昔見た映画【武器よさらば】に忘れられない言葉があります。愛する人の為に軍隊を脱走した兵士と看護婦の物語。
「この苦しみは後に楽しみが待っている苦しみね」
女医の出産シーンで難産で苦しんでいる時に言うのです。結局、その女医も赤ん坊も亡くなります。その頃私は高校生でしたが、何故か「後に楽しみが待っている苦しみ」の言葉が心に残りました。出産は辛く苦しいけれど、母親になる事への期待で耐えられるのだと思いました。将来、難産で死ぬ事はあっても、子供が産めないなんて思いませんでした。もしかしたら、その言葉は未来への暗示だったのでしょうか?
結婚すれば妊娠できるものと、思っていました。4年経って初めて産婦人科医院へ行きました。昭和51年で、世間では山下さんちの五つ子ちゃんが産まれた頃です。医師に子供が出来ない事を訴えます。診察のため内診台に乗るのですが、少々屈辱的な姿勢に圧倒されました。その医師に紹介されて、大学病院の産婦人科に行きました。
初めて大学病院で診察を受けるので緊張します。初診時の問診は若い医師がします。当時の診察室は薄暗くて、担当医の顔はハッキリ見えませんでした。不妊の原因を調べるために、様々な検査があります。二ヶ月くらい前からの基礎体温表をつけて、排卵があるかどうかをまず調べるのです。夫の精子を採取して調べます。その他の詳しい検査の内容は忘れていますが、印象に残ったのが激しい痛みが伴う、子宮卵管造影検査です。あまりの腹痛に左手でお腹を押さえました。
「誰だ、こんな処に手を置いたのは!」
X線写真が出来上がってきて写真を見た途端、担当医が言いました。
「私だと思います。痛かったので…」
私が答えると、担当医はそれ以上は何も言わず、憮然としています。
写真を見ると私の五本の指がしっかり写っていました。
確かフーナーテストだと思いますが、その日の朝に性交渉をした後、三十分程安静にしてから病院に行くのです。普段なら、病院で内診がある日には性交渉などはしません。
何の検査だったか 「数日間は禁欲をしてきて下さい」
と若い医師に言われて恥ずかしくなったことがあります。
開業医院なら医師は一人ですが、大学病院は若い医師も数人横に並びます。そんな中で受ける検査が苦痛でした。検査の結果「夫婦とも異常ありません」と言われました。但し、基礎体温表の高温期が短いため《黄体機能不全》だと云われましたが、その詳しい説明を受けた記憶はありません。
医師に云われるまま、月3回hcgという注射をするための通院が始まりました。体温が上がった日に外来に行きます。初日に注射液3回分を薬局で受け取ります。診察室ではなく産婦人科の処置室へ一回分を持って行きます。注射は医師がしますが、毎回違って、何か話してくれる医師、黙って針を刺して去って行く医師、椅子に座らせてくれる医師と様々です。数人の医師が並ぶ診察室の雰囲気が嫌でしたので処置室は気楽でした。しかし、注射だけの治療が続くと、疑問が湧いてきました。
当時20代で若かった事もあって、医師に質問が出来ません。と言うより「医師に質問などしてはいけない」と思っていたと言う方が正しいかも知れません。市内の総合病院なら、最初に受診した医師が担当医となって、いつも診てくれます。けれど、大学病院の産婦人科では「担当医の日に来て下さい」と言う指示はありませんでした。私が知らなかっただけかもしれません。どの医師に聞くのか解りません。検査のも、毎回違う医師でしたが、本人の体調に合わせて受けるので仕方ないと思いました。
「きょうは質問をしよう」
病院へ着くまではそう思っているのですが、何も聞けぬまま、処置室での注射だけの短い診察は終わります。不妊治療をしている事を人に言えなくて、隠れる様に通院していました。一年余りの通院は何の実りもありません。検査に異常がないのですから、時期が来れば妊娠すると、誰でも思うでしょう。通院を止めて妊娠を待ちました。私の後から結婚した人達でも、次々と妊娠していきます。一年経っても私の躰に何の兆候も現れません。私の妹も、続いて弟も結婚し、まもなく子供に恵まれました。
