やさしい風
センター試験が終わり、学年末テストが行われればほぼ、3年生としての登校が終わる。 後は週に1回、HRに出席するだけで、卒業式を迎えることになる。 その間に、私立大の一般入試や国公立の二次試験が行われるため、大多数の3年生はまさに受験本番、といったところだ。 智史とあきのも例外ではなく、2月早々に私立大の試験を控えていた。 学年末試験の最終日、智史はいつものようにあきのと下校した。 「・・・そういえば、倫子さん、そろそろじゃねえのか」 「うん。予定日はね、来月の初めなの。でも、私の、多分弟はのんびりやさんらしくて、まだだいぶ先なんじゃないかって言われてるみたい。ちょっと、ドキドキよね、こういうの」 「そうか」 智史は楽しみで仕方がない、といった様子のあきのを見て、その頭を軽くぽん、と叩く。 「元気で、無事に生まれてくれるといいな」 「うん! それだけは心配なんだ。・・・私もね、少し勉強したの。看護師になりたい私としては、知っていて無駄になることはないなって思ったから。大部分は普通に、問題なく生まれるみたいだけど、やっぱり、リスクもあるって知って・・・改めて、生まれてくるってことがどんなに大変なことか判った気がするの」 「・・・そうか。・・・お前、すんげーいい勉強させてもらってんな、倫子さんに」 「そう思うわ、私も」 あきのは智史に向かって微笑む。 義母の倫子、父の総一郎と屈託なく話せるようになったのは、智史のお陰だ。それを思うと、その存在の大きさに、自然と笑みが浮かんでくる。 「・・・智史って、凄いよね」 「は?」 唐突なあきのの言葉に、智史は怪訝な表情(かお)になる。 「なんか、改めて思うと凄いなあって。智史とこんな風になる前は、お父さんとは勿論、倫子さんとも、こんな風に自然に話せる日が来るなんて思いもしなかったから。智史と思いが重ならなかったら、こうはなってなかったかもしれないなって思って」 「あきの・・・」 改めて、しみじみといわれてしまうと照れる。 智史は僅かに視線を上へと逸らした。 「・・・わざわざ言うなよ、そんなこと。・・・ま、良かったじゃんか。やっぱ、家族は仲良いほうがいいだろ」 「・・・うん。本当にそうだよね」 あきのがずっと憧れて望んできたもの。それが、家族仲の良い家庭。 ごくごく当たり前のようで、椋平家にとっては難しいことだった。 でも、父・総一郎との間のわだかまりが解け、義母の倫子ともより親しくなり、新しい家族まで増えようとしている現在は、あきのの待ち望んだ家庭に、少しずつ近づこうとしていた。 「・・・今日は寄り道せずに真っすぐ帰ったほうがいいよな。予定日近いんなら、それこそいつ生まれてもおかしくねえんだし。・・・入試も控えてっしよ」 智史が僅かに溜息を混ぜて言う。 あきのも苦笑した。 「そうだよね・・・入試はまだこれからが本番だもんね、私も智史も」 受験という事がなければ、試験明けで少しは遊んだりしたいところなのだが。今は、何を言っても仕方がないのが現状だ。 智史はあきのの家の前まで、彼女を送っていくことに決め、一緒に歩いていった。 椋平家の長い壁が見えてくると、門扉のところに人影がある。 「あれ? 倫子さんだ」 「ああ・・・そうみたいだな」 家の中ではなく、外で出迎えてくれるなんて珍しい。あきのと智史は自然と早足になった。 「倫子さん、ただいま」 「ああ・・・おかえりなさい、あきのちゃん」 振り向いた倫子は、スーパーのレジ袋を手にしていた。 「お買い物に行ってたの? 倫子さん」 「ええ。ちょっとお塩を切らしちゃってたからね・・・」 そう答えると、倫子は瞬間、息を詰めた。 あきのは軽く瞠目する。 「・・・倫子さん?」 暫くじっと動かないままの倫子は、やがてぎゅっと眉根を寄せ、お腹に手を置いて門柱に凭れかかった。 「・・・倫子さんっ!?」 慌てるあきのに対し、智史は出来るだけ冷静になろうと努めて、倫子に問いかける。 「お腹、痛むんですか」 「・・・え、ええ・・・買い物に行く前から、少し張るな、とは思ってたんだけど・・・歩いたことで、進んだのかも・・・っ」 再び、倫子が息を詰めた。 