駅に降り立つと、寒さが身に滲みた。香奈子は凍てついて滑りそうな足元を気にしながら病院へ急いだ。横道に入り、ふと前を見ると男性が一人歩いていた。
(宮岡に似ている...)
歩き方に見覚えがあった。香奈子は小走りになり男の後ろまで近づいた。整った顔を隠すようにコートの襟をたてている。やはり宮岡だ。彼は産婦人科医で香奈子の主治医である。宮岡は患者に対してぶっきらぼうなものの言い方をする。それを嫌がる患者もいるようだが香奈子は好ましく思った。
医師は外車に乗るイメージが強くある。通院してからかなり月日が経つ。投薬だけの時と検査や検診の日もある。それぞれの日で幾分乗る電車の時間が違っていた。宮岡を見たのはその日が初めてだった。その日の都合で宮岡が偶々乗っただけかもしれないが香奈子には電車に乗っていた宮岡が意外に見えた。
背の低い香奈子が早足で追いついたのも束の間、宮岡との距離はすぐに差がついた。顔を確認すると宮岡のコート姿を見ながら歩いていく。
病院専用駐車場と看板のある道を左に行くと職員専用入口に通じる。香奈子の目指す外来棟はその道の向こうにある。曲がり角に近づくと宮岡が振り向いた。何もなかったように1-2歩進んでからもう一度、後ろを見た。形の良い眉が印象的な顔は僅かに笑みを浮かべた。香奈子が会釈をすると宮岡は頷いただけで背中を見せて道を進んだ。
(やっぱり愛想がないわ)香奈子は思い、外来棟に向かった。
40歳を迎えてすぐの早朝だった。香奈子は突然の激しい痛みに見舞われた。10代の頃から生理痛の度に下腹痛を体験していたので痛みには免疫さえ出来ていた。しかしその日の痛みにのた打ち回っていた。隣に寝ていた夫の瑛明が異変に驚いて119番した。
夫の瑛明も同乗した救急車のストレッチャーで香奈子は激痛に耐えていた。スピードはそんなに出ていないのに左右によく動く。サイレンを鳴らして走る車中は捕まるものがなく、瑛明が踏んばっても身体が揺さぶられる。瑛明の顔色が次第に青ざめてる。香奈子を気に掛ける余裕は無さそうな気配だ。
「気分が悪そうですね」
まだ青年の風貌を残す救急隊員が気付いて瑛明に声を掛けた。
「運転してるとなんともないんですが・・・・」
瑛明は弁解している。
「ドライバーは皆んなそうですよ。これを使って下さい」
隊員はアルミの平たいトレイを瑛明に渡した。
瑛明は吐き気はするが嘔吐はならない様で、みぞおちの辺りを触ってる。
「耐えられないようでしたら助手席にでも替わりますか」
急病人の搬送中なのに暢気に隊員が言う。
「いやぁー運転席以外は同じですよ」
ジョークっぽい隊員の会話は瑛明の車酔いを紛らしてくれるようだ。香奈子の方は苦痛で歪んでいる。
救命センターに着き、サイレンは止まり香奈子を乗せたストレッチャーは診察室になだれ込んだ。
「顔色が戻りましたね」
車を下りると瑛明の酔いは治ったようで、笑顔を見せた。
「お蔭さんで・・・お世話掛けました」
申し送りが済んだ隊員に礼を言った。
最初に香奈子を担当したのは内科医だった。痛みと共に出血もあったが救急隊員には告げていなかった。医師は触診して香奈子の下半身の状態を確認すると産婦人科に連絡した。
24時間体制で救急センターを備えてる総合病院で全館挙げて救急患者優先のシステムになっている。産婦人科にもそれに対応すべく医師が常駐待機しているのである。
まもなく産婦人科医が来て香奈子を診察した。痛み止め注射をした後、婦人科の担当医の指示でストレッチャーに移されて検査部に連れて行かれた。
廊下には検査を受けに来ている患者が数人椅子に座っていた。痛み止めの注射で少しは和らいだものの激痛からは少し開放されていた。
MRI検査は普通は予約が要る検査だが緊急の為に香奈子の検査が優先された。検査室に入ると肩幅より少し広い台が突き出ている。台の奥にトンネルの様な丸い穴が見えた。背が高くがっしりした白衣を着た技師と付き添ってきた看護士がストレッチャーから香奈子を運んで台に寝かせた。腕も足も体も黒いベルトで固定された。台がベルトコンベアの様に動いた。身動きが出来ないまま、丸い穴に向かって進んでいく。全身がスッポリとトンネルの中に入った。閉所恐怖症の香奈子は不安になってた。周囲は180度、薄いグリーン色のガラスの壁になっている。穴全体が明るく照らされている。
「時々、機械の音がしますが心配ありません。動かないで下さい。眠っていていいですよ」
検査室のドアの手前にはガラス張りの部屋がある。
モニターテレビが沢山あって、白衣を着た人が数人いて、指示は、そこから出されている。機関銃の様な音がして、暫くすると静かになる。目を開けていると余計、壁が迫って来るようで、香奈子は気分が悪くなった。。 目を閉じるが下腹部の痛みもあって眠る事など出来ない。時折、目を開けて廻りを見る。グリーンの壁が目に入った。繰り返される機械音が消えるのを香奈子は待つしかなかった。
「はい終わりました」
検査技師の声で台が動いた。
グリーンの長いトンネルから出て来た時、大きく息を吐いた。体を固定していたベルトを解かれた。息苦しくなったのはベルトで体を締め付けられたせいかも知れなかった。検査が終わると看護士が入ってきて再びストレッチャーに移された。
香奈子が検査を受けている間に瑛明は担当医から説明を受けたようだった。検査室を出ると香奈子は一旦婦人科病棟の病室に運ばれた。
「三田村香奈子さんこれから緊急手術になりますからね」
看護士が香奈子の耳元で言った。
「手術しますから剃毛してから身体を吹きますね」
手術後は抜糸が済むまでシャワーやお風呂が使えない。手術前には下腹部の毛を剃り落とすと聞いたが、緊急手術の前にも剃毛がされるようだ。
緊急入院のため香奈子は人間ドックで着るようなガウンを一枚だけ着せられていた。ガウンの前を肌蹴て上半身にはタオルが掛けられた。泡立てた石鹸と付けてベテランの看護婦が、手際よく剃刀を動かす。おへその辺から肛門の付近まで丁寧に剃られた。次にゴム手袋をはめてから湯気がいっぱい立っているバケツにタオルを入れて絞り首筋から肩へ脇や胸の辺りに向かって幾つかのタオルを絞りながら拭いていく。
「辛いだろうけどちょっと横向いてくれる?」
背中から腰も丁寧にタオルを当てていく。
「今度はお股を拭きますね」
色の違うタオルを絞り看護士は下腹部中心から足までゆっくり手を動かした。
身体全体を拭く終わると薄い新しい白い装束を着せられて病院特有の白いパイプのベッドからストレッチャーに移された。香奈子は詳しい説明を聴く間もなく手術の為病室から運ばれる。
「頑張れよ」
瑛明が声を掛けた。
エレベーターで十階の手術室に運ばれた。
「産婦人科です。お願いします」
手術室の看護婦と引き継がれた。
手術室に入ると、すぐ右側にブルーの手術着姿の医師を見た途端、香奈子は体じゅうが震えた。初めて見る手術室の異様な雰囲気だ。中に入ってすぐ別のベットに移された。そのベットは暖かかった。着ていたガウンを脱がされると体の上に布が置かれた。
「はい次は、手術台です」
手術台に仰向けに寝かされると、ライトが真上に見えた。まだランプは点いていなかったが香奈子は急に怖くなってきた。部屋の壁はクリーム色で目線の正面には丸い時計があった。手術台の周囲には薄いブルーの衣装を着た数人が動いている。
「左手は横にして下さい」
皆マスクをしているので誰が言ったのか分からない。左手は病室で点滴の針が刺してある。左手の人差し指には指サックのようなものがはめられた。手術台の周囲に居た人たちによってそれぞれの手と両足と体が固定された。
「はい、これを吸って下さいね」
口に黒い吸入器を当てがわれた。
手術は全身麻酔で行われるようだ。丸い時計が2時3分を差しているのを見た瞬間...香奈子の意識が途切れた。