夫は次男の為か、姑からは子供に関しては、何も言われません。なのに
「子供も産めん奴は女やない!」
法事で来ていた親戚の叔父が大勢の前で言いました。
その言葉に私は深く傷ついたのでした。年齢の高い人ほど子供のいない事に対しては、厳しい発言をしたのです。
最近では不妊治療も市民権を得て、テレビや雑誌を賑わしています。大胆なことに、出産の現場にテレビカメラも入ります。出産は私が体験出来ない事です。惨めになるので絶対に見たくありません。たまに誰かとテレビを見ていてその場面に出くわすと
「母親になれるのに、何故そんなに騒ぐの。転げ廻る様な生理痛を何度も体験しても私は母親になれないのに・・・・・」
分娩台で叫ぶ妊婦を私は冷ややかに見ていました。
2度目の不妊治療は、近所に開業した不妊クリニックでした。再び苦痛を伴う検査が待っています。「夫婦とも異常ありません」検査結果は最初と同じ答です。治療も同じhcgの注射。大学病院は腕への注射でしたが、クリニックは腰に打ちます。
開業医院の医師は一人なのですが、やはり質問は出来ません。痛みを伴う検査も辛いですけれど、さらに追い討ちを掛けられたのが、妊婦と一緒の待合い室でした。注射だけで長い時間待つというのはコンプレックスを増すだけです。毎月期待していても、生理になった途端に奈落の底です。そんな時に妊婦に囲まれる待合い室には辛いものがありました。
「足を掛けて転かしてやろうか」
行動はしませんけれど、心で思った事は何度もあります。誰かが流産したと聞くとホッとしたのも事実です。そんな頃、妹の二度目の妊娠を知りました。
「おめでとう!よかったね」
実の妹なのに、その言葉は言えませんでした。一週間後、流産していました。けれど他人事の様に安心したのでした。
「検査は異常がないのに何で出来ないのかな」
「異常があればそこを治せばいいんだけどな」
通院している時、診察室の椅子に座ると、医師が呟くように言うのです。原因を知りたいのは患者の私なのに、医師から言われると何も聞けなくなるのは当然でしょう。そんな医師に対して信頼の気持ちなんて持てなかったのです。二度目の不妊治療は、辛い待合い室と医師の言葉に失望して挫折してしました。
「ハイ貴方の赤ちゃんですよ」
看護婦から赤ん坊を渡される。おくるみに包まれてずっしりと重い。抱きしめていると、いつの間にか軽くなる。気が付くと人形になって、おくるみだけを抱きしめている。そんな夢を何度も見ました。
基礎体温表を付けるのが日課になりました。朝起きてすぐ、五分間婦人体温計を口にくわえるのですが、まだ眠くて、いつの間にか寝てしまいます。
『じゃりっ』と音がします。眠っている間に体温計を噛んでしまいます。体温計の中に入っていた水銀の粒が口の中に溜まり、口からこぼれます。何度も何度も吐き出しますが限りなく出てきます。
目覚まし時計の音で目が覚めるのです。僅か数分間に何度も見た夢です。
実際は水銀が粒になるかどうかは知りませんが、夢の中では銀色の粒でした。不妊治療には必要な基礎体温を計る事も私にはストレスだったのでしょう。基礎体温計測を辞めてからはそんな夢は見なくなりました。
「なんで私だけこんな思いをするの?」朝起きると惨めな気持ちになって、じっと考え込んでしまうのです。
「赤ちゃんまだ?」
周囲からは決まり文句が飛び交い、その声が胸に突き刺さります。
結婚10年になり、妊娠願望は頂点に達しています。
丁度厄年でした。妹と義妹が同時に妊娠したのです。ふたりとも2人目の子供です。妹の流産にホッとしてから1年位しか経っていません。
「今度こそ私の番だと思っていたのに・・・・・」
悔しさと妬みと僻みが体を掛け巡り、一人閉じ込もって泣きました。他人なら知らん顔もできますが、間近にいる人に先を越されると、焦りの色は隠せません。お腹の大きくなっていく二人を見ると、待合い室を思い出してしまします。妹は私が
