂子は目を細めて、静かに微笑んだ。

 

 

END








睦月希結さまへ
6周年リクエストに挙手下さり、ありがとうございました。リクエストにきちんとお応え出来ているかは「?」ですが、謹んで進呈致します。


2008.7.7    森島 まりん







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