どれくらいの時間が過ぎて...朦朧としている意識の中で誰かが香奈子の名前を呼んでいる。声は聞こえるのに目は開かない。人の声は大きくなったり小さくなったりする中で、下腹部に鋭い痛みが襲ってきた。
(まだ痛みがある・・・・何故なの)
午後五時半過ぎ手術は終わったようだった。回復室に移され三十分ほどするとストレッチャーで病室に運ばれていた。
「だいぶ痛がっているなぁ」
聴き慣れない男性の声がする。
痛みを訴えようとしたが声が出せない。香奈子はしきりに首を振って痛みを訴えようとする。かすかに、白く大きなものが浮かぶがそれが何か香奈子は分からない。
「気の毒な事したな」
再び遠くの方で、さっきの声がする。香奈子はなおも痛みを訴えようとする。
「痛いかい・・・・痛み止めの注射すれば楽になるから」
その声を聴くと香奈子は再び意識が薄れていった。
何度も激痛で目覚める。ベットの横にあるソファーには瑛明が横になり僅かに嚊をかいて寝ている。薄明かりの中で看護士が香奈子の顔を覗き込む。
「まだ痛いの?」
看護士の問いかけにか香奈子は声が出せず頷く。
「痛み止めの注射打ちますね」
香奈子は痛みが治まらずウツラウツラしている。
早朝に病院に運ばれてからな何も口にしていないのに吐き気がする。香奈子が餌付くと看護士がステンレス製のトレイを口元に宛がった。餌付くだけで何も出ないばかりか余計に下痛みが走る。
「注射は度々出来ないから座薬入れましょうね」
看護士は冷静に言ってから肛門に挿入した。
どのくらい経ったのだろうか少しは眠ったように香奈子は思った。ソファーでは相変わらず瑛明が寝息を立てている。看護士はずっと傍に居て介護してくれている。
「これなら生理痛のひどい時くらいだから耐えられます」
手術後初めて香奈子は声が出た。
座薬を入れると痛みは幾分か楽になった。
「寝返りはしておこうね。手術で、腸の動きを止めてあったから、腸が元に戻るように、寝返りをしておいた方がいいのよ。長い枕を持ってきてあげるから、もう少ししたら横向こうね」
夜中に目覚めると看護士が促す。
まだ痛みは感じるのに看護士に助けられながら足を立てる。
「その調子よ...今...長い枕を持ってきてあげるから横向こうね」
長い枕を背中に宛がった。
その後も何度かは目覚める度に長枕の位置を替えながら寝返りをさせられたがそのうち眠むてしまったようだった。
翌日、香奈子の意識は完全に戻っていた。痛みも、翌朝には半分位の痛みになっていた。
「あぁー、元気な顔色になったなぁ」
上背がありやや太め、色白の肌が印象的な担当医が病室に入ってくるなり言った。胸元のポケットに宮岡と名札が付いていた。
「お陰さまで...お世話になりました。」
傍にいた瑛明が言った。
担当医は病室に来るとそれだけ言って出て行った。入れ替わりに看護士が湯気が上がいるバケツを持って部屋に入ってきた。
「清拭しますね。少しだけ席を外してもらえますか」
看護士の言葉に促され瑛明は部屋を出た。
手術の前にも看護士が躰を拭いてくれた。それを清拭というのだった。やはりゴム手袋をして上半身と下半身にタオルを使い分けている。
手術前は気が付かなかったけど消毒液が入っている様で、臭いがしている。白い装束から寝巻きに着替えさせてくれた。寝巻きは朝になってから瑛明が病院内の売店で買い揃えてくれたものだった。T字や腹帯も替えてくれて気持ちが良くなった。
清拭が済むと瑛明はひと安心だと言って出勤して行った。
午後になり...手術当初から差したままだった点滴の管がやっと取れた。
「長い事、お疲れさまでした」
看護士が労いの言葉を掛けた。
点滴はまだ数日は続くようだ。普通の点滴なら注射針を指すのに管を抜いた先を見ると針ではなく細いビニールのようなものが刺さっている。
「針だと腕を激しく動かしたりすると危ないし痛いからチューブなのよ。」
看護士が説明してくれた。
「ガスが出たら教えてね」
看護士はそういうと部屋を出て行った。
午後になると早くもオナラ出た。しかもそれも大きな音で、回数も多い。出る度に便が出るような気がする。
「T字帯してあるし、ナプキンもてあるから、便が出ても大丈夫よ」
看護士に訴えると優しく答えてくれたので香奈子は安心した。
夕方になって再び担当医は回診にきた。
「朝はすまなかった。帝王切開や手術が重なり、話できなくて・・・」
本当に済まないと言うような表情だ。。椅子をベッドの側に寄せて座った。
「ガスが出たようだね」
「はい。出すぎてる困るくらいです」
「良かったねぇ・・・・・順調な証拠だよ」
心から嬉しそうな表情で医師は言った。
「寝返りはしておこうね」
手術を終えたばかりだという夜中に看護士が言うので痛む下腹を押さえながら寝返りを繰り返したお陰で順調なのかなと香奈子は思った。
「ご主人には搬送の時点での説明で了解を得ましたが・・・」
医師が端正な顔を引き締めて前置きした。
「貴方の場合は子宮内膜症でした。両方の卵巣が腫れ上がり癒着していました。私が執刀した中でも最も重症でした。子宮と左卵巣は全摘で右卵巣は悪い部分だけを摘りました。卵巣は一部残ってれば機能は果たすし再発の確率も低いでしょう」
(子宮全摘・・・・・・・・)
宮岡は卵巣の重要性を話したが、香奈子には子宮喪失感の方が強かった。
「生理痛や貧血もひどかったと思うけどね」
唖然としたままの香奈子を前に宮岡医師が言った。
「生理痛は10代の頃からありました。でも当たり前に思ってましたから...」
香奈子は10代の頃から生理痛と付き合ってきた。30才を過ぎた頃から生理痛はひどくなった。周期は普通で三週間で早い時は二週間。毎回五日間、濃く赤い色の出血が続いて、赤黒いかたまりも混ざる。タンポンとナプキンの両方をを使っても二時間しか保たない。タンポンが出血で飛び出す事さえあった。夜はナプキンを二枚後ろの重ねてもシーツまで赤く染まるので腰にバスタオルを巻いて寝ていた。今は夜用ナプキンも発売されているが...。
転げ廻るような痛みや、頭痛や肩凝りが毎回襲ってきて挙げ句の果ては、嘔吐するのだ。誰にも訴えられなかったが、性交渉の時に、突き上げられるような痛みも感じた。
生理が始まると外出はすべて中止。最低三日は昼夜トイレとの往復に明け暮れる。生理日以外の時も、薄い赤茶色のおりものがあって、普段出かける時も、年中、生理用品を持っていないと不安だった。そんな状態でも、産婦人科へは(手遅れで死んでも行きたくない)そう思い込んでいた。
「こんなにひどくなるまでよく我慢したね」
宮岡医師は笑みを浮かべ言った。
世話好きの母の友人の紹介で香奈子は短大生の頃から、お見合いをさせられた。22歳の時、三田村瑛明と結婚した。
結婚すれば子供は授って当然という風潮がある。香奈子も当然妊娠するものと思っていた。
「赤ちゃんまだ?」
人は気軽に声をかける。結婚した頃は、なかなkその言葉も気にはならなかった。数年経つと周囲は相次いで結婚して、次々と妊娠して親になっていく。気が付くと香奈子だけが妊娠すらしない。
結婚して半年経って運良く新居を購入した。結婚一周年を迎えた年に自治会の婦人部の委員が順番で回ってきた。婦人部の最大の行事になる地蔵盆の準備の為に委員が十人ほど自治会館に集まっていた。20代から30代くらいの主婦でそれぞれに数人の子供を持っていた。
「子供って可愛いのに何故、産まないの」
香奈子に子供がいないのを知るとその中の一人が言った。
「子供が嫌いなの?」
一番年長の脂肪たっぷりの婦人部長が問いかけた。
「嫌いな訳じゃないですけど...」
香奈子は少しムカッついていたが冷静を装って答えた。
「じゃあ...2人で遊んでいないで子供を作りなさいよ」
(作れって言われても...私だって早く産みたいよ・・・・)
香奈子は心の中で叫んだ。
「若い時に中絶でもしたから妊娠できなくなったんじゃないの?」
婦人部長が留めを刺すような一言を発した。
(そんなぁ...妊娠した事も一度もないのに...)