不妊で悩む姿を見ているためか喜びは現しませんが、妹とも並んで歩きたくありません。実家に行っても妊婦に挟まれるのが辛く、親元に行くのも嫌でした。
「私も妊娠したい!子供が欲しい!」 日々、切実な気持ちになってくるのです。
年齢が35才になると高年齢出産になります。それまで時間は僅かです。
有名な不妊クリニックや大学病院の産婦人科へ通う気力は残っていません。
失望したけれどず、二度目と同じ不妊クリニックへ行きました。しかし苦痛を伴う検査の三度目は受けたくありません。医師と相談し漢方薬投与になりました。
処方箋を医師に書いてもらい、薬局へ行って調合してもらうのです。この方法だと医院にいる時間は少なくて済みます。コンプレックスを増すだけの待合い室で、妊婦と会わなくていいので気分は楽でした。
漢方薬投与してから一年半くらいの頃、医師に人工受精の相談をしました。医師の指示で基礎体温表を頼りに人工受精の機会を待ちます。
生理が終わって基礎体温表が低温になった日、採取した精子を子宮に注入するのです。
処置後、一時間程ベットに休みます。ベットは内診台の隣にあります。
その間も次々と妊婦の診察があります。白いカーテンで仕切られた内診台から、妊婦と医師の話が聞こえてきます。聞いて気が滅入ってきたのです。
結婚10年も経つのに、手助けがないと妊娠出来ない自分が情けなくもなります。処置を受けても着床するとは限りません。ベットにいると目頭が熱くなってきました。その間に看護婦が「もう少し寝ていてね」と声を掛けてくれたり、別の部屋に休んでいたりしたら、少しは気持ちも和らいだのでしょう。けれど、1時間診察室の片隅に、放っておかれたのが嫌でした。
白い布一枚の表裏に明暗がある事を、医師も看護婦も気付いてくれません。一度で成功するとは思いませんでしたが、二度と、こんなところでは人工受精は、したくないと思いました。
結果、妊娠は出来ませんでした。まだこの頃は、望みだけは持っていました。 一度だけ妊娠か? と思う事ありました。44日間生理がなかったのです。妹は生理になると喜んでいましたが、妊娠希望の私は生理がある度に、ショックで落ち込み、生理に嫌悪すら感じました。
それまでは、一日でも遅れた記憶はありません。30日目から少しずつ気になって、40日を過ぎると、いつ産婦人科へ行こうかとソワソワしていました。42日目、とうとう近所の医院へ行きました。
「もう生理が始まりかかっています」
医師が言ってから2日経つと、医師の言葉どおり生理は始まったのです。
三度目の不妊治療を辞めて、数年経った頃でした。妹が、私の通っていた産婦人科医院へ行きました。医師が私を覚えていて、まだ子供が出来ないと告げると
「お姉ちゃんが本当に子供が欲しいかどうか気持ちがつかめなかった」
と言ったそうです。私は、その言葉を聴いて腹が立ちました。本当に気持ちが解らないのなら、私に直接聞いて欲しかった。
「もう諦めてるよ」 口では言いますが、心の中は産みたい。
「流産してもいいから一度妊娠したい。体内で胎児が動く事を体験したい。大きなお腹を撫でながら、母親になる実感を味わいたい。母子手帳を手にしたい。分娩台でわが子と対面したい。
「つわりってどんな感じ?陣痛てどんな痛さ?生理痛のひどい時と同じくらい?」
そんな思いを抱えて、暮らしていたのです。 妊娠した時以外は、誰もが産婦人科へは「行きたくない」と言います。私だって同じです。妊娠したいから通院していたのに、医師は何も気付いてくれなかったのです。
看板には《不妊クリニック》と書いてあるのに、不妊患者の悩む気持ちを見抜いてはくれませんでした。
(産婦人科とは子供を産ますだけの場所だ)と思いました。
9年の通院で、医師への不信と不妊患者への待遇の悪さが身に滲みました。
口頭で伝えなかった私が悪いのでしょうか?