「ど、どうしよう・・・倫子さん、どうしたら・・・」 「落ち着け、あきの」 半ばパニックになりそうにおろおろしているあきのに対し、智史は自分の着ていたコートを脱いで、倫子にかけて自分の方に凭れてもらうように促す。 「あきの、タクシーを呼ぶんだ。それから、入院用の荷物、持ってこい。倫子さん、用意、してますよね?」 「え、ええ・・・寝室の、スーツケースよ」 その間にも、倫子はくっ、と息を詰めたり、ゆっくりと息を吐いて痛みを逃している。 あきのは急いで家の中に入り、タクシーを呼んで、言われた通りにスーツケースを持ち出した。 門のところへ戻ると、倫子は智史にすっぽりと抱きかかえられるような感じになっていた。 天気は悪くないが、冷たい風が吹いている。なのに、倫子の額にはうっすらと汗が滲んでいた。 「呼んだよ、タクシー」 「よし。なら、来てくれるまで待つしかない。あきの、ハンカチ持ってるか? 倫子さんの汗、拭いてあげてくれ。この寒さじゃ、冷えちまう」 「うん」 あきのは自分の制服のブレザーのポケットからタオル地のハンカチを取り出して、倫子の額をそっと拭う。 「ありがと・・・あきのちゃん・・・大麻くんも・・・」 倫子は懸命に笑みを浮かべようとするが、襲いくる陣痛には勝てず、呼吸で痛みを逃すので精一杯だった。 タクシーが到着したのは、15分ほど経ってからで、智史は倫子を抱えて座席に座らせ、あきのをその隣に座らせて、自分は助手席に、荷物と共に乗り込んだ。 かかりつけの病院の名前を告げて、向かってもらう。車なら、5分ほどしか離れていないが、今日は異様に遠く感じた。 病院のほうには既に連絡をしてあったので、着くとすぐに対応してもらえ、倫子はすぐに陣痛室へと運ばれた。 「あきの、親父さんにも電話した方がいいぞ。今のうちに」 「あ、うん、そうだね」 総一郎が駆けつけてくるとは思わないが、それでも、知らせておいた方がいいに決まっている。 電話をすると、やはり、仕事を抜けることは出来ないが、残業はせずに病院に向かうと言われた。 あきのは病棟の看護師に言われるままに病室に荷物を置きにいき、それから陣痛室の倫子のところへ入れてもらった。 「倫子さん・・・」 心配そうに見つめてくるあきのに、倫子は「大丈夫・・・」と言いながら痛みを逃す。 「・・・何か、私に出来ることはない? 倫子さん」 「・・・喉が・・・水、を・・・」 「・・・待ってて、買ってくる」 あきのが部屋から出てすぐ、レジ袋を提げた智史と顔を合わせた。 「どうした、あきの」 「倫子さんがお水飲みたいって・・・だから」 「だろうな。ほら」 智史が手に持っていたレジ袋をあきのに手渡す。中には、おにぎりとお茶、それにミネラルウォーターとストローが入っていた。 「出産ってのは体力がいるから、もしも食べられるなら食べたほうがいいって母さんが言ってたんでな。俺らも昼、まだだし、ついでに見繕って買って来た」 「智史・・・」 どうやら、自分が総一郎に電話をしたり、荷物を病室に運んでいる間に、智史は知香に電話をして、買い物をしてくれたらしい。 「ありがとう・・・智史」 慌てて全く頭が回っていなかった自分に、的確なフォローをしてくれる智史。あきのは心底から感謝の気持ちで一杯だった。 「いいって。それより、早く持ってってあげろよ。今、どのくらいか、聞いたか? 進み具合」 「あ、うん。さっき、助産師さんに診察してもらった時はだいぶ開いてきてるって言われたみたいだから、あまり時間はかからないかもって。ただ、その分、痛みの感覚が狭いみたいで・・・」 あきのが辛そうに眉を顰める。 出産の痛みというものが実際にどんなものなのかは、今のあきのには判らない。ただ、倫子がそれに耐える姿を見ていることしか出来ないのが辛く、もどかしいのだ。 智史はあきのの肩をぽん、と叩いた。 「・・・見守るしか出来ねえけど、見ててあげろよ?」 「・・・うん」 あきのはこくん、と頷いた。
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