表情だけは冷静を装っているが香奈子の心中は怒が渦巻いてる。
「年子を妊娠したから中絶したけど、半年も経ったらまた妊娠したわよ」
「それってただの色好みやない...」
その場に居た誰もが笑い合う。中絶をしたことを堂々と言う主婦たちの会話に香奈子は重苦しい気分になった。
「中絶をしたのが原因で子供の産めない身体になった・・・・」
テレビドラマでもそんな台詞を堂々と使っている。
「私は一度も妊娠してないのに・・・一緒にしないで...」
香奈子はテレビに向かって叫ぶ。不妊の原因が中絶したことだけの様に言われる事を香奈子は極端なほど嫌っている。
(中絶なんて人殺しと同じじゃない!)
香奈子のそんな叫びを誰も知る由も無かった。
主婦たちが集まると自然と子供の話になってしまう。新婚間もない香奈子も子育ての夢はあった。子供談義に香奈子が口を挟んだ。
「子供居ない香奈子さんには分からないわよ」
「そうよ...それは理想論よ」
「子供を産んだことがない人にそんなこと言われたくないわ」
「子育てって大変なんだから...」
「新婚さんは優雅でいいわよねぇ」
「子無しの香奈子さんは黙っていて...」
香奈子は自分が子供を持った時にはこうしたい...と話しただけなのにその場に居た主婦たちの集中攻撃を受けた。
その頃は年齢も若くて妊娠する可能性も充分に残されていたから香奈子は「子無し」という言葉も差ほど気にならなかった。
結婚4年が過ぎて26歳になった頃に最寄りのJRの一つ手前の駅から徒歩10分くらいところに、産婦科クリニックが開院した。看板に不妊クリニックと記されてる。香奈子は秘かに診察を受けた。
妊娠しない原因を調べるのに夫婦とも検査が必要だった。検査を受ける前に検査方法の説明を受けて様々な検査があることを知った。二ヶ月くらい前からの基礎体温表をつけて、排卵があるかどうかをまず調べる。
「貴方の場合は排卵はあるようですが高温期が短いですね」
基礎体温表を見ながら担当医は言った。
毎月卵巣から出た卵子が卵管を通って精子と受精する。子宮から卵管が通ってるかを調べる子宮卵管造影検査がある。
「卵管造影検査を行う日の3-4日前は禁欲して下さい」
と医師から言われた。
「3日もお風呂に入れないのですか?」
香奈子は医師に問いかけた。傍にいた看護士がクスクス笑った。
「お風呂じゃなくて...つまり性交渉をしないことよ」
香奈子の耳元で看護士は囁いた。
禁欲と禁浴は耳で聞くと同じなので香奈子は看護士の言葉に赤面していた。
「ご主人の精液を調べますので次回の当日の朝に採取してきてください」
男性の検査は精液を調べる簡単なものだった。精液を入れるために、栄養ドリンクのような茶色い小ビンを渡された。
子宮卵管造影検査の日になった。
検査の前の腕に注射を打たれた。卵管を撮影のするのに通りを良くする為に子宮口から液体を注入する。その時に下腹をえぐる痛みが襲ってきた。
医師の横の椅子に座って写真を見つめているが何となく目が霞んでいる。
「あなたの場合は少し卵巣の通りが悪いですが、通りを良くする方法は幾つかあるし問題はないでしょう。」
医師が写真を見ながら説明した。
「何となく目が霞んでるんですけど...」
香奈子が言う。
「検査前の注射したでしょ?腸を動かなくする注射の精でら心配ないわ」
傍にいた看護士が説明した。
(それなら最初に言ってくれれば良いのに...)
香奈子は心の中で呟いただけで口には出来なかった。
「精液を採取してきましたか?」
卵管造影検査の説明の後医師が言った。摂取の小瓶は渡されたけが香奈子は瑛明になかなか言い出せなかった。
医師の言葉に香奈子はうつむいたまま小さな声で「いいえ」と言ったままもじもじしている。
「若いからご主人には言い難いわよね」
看護士が香奈子の気持ちを察したように言った。
「それじゃ...ご主人の検査の事を文章に書きますから・・・・・」
医師はそういうと傍にあった用紙に瑛明宛の手紙を香奈子に手渡した。
「結構そういう患者さんは多いから心配することないわよ」
看護士は香奈子よりひと回り以上年上と思われた。
その夜、 香奈子は茶色の小瓶と医師からの手紙を瑛明にそっと渡した。
「こんなことぐらい、はっきり言えば良いのに...」
瑛明は苦笑しながら医院に貰った細い小さな瓶を手に取って眺めた。
翌朝・・・いつも通り基礎体温を測った。体温計を見て驚いた。基礎体温を測る体温計は普通の体温計の目盛りとは違って細かく刻まれているが水銀が端まで突き切っていた。普通の体温計を出して脇で測ると38度3分を示していた。香奈子は普段でも36度が平熱で風邪を引いても37度にも達しない。体温計を見ただけで気分が悪くなりそうだった。
婦人科クリニックに電話した。名前を告げて熱のことを話した。
「造影検査の後には高熱にる事がありますから心配は要りません」
医師が言った。
(それなら最初に説明しておいてよ)香奈子は思ったが口には出せなかった。
排卵も有り卵管造営検査も何とか潜り抜けた。瑛明の精液も異常なしのお墨付きをもらった。最終段階は精子と卵子が授精できるかどうかという検査だ。担当医の説明によると精子と卵子の相性を調べるような検査だと言う。診察を受けに行く時には性交渉などまずすることはないがその検査は当日の朝に性交渉をするように医師から言われた。
瑛明は毎朝6時半に出勤するので香奈子は五時には起きていた。性交渉後は30分から一時間はは足を立てたまま安静にしているようにと医師から指示があった。その為に当日は4時半起きになった。前日に瑛明の朝食を用意して医師の指示通りに安静にしてから支度をして出かけた。
順番が来て医師の横に座った。
「精子が元気に動いてるよ。見てみますか?」
香奈子の子宮内から採取しシャーレに入れて顕微鏡で見ていた医師が香奈子に促した。顕微鏡を覗くとおたまじゃくしの様なのがたくさん動いていた。
「よく動いているでしょう?・・・ご主人に関しては全く問題ありませんよ」
太鼓判を押すように医師が言った。
「貴方の場合は...基礎体表の高温期が非常に短いのが気になりますね。普通は二週間くらい高温期が続いて低音期になって排卵があるんだけどね」
香奈子の場合は黄体機能不全だと医師が言った。
受精はしても子宮に着床しないと妊娠は出来ない。
「着床に問題があるなぁ」
医師はつぶやくように言ったが、黄体機能不全や着床が問題だと言われても香奈子にどういうことなのか理解は出来なかった。医師に説明を求めても良いのかもその頃は分からなかった。
「基礎体表を付けながら高温期になった時点で1日おきに三回注射をする治療をしましょう」
それ以上の説明を聞けないまま月三回の通院が始まった。
香奈子が治療を始めた頃は世間では一般的に無関心で不妊治療関連の出版物も少なかった。不妊という言葉さえ口に出来なくて香奈子は友人にも言わず隠れるように医院に通った。
産婦人科クリニックに通いながらも子授けの神社仏閣にもお参りしていた。北向きのお地蔵さんに日参すれば子授けが叶うと聞き通ったりもしていた。
香奈子の後から結婚した人も次々結婚して親になっていく。
「何故...私だけ妊娠できないのか。悪い事していないのに・・・」
香奈子は周囲の誰かに妊娠を聞くたびに母に訴えた。
「辛抱してれば神様が授けてくれるわよ」
母は言い続けていた。
結婚後暫くは妊娠できない香奈子を母は不憫がった。その当時もまだ母は働いていた。職場の同僚達も次々孫に恵まれていた。
香奈子には小学校から高校まで同じ学校だった幼馴染がいた。母親同士も同じ職場に働いていた。香奈子は23歳で結婚したがその子は25歳で結婚して26歳で子供を産んだ。
「結婚は香奈ちゃんに負けたけど出産はウチの子が勝ったわよ」
幼馴染みの同級生の友達の母親が言った。
母の職場の同僚の人達も香奈子に子供が出来ないことを知ると
「まだ若いのだしそのうち出来るわよ」
新婚当初は誰しもそんな口調で香奈子に声を掛けていた。年数が幾つか過ぎても香奈子に変化が現れない。
「早くできると良いね」
「まだ出来ないの?可哀想にね」
「気の毒に...早く出来ると良いのにね」
結婚年数が浅い頃はその言葉も気に掛けない香奈子だった。
「身障者じゃないんだから子供は出来るわよ」
母と同年代の女性は差別的言葉を使う。
香奈子に子供が出来ない事を知った時の老若女性たちの言葉は年数を経る毎に替わった。
優しい気な言葉を掛ける人もあったのだけれど・・・
幼馴染みの同級生の母親の言葉を耳にしてからは相手が子供が居たり孫が居る人だとそんな言葉の裏には勝ち誇ったニュアンスがあるのを感じてしまう。結局はどんな言葉も香奈子には励ましにならないまま年数が経った。
周りの人間が幸せそうに見える中で香奈子は毎月々の生理が始まってしまうと奈落の底に落とされた日々を過ごしていた。便器が真っ赤に染まったのを見つめながら声を殺して泣き続けることも度々あったが誰もそんな香奈子の姿など知らない。すぐに子供が授かった人には想像も出来ないことだろう。2年続けて子供を生んだ友達などは生理があると喜んでさえいた。
結婚間もない頃には子無しと言われても気にならなかった。子供が無いのだから子無しと言われても当然なのだろう。言うほうは悪気は無いかもしれないが、複数の子供に恵まれてくると子無しと言われると絶望感に打ちのめされた気がしてくるのだ。
「何故、妊娠できる身体に産んでくれなかったのよ」
周囲の何気ない言葉に神経質になりストレスが極地に達していた。お正月に里帰りをした時、香奈子は苛立って母にぶちまけた。
「なんて事を言うの...そんなことを言うから神様が助けてくれないのよ」
母だけは自分を守ってくれると信じていた香奈子は母の言葉に耳を疑った。
(母も味方になってくれない...)