(妊娠は病気ではない)と思います。
不妊クリニックに通っている頃、妊婦が大事にされているのが不満でした。妊娠出来ない私から見れば、妊婦は幸せの絶頂にいるのです。本人が望まなくても、病院側から母親教室等を催してます。(至れり尽くせりだ)と思いました。
不妊患者の私は、医師に気持ちを伝えられなかったばっかりに、本心を理解してもらえなかったのです。逆恨みかも知れませんが、妊婦に嫌悪感を持tました。
産科に属する妊婦は、患者ではなく妊産婦か妊婦と呼ばれます。不妊症は命に別状がないし、病気とは云えないかも知れませんが患者です。産婦人科の待遇は一番に妊婦が大切にされて、次が婦人病の患者で、不妊患者は三番目になるそうです。
不妊治療で一番問題になるのは、病院の患者に対する待遇だと思います。私はそのために挫折したようなものです。出産や入院の経験のある人は、看護婦を信頼しているでしょう。でも、私は産婦人科の医師に対して不信を持ちましたが、不妊治療の頃は、看護婦にも優しさを感じた事はありませんでした。
側から見ていて、妊婦には心使いをする看護婦も、不妊の私には励ましも優しい言葉も掛けてくれませんでした。
子供を産みたくても、私のように妊娠が出来ない者もいます。逆に、最近では子供を産まない女性もいます。出産をしたくないだけで、本当は子供を産める躰を持っているのかも知れません。
「子供を産む事ができる、あなたの躰を、私に下さい」
そんな事を叫びたくなります。
臓器移植が世間を騒がしています。
「子宮を移植が出来たら私も母親になれるのに・・・・」
真剣に、こんな事を考えるのは、私だけではないと思うのですが・・・。
不妊症を克服し、治療が実ると、やっと妊婦になります。産婦人科で一番大事にされるのが妊婦ですから、不妊患者は妊婦予備群でしょう。不妊患者も、もう少し大事にされてもいいのでは? と私は思っています。
医療に携わる人でさえこの状態ですから、子供のいない者への社会的ないじめは、確かにあると思います。
日本の社会は【結婚、子供、家族】が図式になっているようです。それが一つ欠けると、もう仲間はずれです。 主婦が集まると話題は子供の教育です。出産経験のない子供を産み育てた事のない私の話は誰も耳を傾けません。
「子供がいないのに口出ししないで」
子育ての事に私が意見を言って反論された事もあります。
子供を育てなくても、客観的にアドバイスぐらい出来ると思いますが・・。
「何故子供作らないの?」
子供のいる人に聴かれます。でも、私は
「子供を作らないのではなく、妊娠ができないのです」
その事を、理解してくれる人がいないのが現実です。
自然に私の足は、子供のいる人達から離れていったのです。
当時話題になった、乳児誘拐に判決がありました。私には元刑務官夫婦の気持ちが痛いほど解り、新聞記事を読みながら泣きました。不妊に悩む気持ちは、子供に恵まれた人達には、どう説明しても、理解できないのでしょうね。
「子どもがいない人は変わっている」
「子供も産めん奴は女やない」
「女は子供を産み育ててこそ一人前」
こんな言葉を、何度、聴いた事でしょう。何気なく言った言葉でも、受ける側は辛い事ってあるのです。
「若い時に中絶をしたから、不妊になったんじゃない?」
妊娠できないと話した時、そう言った人がいました。でも私は、今だかって、一度の妊娠もありません。なのに、事情も聞かないで、無神経な言葉を言われましたが、言葉を返すことは出来ませんでした。
テレビドラマでも、そんな設定をしている事がありますが、不妊症の原因が、中絶だけのように言われる事が、耐えられません。中絶が原因で不妊になった人もいるとは思います。でも妊娠すらない私は、そんな人達と同じ様には思って欲しくないです。
(中絶は人殺し)と私は思っている・・・。
結婚5-6年目の頃は、子供が授からない焦り、母親になれた人への羨望、妬み、僻みの気持ちが増すのです。私はそんな頃大きなお腹の人を見ると無性に苛立ちました。生理があった日に妊婦を見ると冷酷な気持ちになったものです。
「しんどいやろうけど頑張りや」
年齢を増した今でも、妊婦に対して絶対に言えません。不妊治療で、いつも問題になるのは、生命倫理です。私の場合は医師と話さえ出来ない状態。人工授精を受けましたが、抵抗はなかったです。
大学病院でも不妊クリニックも、hgcの注射以外の治療はありません。治療法は、本を読み色々は知っていました。けど、医療保険の効かない高度な治療です。