母までも励ますどころか香奈子に説教をするのである。誰にも理解してもらえない鬱積した気持ちをどうすることも出来なかった。妊娠出来ない香奈子を不憫がった母の姿はもう何処にもないどころか心がけの悪さを責める母に落胆した香奈子だった。
通院をしていた産婦人科クリニックは開院したての頃は待合室も空いていた。院長は大学病院で名のある医師だったらしく、噂を聞きつけて次第に患者が増えた。不妊クリニックと看板には書いてあるものの多くは妊婦だった。不妊治療で通ってるのは香奈子だけのような気さえしていた。
香奈子は注射だけなのに妊産婦の診察は長くて途轍もなく待たされる。
(注射以外の治療法はないのかしら・・・・)
香奈子がそう思っても順番が来る頃は待ち疲れてしまう。
待合室は常に妊産婦で溢れ返っている。
(私は妊娠したのよ。貴女には真似出来ないでしょう)
待合室中の人間がお腹を無理に突き出して香奈子に向かって誇示するように見える。妊娠してないのは自分だけだと思うといたたまれない。
妊娠を期待する香奈子なのに容赦なく生理がきてしまう。そんな時に妊婦に囲まれると香奈子は苛立ちが募ってくる。思わず妊婦に香奈子は足を駈けたくなる衝動に駆られる事さえある。
順番が来て診察室に香奈子が入ると白いカーテンの奥の内診台にはまだ処置中の妊産婦がいて看護士と話し声が聞こえる。
香奈子は腰に注射をしてもらう為に壁際のベッドに横になると医師は無言のままカルテに薬の名を記入する。看護士はカーテンの奥から出て指示されたアンプルを切って注射器に詰めた。それを医師に渡すと役目は終わったとばかりカーテンの向こうに居る妊婦と会話を続けた。
開院当時居た看護士は数年のうちに若い看護士に入れ替わっていた。妊産婦とは会話する看護士は香奈子には言も掛けない。香奈子の腰に注射を打つと医師もカーテンの向こうに消えた。
「有り難うございました」
香奈子が身支度を整えて言ったが内診室から話し声がするだけで反応がない。無視されたまま診察室から出た。
(不妊の患者には冷たいんだ)
香奈子は呟いた。
月三回の注射の為の通院は不妊患者へのクリニックのそんな扱いが度重なった。注射以外の治療はないのかと香奈子は不妊治療の本を求めて書店に行った。探し当てた本には原因がある例の治療ばかりで香奈子のような場合の治療は載っていなかった。
30歳を過ぎた頃に考え悩みぬいた末に人工授精に賭けてみようと思って香奈子は医師に相談した。自然に妊娠することが良いのに決まっているが何かせずには居られなかった。
「あなたの場合は人工授精の必要もないですよ。授精はしてるから・・・・」
医師が言った。
それでも何もしないよりは良いと香奈子は食い下がった。良い顔をしなかったも香奈子の強引さに根負けして渋々承知した。一度だけの人工授精で妊娠が期待出来ないことは医師から言われて承知した。
医師の指示で基礎体温表を頼りに機会を待った。生理が終わって基礎体温表が低温になった日、夫から採取した精子を持って行く。医師がそれを子宮の奥に注入する。処置の後は医師が香奈子を抱いてベッドに連れて行った。白いカーテンで仕切られた隣は内診台になっている。そのベットで精子が子宮に落ち着くように一時間ほど安静に横たわっている。その間も次々と妊婦診察がある。内診台からは妊婦と医師の話が聞こえる。時折、布越しにライトが点いて医師の姿が浮かんで見える。妊産婦の肢体もおぼろげに影になる。妊娠して順調に育つ胎児に会話も明るい。香奈子は会話を聞いているだけ。
医師の言う通り一度で妊娠はしない。
毎回、診察室の片隅に受精処置後の香奈子は内診台と白いカーテンだけを隔てたベットで一時間安静することが続いていく。注射の時と同じように医師も看護士も事務的に香奈子に対処する。妊婦の診察の間にカーテン越しに横たわる患者など眼中にないというよ雰囲気を感じる。
「もう少し寝ていてね」
その間に看護士がひとこと声を掛けてくれたら、或いは別の部屋で寝かされていたら、少しは気持ちも違っていたのだろう。診察室の片隅に、香奈子は一時間も放っておかれた。足を立てたままベットに寝ていると、目頭が熱くなってくることもある。白い布一枚の表裏には確かに明暗があった。1時間後、ベッドから起き上がって診察室を出るときには惨めな気持ちになる。
開院当初にはベテランの域に達した看護士が居て医師の言葉不足も補って説明したりして優しく接してくれた。患者が増えるに従って若い看護士が主流になった。妊婦も多くなって看護士と年齢が近い精か香奈子のような不妊の患者には配慮をしなくなっていた。産婦人科なんて子供を産ませるだけの診療科だと香奈子は思った。
看板には不妊クリニックと書いてあるのに不妊患者への気配りは全く無く不妊患者の扱いは最悪だと思った。
年齢が高く成るほど出産のリスクは高くなる。35歳になるとカルテには高年齢出産の意味の高いという字を丸で囲ったマルコウと言われるハンコを押されるという。その年齢的は余裕はあった。その頃の香奈子の治療は保険の範囲内で経済的に楽だったが、妊婦への嫌悪感とコンプレックスで精神的苦痛は限界になった。
通院以来、医師から基礎体温付けるように指導された。日課の如く付けるように毎朝計る。基礎体温は排卵があるかどうか知る為もあるが女性にとっては自分の体調を知る事にもつながる。不妊治療の通院に必ず体温表を持参すると医師はその表に注射薬名を書き入れる。朝起きてすぐ、五分間婦人体温計を口にくわえる。
香奈子は夫が6時過ぎには出勤するので五時半には起きる。目覚まし時計を押して体温計を口にくわえると寝てしまう。(じゃりっ)と音がする。体温計を噛み砕いで、水銀の粒が口の中に溜まった。実際に水銀が粒になるかどうかは知らないが、夢の中では銀色の粒だった。粒を吐き出のに、限りなく出てくる。再び時計の音で香奈子は目が覚める。
「ハイ貴方の赤ちゃんですよ」
看護士から赤ん坊を渡される。
おくるみに包まれてずっしりと重い。抱きしめていると、いつの間にか軽くなる。気が付くと人形になって、おくるみだけを抱きしめているところで眼が覚める。僅か五分間の検温に同じ夢を何度も見る。どっちの夢を見ても、起きる気がなくなり、憂鬱になる。
不妊治療に必要な検温さえ香奈子にはストレスになった。
臓器移植が世間を騒がす。(子宮移植が出来たら私も母親になれる)
そんなことを香奈子は真剣に考えこんでしまうのだった。
夢の達成できる筈の期限はとうに過ぎていた。高年齢出産もすぐ目の前に迫っていた。
「三田村さんには残酷な結果になってしまって・・・・」
宮岡は本当に気の毒と言うように顔を曇らせた。
「妊娠は出来ないけど、卵巣が機能すれば支障はないし、子宮がなくても悲観する必要はないよ」
宮岡は長身を折り、ベットの側の椅子にどっかと座って話し込む。
「子供を産んだとか産めないとか子育ての経験が有る無しは問題じゃない。どんな生き方をするかが大切なんだよ。子供がいない事を受け入れて君の人生を楽しむ事が大事だと僕は思う」
宮岡は香奈子に言葉をかけた。
「患者さんの気持ちを大切にするのが宮岡先生よ。無愛想で言葉が荒いのがたまに傷なんだけどね」
回診のあと処置で部屋に居た茶髪に染めた看護士が言った。
その日の夜に会社帰りに瑛明が病室を覗いた。
「ガスも出て順調だって先生が言ってたわ」
香奈子が言うと瑛明は香奈子の額にキスをして
「よかった・・・安心したよ...じゃぁ僕は帰るよ」
笑顔を見せて手を振って病室を出て行った。
昼間から看護士に言われたように一人になってもベッドで寝返りを繰り返ししていた。痛みを堪えながらもぎこちなく出来るようになった。深夜...足を伸ばすとお腹が引っ張られる。足を立てるとお腹は楽になるが暫らくすると足がだるくなった。そのうち腰がダル痛くて寝返りも出来ず眠れなくなってしまった。
香奈子は堪らなくなって初めて枕元にあるナースコールした。
「どうしんですか」
香奈子の部屋の真ん前が詰め所だった。香奈子の押したチャイムが部屋に聞こえた。
「腰が痛くて眠れないんです」
香奈子が訴えると看護士がすぐに部屋に来た。
「バスタオルある? まるめて、腰に当てるといいよ」
ロッカーには大きなバスタオルが入れてある。看護師が巻いて香奈子の腰にあてがった。 いつの間にか香奈子は眠った。
手術から3日目の朝。点滴は必ずドクターがする。午前の点滴に若い医師が来た。普通は針を刺す時、掌の方から脇に向かって刺す。その時の医師は脇から掌に向かって刺した。その為に肘を少しでも曲げると痛みが走る。そのうち針を刺した周囲が痺れてきたので看護士にナースコールして訴えた。
「痺れるような処へはしてないけれどね」
看護士は言う。
時間が長く掛かる点滴だったので香奈子は何度も痺れと痛みを訴えた。
「あなたは痛いがり屋さんね」
看護士は笑いながらいった。
午後からの点滴は宮岡がしたので通常通りの差し方だった為か痛みもなかった。午前の針の刺し方を宮岡に訴えようかと思ったが看護士に笑われそうで香奈子は黙ったまま針先を見ていた。
次の朝、香奈子は覚えていなかったが尿道に管が入れられて尿はそこから出ていた。その管が朝に抜かれた。その日から食事も普通になっていた。
「便でも尿でもどちらが出ても知らせて」
看護士が言って、ポータブルトイレを置射ていった。
尿管が取れた後、尿意などは感じないが、ポータブルトイレに跨ると便も尿も勢いよく出たので看護婦士に伝えた。ガスも益々大きな音でよく出る。個室だから誰に気兼ねはない看護士が出入りする。
「便も尿も出たんだって?」
暫くすると宮岡が部屋に来て言った。
「順調や、良かったなぁ」
笑顔でそういうと部屋を出て行った。
下腹部は、まだ痛くてベットから下りるのが辛い。便は出たけれど香奈子はポータブルトイレを使うのが嫌だったので早く歩きたいと思った。しかし気持ちはあるのに体なかなか動かない。
「一人でトイレに行けるように歩く練習をしようね」
看護士は香奈子の顔を見るたびに言葉を掛ける。ベッドから起き上がれるコツなども丁寧に教えてくれていた。それに応えようと香奈子は頑張って起き上がる練習をしたがなかなか上手く起き上がれない。そのうちに頭痛がしてきたので看護士に訴えた。
「頭痛はどうだい」
夕食を食べ始めた時に宮岡が部屋に入ってきて言った。
「下腹も痛いし、頭痛もします」
ベッドから下りて椅子に座っている香奈子に宮岡は驚いた表情をしてる。
「あれだけの手術をしてまだ3日目なのに椅子に座って食事するのは無理だよ。頭痛がしてくるのも無理ないよ...まだ安静にしてないと駄目だよ」
宮岡はやや厳しい表情で言った。
お手洗いに行きたい一心で歩く練習をした香奈子だったが裏目に出たようだった。手術後4日目には個室を出ないといけないが宮岡の指示でもう一日個室に居ることになった。
5日目の朝
「きょう二人部屋に移って貰うし。荷物の整理をしておいてね」
8時頃、看護婦が来て言った。
看護助手が手押し車に布団や荷物を積んで運んでくれる。香奈子は、手ぶらで歩いて行く。ロッカー中を整理して荷物をまとめた。
「部屋を替わったんやなぁ」
2人部屋で荷物を整理に掛かっていると、宮岡医師が回診に来た。まだ、動くとお腹が痛い事を訴えた。
「抜糸したら楽になるし、ゆっくり荷物整理したらいいよ」
そう言って宮岡は聴診器を手にしながら部屋を出て行った。
荷物の整理を終えてから、カーテンを開けて同室の人と挨拶をした。 若い妊婦だった。明るくて育ちの良さそうな人だ。
抜糸は手術後8日目だった。抜糸の道具が乗ったワゴンを看護婦が持ってきた。新聞紙で作った袋をベットの上に置いた。香奈子は、お腹を出して寝ている。看護婦は、消毒液を含ませた綿をピンセットに挟み、もう片方の手に鋏を持って用意している。
「先生、早く来てよ!何してるのかな。見てくるね」
ピンセットと鋏を両手に持ったまま看護師が見に行った。
「先生!早く来て下さいよ。もうお腹出して待ってもるんですよ」
廊下で看護婦の声がする。その声に、急かされて宮岡医師が笑顔を見せながら、入って来た。消毒液を付け直してピンセットを主治医に渡す。
「綺麗にくっついてるわ」
傷に消毒をしながら主治医が云う。糸を鋏で切って、ピンセットで抜く。ピリッと痛い。死ぬ程の激痛を超えてきたから大した事はないが、香奈子はオーバーに「痛いっ」と叫んだ。
「こんなもん痛くないだろ」
と宮岡医師が言う。
「痛いですよ」
香奈子は反論した。
「分かった分かった、あと三つ二つ一つ、はい終わったよ」
秒読みしながら抜糸は済んだ。
「あの先生の、ぶっきらぼうなしゃべり方を聞くと叱られているみたいで嫌いや。顔はハンサムやし好きやけど」
同室の彼女は、宮岡医師が回診に来る度に、云うのだった。
抜糸が済むと、下腹部は幾分かは楽になった。咳が出た。
抜糸前ならお腹が引っ張れて香奈子は辛かった。
「あっ咳しても痛くないわ。咳が出来たわ」
と香奈子が思わず叫んだ。
「良かったわねぇ。おめでとう」
看護士が拍手しながら言った。その時から、咳も鼻をかむ事も咳払いもくしゃみも来るようになった。
抜糸の翌日、初めてシャワーをした日、香奈子は恐る恐る傷を見た。
おへそから6㎝位下から8㎝位の傷が赤い線になっている。 その線を恐辿ると、針金でも入っているくらい堅い。
針の抜けた後の傷が、六ヶ所ある。アンテナの様に見えるけど、初めて見る傷は少々薄気味悪いと香奈子は思った。
退院して一年くらい経った頃だった。
急に顔が火照ったかと思うと首筋の辺がぞくぞくする。冷房が利いた部屋にいても肩から顔にかけて汗が吹き出る。肌は白いほうなのに顔が火照って紅くなる。寝汗をかいて夜中にパジャマを着替えるくらいだ。腰の辺りに冷たい濡れ雑巾を当てられたような冷えを感じる。足も冷える。
宮岡の診察を受けると、40代を迎えたばかりの香奈子なのに更年期の症状が出たという。宮岡の指示でホルモン補充療法を試みる事になり、四週間に一度の通院は始まった。
産婦人科の症状は口に出し難い事が多い。文章を書くのが好きで筆まめな香奈子は便箋に書いた。
「質問状だね」
恐るおそる差し出すと宮岡は気軽に受け取った。質問や疑問にも丁寧に答えてくれるのだ。
香奈子が黙って座っていると
「三田村さん、きょうは手紙はないの」
看護婦がそう言うくらい香奈子の質問状は浸透した。
宮岡は週三回外来を受け持っている。
「月曜日は産科外来ですから三田村さんは水曜か金曜の婦人科外来の日に来て下さいね」
看護婦は香奈子にそう指導するが、妊産婦は婦人科外来でも見かける。一度の妊娠もなく妊娠を諦めざるを得なかった香奈子は妊婦の存在すら嫌悪感を持った。その妊婦が多い日は必ず待ち時間が長い。
香奈子が待合いロビーにいると、宮岡が診察室から走って出た。1時間程して戻ってきたが、香奈子が診察室の中待合いに呼ばれたのは更に2時間後。その日も妊婦が多く、香奈子は苛立ってる。
産婦人科では投薬だけでも医師と顔は会わす事になっている。質問がある日でも香奈子は、数分で診察は終わる。診察室と中待合いはカーテンで仕切っただけ。患者に説明する宮岡の声が聞こえる。その日はやたらとそんな患者が多かった。その上香奈子の両隣は妊婦がいた。香奈子は妊婦への嫌悪の気持ち持っている。宮岡は庇ってくれたが世間は甘くない。針のむしろが迫ってきた。
「三田村さん」
いつも看護婦の役目なのに宮岡が香奈子の名前を呼んだ。
「長い事お待たせしました」
時間を持て余すのを宮岡はしっかり見ていたようだ。
「もう、キャンセルしようかと思いましたよ」
香奈子はわざにオーバーに大声で答えた。
「きょうは病棟での処置もあって、手間取ってしまって申し訳ない。このあとも緊急オペが控えているんだよ」
其の日は淡々とした宮岡の言葉に香奈子は救われた。
病院の裏庭の桜が満開になった。昔はそこが外来診察棟で正面玄関だった。数年前、そこに病棟が建て替えられた。香奈子が救命センターに運ばれて手術を受けてから二年が経って、四週に一度の通院も香奈子の生活の一部になった。
いつものように受診カードを出してから旧館にある売店で牛乳を買った。新館に通じるドアの前に立つと階段から白衣の前ボタンをはめながら宮岡が降りてきた。
「おはよう。きょうは遅刻だよ・・・・」
香奈子の顔を見ると、はにかみながら弁解した。
遅刻した割には早く外来に宮岡は現れた。五分くらい待つと名前が呼ばれて診察室に入った。診察が始まって時間が経ってない為か宮岡の口調や表情にはいつも以上に余裕がある。珍しく薬待ちも短時間で済んだ。
大学病院に通っていた時は自宅から電車など乗り継いで2時間もかかったが市内の総合病院は小一時間で通えた。病院から帰宅すると12時前だった。友人にもらった菓子箱にて薬をいれておく。
袋から出すと薬の名前が違っているし錠剤の形も少し違っている。すぐに病院に電話して宮岡に伝えた。
「カルテを調べて、折り返し連絡するから」
宮岡はそう言って電話を切った。5分ほどするとベルが鳴った。
「すまなかった、処方箋が間違っていたよ。手間をとらせて悪いけど交換にきてくれるかい」
医師は誤診も認めないと言う。宮岡は素直に詫びた。
翌日は朝から小雨が降っていた。
「おはよう」
駅を降りて病院への道を歩いていると声がした。
振り向くと色つやのいい顔に笑みを浮かべた宮岡がいた。
「昨日は薬を間違って悪かったね」
大柄な宮岡が香奈子を見下ろした。
香奈子は「いいえ」と言って首を振った。
「濡れるから中に入ったら、小さい傘だけど・・・」
駅に着いても小さい雨が降っていた。バッグに傘は入っていたが差さずに歩いていた。宮岡が黒い傘を差しかけたので従った。折り畳み傘の紐に袋がくくりつけてあった。
外来玄関前で宮岡は傘をたたみドアを開けると香奈子を促した。
受診カード機の前で宮岡は香奈子に会釈して患者で賑わう渡り廊下を歩いて行った。外来の看護士に事情を話しソファーに座った。30分程経った頃、白衣の宮岡が診察室に入った。いつもは看護士から受け取るファイルを宮岡が持って出てきた。
「薬局に事情を説明するから・・・・・」
香奈子の薬は生命に関わらないが、宮岡は慎重だ。会計を済ました香奈子から、処方箋を受け取った宮岡が薬局に持って入った。
「2度手間させて済まなかったね」
数分で薬局から出てくると宮岡は再び香奈子に詫びた。
「宮岡先生・・・ここにいらしたんですか」
香奈子の後ろから声がした。
(あっ竹田篤子さんだ・・・・・)
20年程前、大好きだったウィーン少年合唱団が来日時に通訳をしていた人だ。香奈子より7-8歳上だと記憶していた。溌刺と働く篤子を見て香奈子も通訳になりたいと密かに憧れた人だった。
「先生、ポケベル切ってあるんじゃないですか。さっきから鳴らしてるのに・・・・応答がないから捜してたんですよ」
通訳時代は背が高い上にスリムな身体にミニスカート似合った。目の前にいる篤子はいくらか太って見えた。
「あっ、悪い悪い、切ってあったよ」
宮岡はポケベルを手にした。照れ隠しなのか冗談ぽい口調になる。香奈子は声を掛けようか迷ったが、二人の会話が続くので宮岡の後に隠れるように立っていた。
「あらっ・・もしかしてディアンドルの香奈子じゃない?」
ディアンドルはオーストリアやドイツの民族衣装の事だ。衿なしのブラウスとジャンバースカートに前掛けをつける。香奈子はそれが好きで家庭科の教師に教わりながら縫い上げた。黒で裾に模様のある布地で前身頃に組み紐を掛けて結ぶとアルプスの少女になった気分だ。それを着てコンサートに行った。終了後、楽屋口から紺のセーラー服の団員達が出て来て香奈子を見ると握手を求めてきた。当時ドイツ語が出来ず、ただ笑っていた。
「ディアンドルが似合って可愛いいと言ってるわよ」
少年達と一緒に出てきた女性が香奈子に教えた。
それが竹田篤子だった。それが縁で文通するようになった。
数年経ち篤子はウィーンに留学した後結婚した。香奈子は通訳になりたいとテレビのドイツ語講座で会話程度は出来るようになったけれど高校から短大に進むとウィーン少年合唱団ファンを卒業した。その後年賀状のやり取りなどはあったが年月を経て音信不通になり篤子の思い出も消えてしまっていた。
「松永香奈子さん、そうでしょう?」
篤子は旧姓で念を押すように言った。
香奈子が頷くと篤子は手を握りながら飛び跳ねた。
「どういう知り合いなんだ」
宮岡が呆れたように眺めている。
「私の妹分なんですよ」
片目をつぶりながら篤子が言う。
「久しぶりねぇ、どうしてたの。手紙大好き人間の香子が手紙くれないから気にしてたのよ。元気だった・・・」
篤子は宮岡を無視したように早口に言った。
「ええ、まぁー」
曖昧に香奈子は答えた。
「懐かしいわねぇ 香奈子。話したい事いっぱいあるのよ」
篤子は多少興奮気味だ。以前の篤子はクールな人だった。
「香奈子、今、時間とれない」
「ええ、いいですよ。私も話したい事いっぱいあるし・・・」
「先生も一緒にポエムに行きません?」
ポエムは病院前の喫茶店だ。
「いや、僕はまだ回診もあるし、二人で行っておいでよ。積もる話もあるだろうからね」
宮岡は言うと背中を向けて立ち去った。
篤子と二人で[喫茶ポエム]に入った。カウンターには高い椅子が5つあって、二人掛けと4人掛けのテーブルが8つある手頃な店だ。開店したばかりのようで、4人掛けの席に向かい合い座った。若い店員が注文をとりにきて篤子はコーヒー、香奈子はミルクティーを頼んだ。
「今、何か仕事しているの?」
篤子が切り出した。
「専業主婦して遊んでるの」
香奈子は答えた。
世間は専業主婦というと必ず「退屈でしょう」と言う。税金や年金を払っていないからと専業主婦は社会のお荷物。やがては専業主婦は無くなるだろうと言われる。以前は反発したり弁解をしていた。月日が経って家事労働は自己満足でしかないと悟って逆らわない事に決めた。
「今、専業主婦でいられる人って幸せだわ」
暇でしょうと言わない篤子にほっとした。
「宮岡先生の患者さんなのね」
「ええ、2年前に執刀してもらったの」
「先生はね、病院中の医師の中で一番オペが上手なの。外科志望だったんだけど体力に自信が持てなくて内科的診療も出来てオペも出来る婦人科を選んだそうよ」
篤子は根掘り葉掘り聞かないところが気楽だ。
「篤子さん詳しいんですね」
「私、産婦人科の医局秘書をしているの。でも、急に辞める事になってね。今、後任探しで大変なの」
10年余りもお互いに消息も知らず過ごしてきた。
「医局秘書なんですか・・・・」
「秘書といっても雑用が多くてね」
「どうして急に辞めるの?」
「私ね、遅ればせながら去年、結婚、じゃない再婚したの。彼が北海道に転勤になって付いて行く事にしたの」
篤子は通訳時代に一度結婚して僅か三ヶ月で離婚した。
「おめでとうございます」
香奈子は言いながらカウンターを見た。
カウンターの女性は香奈子に一瞥を送ると若い店員に指示をした。女性はポエムの店長らしい。
「私、今流行のバツいちだからね」
篤子が目配せをしながら言う。
「香子はどんな暮らししていたのかなぁ」
香奈子が一番嫌な決まり文句の質問を篤子はしない。
「宮岡先生にもっと早く会ってたら人生変わったと思うの」
言いたい事がたくさんあって何から話せばいいか香奈子は迷った。再会して、のっけから愚痴話も出来ない。
「先生の人間性に助けられたって訳ね」
篤子は何も聞かないうちから香奈子の気持ちを察した。
「私、たくさんの医師を見てきたわ。患者さんの目の高さに立って接しているのは宮岡先生だ。無愛想だから誤解され易いんだけどね」
病棟の看護婦も同じふうなことを言っていた。
「不妊治療で通院した時にね、見かけが優しいドクターに裏切られたの。初めて宮岡先生と会った時から期待しなかった。日が経つにつれて、ぶっきらぼうなんだけど暖かくて、いつの間にか宮岡先生の誠意が伝わってきたの」
「宮岡先生、香子の憂いを全て拭って下さったでしょう?」
篤子は香奈子の葛藤を知るかのように言う。香奈子は大きく頷いた。
女店長が水入れを持ち、香奈子の横に立った。
「後任はもう決まりました?」
コップに水を注ぎ、篤子に満面笑みを浮かべて言う。香奈子には刺すような眼をした。
「まだなの。先生と相談して決めますから・・・・」
篤子の顔が少し不愉快そうに歪んだ。店長から顔を逸らしテーブルに目を移した。女店長は香奈子を窺い見る。
「他にも候補がいるの。どちらにしても連絡しますから。ごめんなさいね」
篤子が言うと女性は香奈子を凝視しながら席を離れた。
「店長は香子を気にしているみたいよ知り合いなの?」
篤子も気が付いたようだ。カウンターに戻っても睨むように香奈子を見るので気味悪くなった。
「私は覚えがないんだけど・・・・」
香奈子は考えるが咄嗟に思い出せない。
「医局においでよ。今なら先生達は病棟か外来だから・・・」
レジでお金を払うと篤子が誘った。
旧館の三階に医局はあった。建物は古いけれど病院特有の臭いはないしタバコ臭さもなかった。白い壁には所々傷やシミが付いている。そのシミを隠すかのように子宮や卵巣の写真がボードに貼って飾ってあった。
「最初から此処に来れば良かったわね」
篤子は肩をすくめた。
「今、後任の選考してるのよ。人を選ぶって難しいわ」
篤子のデスクにはノート型のパソコンが置いてある。
「ポエムの人も候補なんですか」
「そうなの。身元はしっかりしているんだけれど麻耶さんは英語が苦手でね、他は20歳代なので迷ってるのよ。何しろわがままな医師達を相手にするんだからね」
麻耶と聞いて香奈子は思い当たる人がいる。篤子は履歴書を前に思案中だ。香奈子は何気なく書類を覗き込む。顔写真を貼った履歴書を見た。学歴の中に香奈子と同じ小学校名を見つけた。
(栗崎麻耶だ・・・・・)
名字は変わっていたが生年月日を確認した。
小学五年生の時、ウィーン少年合唱団の好きな栗埼麻耶と同じクラスになった。麻耶はその当時すでにウィーン少年合唱団のコンサートに行っていた。香奈子も合唱団が好きだと知るとその時の話を聴かせてくれた。
麻耶には布田絹代と言う親友がいた。香奈子が合唱団の話をするとすぐ絹代が飛んで来て、話題を替えたりを他の場所に連れて行ってしまう。二人の父親が同じ会社で働いていて幼なじみだった。麻耶の父親はPTA会長や自治会の役員を引き受けて地域では知名人だった。麻耶は成績が良く目鼻がくっきりした美少女で低学年から目立った。男子には特に人気があった。絹代も美形だが麻耶ほどでもなく引き立て役に甘んじていた。学校でも町でも揃いの服を着て手をつないで歩くほど仲良しで有名だった。
香奈子の通う小学校は二年毎にクラス替えがある。麻耶と絹代は一年生から何故か同じクラスだった。五年のクラス担任の提案で男女三人づつのグループを作った。メンバーは三ヶ月毎くじで決めた。実験や研究課題もグループごとに発表する。恒例のグループ決めでは毎回、誰と一緒になるかドキドキした。箱の中に教師が用意した班の番号を書いた紙が入っている。朝一番、くじを引いてから班ごとに席に着く。賑やかな教室で麻耶が女子生徒と紙を交換するのを香奈子は偶然見てしまった。
「紙を交換したでしょう。それルール違反よ」
香奈子が麻耶に近づいて小声で注意した。
「この子が替わってもいいって言ったのよ」
女子生徒に確認すると頷いた。香奈子は引き下がったがその班には絹代がいた。一学年終わるまで二人は同じグループにいた。
三学期になり香奈子は麻耶と絹代と同じグループになった。三人という人数は誰かがはみ出す。麻耶と一緒の班になった者は当然のように仲間外れが免れない。トイレ掃除当番が廻ってきた。掃除当番もグループ単位で順番で回る。掃除の仕方も約束ごとがあった。掃除日誌によく頑張った順からABCで評価する。一番頑張ったものにAを付ける。
「手洗い掃除すると美人になるよ」
香奈子は祖母からおだてられて家のトイレの板の床や便器を毎日拭いた。小学校のトイレはタイル張りの床。便器と床を柄付きのたわしでこすって水で洗い流すのだ。
男子はトイレ掃除を嫌って逃げる。意外な事に麻耶までトイレの臭いをいやがって絹代とトイレの外で話すのだ。仕方なく香奈子は一人で掃除をした。用具を片付けて教室に戻った。掃除日誌を開くと、香奈子にC点が付いている。班長に問うと絹代から香奈子がさぼったと聞いたと言う。
「二人は廊下でしゃべってたわ。私一人でしたんだから・・」
「布田と栗崎が証人なんだぜ。嘘を付くなよ」
美形で男子生徒に人気がある麻耶が口裏を合わせるので香奈子の話を信用しないのだ。
「君たちだってさぼったでしょう。書き直してよ」
そこに麻耶と絹代が入ってきた。
「麻耶ちゃんがAよ。直すことないわ」
絹代は平然と言うと男子に急かせて日誌を教師に届けさせた。麻耶はうつ向いたままだった。それからと言うもの掃除当番になると男子は決まってさぼる。香奈子が注意をすると「嘘つきのくせに・・・」と囃し立ててふざけるのだ。絹代と麻耶は雑巾や箒は持つだけで教師が来た時だけ手を動かした。
容姿が良く勉強も出来て家庭にも恵まれた麻耶のずるい一面を香奈子は知った。三学期も終わりの頃、香奈子は教師に、掃除の一件やくじの事を話した。6年生になると教師は割り振りを変えた。
「新学期から名簿順にグループを決めます。松永さんから提案があって掃除当番の採点はなくす事にします」
始業式が済んで教室に戻ると教師が言った。卒業まで同じメンバーになった。掃除当番の採点にはクラス中でも不満があったのは事実だった。蔭では言っても誰も教師の前では言わなかった。採点がなくなって助かった生徒も大勢いた筈なのに、香奈子が教師に訴えた事に非難が集中した。教師のいないところで無視されて、あだ名が[女スパイ]になった。採点がなくなった為、特に男子は益々掃除をしなくなり「嘘つき女」とか「女スパイ」と香奈子を罵った。生真面目な香奈子の性格が仇になり孤立した。
香奈子の住む地域は三つの小学校が一つの中学に集まる。マンモス中学と呼ばれて当時はモデル校になっていた。香奈子は、皆んなと同じ中学には行きたくなかった。県外の私立中学を受験しようと密かに猛勉強をした。私立校は幼稚園から大学まである。多くは小学校で受験し進級する。クラスから数名が受験した。麻耶もその中にいた。合格したのは香奈子だけだった。担任教師に祝福される香奈子を麻耶が尖った眼で見ていた。
私立中学までは電車通学になった。二年生になると父親の勤務の都合で中学のある地域に運良く引っ越したためクラスメイトとも会う事はなくなった。
はじめは同名の別人かと思った。同級生に麻耶という名は他にないので、あの麻耶に違いない。
「看護婦によると麻耶さんはうちのドクターに入れ込んでいると言うの。単なるウワサならいいんだけどね・・・・・」
(その相手は宮岡かしら...) 香奈子は思った。
「ドクターに下心ある人を近づけてスキャンダルになったら致命傷になるわ」
香奈子は息を呑んで、篤子の口元を見つめた。
「私も候補の中に入れてくれませんか」
宮岡の側で麻耶が働く事が急に許せなくなった。あの麻耶が後任候補になっている事すら腹立たしくなった。
「そうだわ、香奈子は確か英検のA級を持っていたわよね。ドイツ語だって出来るものね。ワープロはどう?」
瑛明の影響で数年前からパソコンも触っている。県が主催するパソコン講習も受けて終了証書をもらった。瑛明の仕事の打ち込みなども手伝うくらいなのだ。
「機種が違ってもワープロなら出来ます。パソコンでも大丈夫です。秘書の経験はないですけど・・・・」
胸を張って香奈子は答えた。小学生の頃は成績が良く美形だった麻耶に香奈子は勝ち目がなかった。歳月が経って麻耶に勝てるものが出来た。香奈子は初めて誇らしく思った。
「香奈子が引き受けてくれるなら安心よ。秘書の仕事は私がしっかり教育しますから、麻耶さんはお断りするわ。」
篤子の一存で香奈子に決めてしまった。
1週間後、香奈子は篤子から指導を受ける事になった。
医局には宮岡を含め常勤医師が七人。そのうち一人は入局二年目の女医だ。他に非常勤医師や研修医が数人出入りしている。篤子は秘書の心得や医師達のプロフィールをワープロで打った。香奈子は資料を繰り返し読んだ。
「話を断りに行った時にね、痲耶さんが香子を知ってるっていうの。香子と同級だったって言うの」
仕事を指導しながら篤子が言った。
「私は分からないわ」
経緯を話すのも嫌で香奈子はごまかした。
「旧姓も覚えていたわ。ポエムは実家のお父さんが経営しているんだって。店の経理や料理を任されているそうよ。ポエムが起動に乗ってきたから他の仕事したくなったそうなの。香子が秘書に決まったと言ったら驚いていたわ」
痲耶がどの程度香奈子の話をしたか分からない。香奈子は知らんぷりを決め込んだ。
「痲耶さんがね、宮岡先生と香奈子が怪しい・・なんて言うのよ。先生に確認したら、2度ほど駅前で会って病院まで歩いただけって言うじゃない」
相合い傘で歩く姿を麻耶は店内から見ていたのだろう。
「痲耶さん、肉体関係がある口ぶりなんだもの、肝が冷えたわ」
一緒に歩いただけで深い仲になるほど、香奈子は愚かじゃない。憶測でものを言うのは迷惑というものだ。
「どうやらね、麻耶さん自身が先生に入れ込んでたのよ」
(やっぱり思った通りだ)
気味悪くなる程の麻耶の視線を思い出して納得した。
秘書トレーニングが始まって二週間程経って、篤子がパンが美味しいという店に香奈子を誘った。
「私ね、痲耶さんの事を批判出来ないのよ。宮岡先生に好意を持ってことがあるもの・・・・」
篤子の突然の告白だ。
「医局の行動は私がすべて把握しているの。一緒にいたくて遅くまで仕事をしたわ。先生を飲みに誘ったこともある。学会には付いて行って、観光地だと二人で食べ歩きをして楽しかった・・・医局では言動に気を付けたつもりだけど、看護師の中には私を疑う人もいたみたい・・・・」
篤子は、ひと事のような調子で言う。
「宮岡先生の夫人も医師でね。自宅近くの中学の校医をされてるの。勤務医の奥様を知る看護婦が私の事を忠告したみたいなの」
篤子の表情が幾分曇っている。
「それからなの・・・・医局で歓迎会とか宴会があると必ず奥様の手製の差し入れが届くようになったの・・・・」
夫の職場に配慮も必要になる妻の立場だ。
「産婦人科は女の城のなのよ。医者には看護婦の愛人がいると思い込んでる。そう言う先生も確かにいるけど、心あるドクターは生活態度に万全を尽くすの。宮岡先生はその見本のような人よ。」
宮岡が女性にだらしない人なら、香奈子もどうなるか分からない。
「奥様とは何度か会ったけど、それ以来、一度も顔を出されないの。それが却って不気味だったわ」
香奈子は宮岡に信頼以上の気持ちはないが篤子は警告したようだった。
篤子は宮岡への気持ちを断ち切って新しい愛を見つけて、ことぶき退職で医局を去った。
篤子の特訓の甲斐あって香奈子は医局秘書に正式に採用されて篤子からの申し送りをしっかり受け継いだ。
外で働くと香奈子が言った時、
「秘書など香奈子に出来るわけはないよ」
主婦しか経験の無い香奈子に瑛明は冷ややかに言った。平凡な繰り返しの家事をしてきた香奈子には機転を利かす仕事に慣れるまで時間が掛かった。
「おまえでも使ってくれる殊勝な職場もあるんだな。迷惑を掛けないように頑張れや」
正式に採用が決まると嫌みながら励ましの言葉を投げた。結婚の前も後も初めての就職だ。初出勤の朝、緊張で目眩を起こしそうだ。朝の駅は人の波。背の低い香奈子は通勤の車内で背中に挟まれて息が詰まり苦しくなる。
篤子に仕事を教わったが一人になると緊張する。若い娘なら周囲も笑って許す事も香奈子の年齢になれば甘えは許されない。傲慢、自分勝手、わがままな性格が多い医師達を相手にするのだから尚さらだ。篤子が作ったマニュアルを片時もそばから離せない。
駅のホームに出ると香奈子は立ち止まって深呼吸をした。改札口近くの人並の中に大柄な宮岡を見つけた。
篤子から、宮岡は大名出勤だと聞いていた。
「おはようございます。きょうは早いですね」
三十分も早い電車に乗っていたので驚いた。
宮岡は鞄から紙袋を取りだした。
「家内が新しい秘書にお世話になるし、きっと迷惑も掛けるだろうから渡してくれってさ」
駅を出て人気の少ないた道まで来ると宮岡は香奈子に紙袋を差し出した。
「有り難うございます。ワァー何かしら・・・・」
中を覗くと綺麗にラッピングされた小箱が入っていた。篤子が言っていた宮岡夫人の行動が開始されたと香奈子は思った。買った品物はすぐ使うのが香奈子の主義だ。頂いた物は 尚さらで早く開けたくて仕方がなかった。
喫茶ポエムに差し掛かった。背後に人の気配を感じて香奈子が振り向くと痲耶がいた。次の瞬間、躰を引き裂くな激痛が走った。
「あなたはやはり女スパイよ・・・・・」
朦朧とした中で麻耶の声がした。
新調したアースグリーンの服が、赤く染る。前を歩いていた宮岡が異変に気付いて、抱きかかえた時に香奈子は意識を失った。麻耶はナイフを両手で握りしめて立っている。薄いピンクのリボンの掛かった小箱が紙袋から飛び出し、足元に転がった。
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