治療費手術代や入院費を含めて百万円。とてもサラリーマンの給料では捻出しにくい金額です。
高額を出したからといって必ず妊娠するとは限りません。妊娠したいけれど、精神的にも疲れ、経済的にも、手が届かないのが現実だと思います。また高度治療(体外受精・顕微受精)に関して「神への冒涜」「自然への冒涜」と第三者から非難されます。けれども妊娠希望の者にとって「わらにもすがる思い」なのです。
批判を口にされる方の多くは、既に子供がおられる人達です。子供がいないのと、一人でもいるのとでは大きく違います。ひとりの子供を欲しさに屈辱的な検査も、苦痛を伴う治療も受けるのです。
不妊患者も、いろんな考えを持っています。生命倫理が取り沙汰される治療を、受けるのも受けないのも、不妊で苦しむ者だけが選択できるのだと思うのです。
妊娠可能な人が体外受精を受けるのなら問題でしょう。でも、その方法しか残されていない人に「神への冒涜」を盾に非難していいのでしょうか?これも「不妊いじめ」だと思わずにいられません。
不妊と同時に生理痛にも苦しみました。独身の頃から生理痛はありましたが、結婚して子供を産めば治ると周囲から言われて楽観していました。30才を過ぎた頃から、生理痛はひどくなりました。周期は普通で三週間で早い時は二週間。毎回五日間、濃く赤い色の出血が続いて、赤黒いかたまりも混ざります。タンポンとナプキンを使っても二時間も保ちません。タンポンが出血で飛び出すのです。夜、ナプキンを重ねてもシーツまで赤く染まるので腰にバスタオルを巻いて寝ていました。転げ廻るような痛みは、毎回、一日ー二日はあるし、頭痛や肩凝り嘔吐もあります。性交渉の時に、突き上げられるような痛みも感じます。生理が始まると外出は中止です。生理日以外の時も、薄い赤茶色のおりものがあります。普段出かける時も、年中、生理用品を持っていないと不安でした。そんな状態でも、産婦人科へは、意地でも行きたくありませんでした。
平成3年7月、生理が終わって3日目に多量の出血がありました。3-4日経っても続く出血に、流石に恐くなりました。
「手遅れで死んでも行きたくない」
そこまで思っていた産婦人科へ、駆け込んでいました。子宮内膜症と子宮筋腫の合併症と診断されて、投薬治療後の12月に右卵巣と子宮の摘出手術を受けました。主治医から不妊症の原因は、子宮内膜症だと聴きました。
転がり回りながら我慢していた生理痛が、病気の一端になり、念願の子供を産めなくなるとは思いませんでした。
生まれて41年間、手術は勿論の事入院した事もありません。その上、一度の妊娠もなく子宮摘出と知って私は動揺しました。
「あんたには辛い事やろうけど、治るまで頑張ろう」
私の表情に気付いた担当医が、そんな言葉を掛けてくれました。不妊治療の時も誰からもいわれなかった言葉です。それは涙が出るほど嬉しいものでした。その一言がなかったら、手術をする決心など出来なかったでしょう。入院までの4か月間、主治医に手術の事、病気の事、薬の事などを聞きました。
不妊治療の頃は、医師の隣に座るのさえ嫌でした。今の主治医も初診時は、無愛想でとっつき悪い感じでしたが、優しい言葉を聴いてからは不安もなく、手術を受けられました。
私の場合は、子宮内膜症でも、最も重症で主治医が執刀した中でも、トップクラスの大変な手術だったと後日、聴かされました。不妊治療の時に、主治医に会っていればと思います。克服は出来ないにしても納得するまで治療が出来たのにと思うと、悔しくてたまりません。
不妊治療の時には、優しさを感じなかった看護婦も、手術前後は親切で、たくさん声をかけてくれました。でも退院して、外来の人になると、入院の時のような言葉は掛けてくれません。妊婦への待遇が、私には羨ましいほど際立って見えます。私にとってはやはり、主治医に対する信頼の方が増しているのです。
結婚20年間、友人は出来ませんでしたが手術がきっかけになって、二人出来ました。一人は入院中の隣の患者で、もう一人は通院の時に、待合い室で隣り合わせた人です。話をするうち、お互い不妊症だと知りました。私が二人の仲立ちをして、不妊三人が仲良くなりました。皆が悩みを抱えてきました。不妊への係わり方は違いますが、年齢も結婚年数も同じくらい。三人共、一度の妊娠もありません。
「女は子供を産んで、育てなければ、一人前じゃない」
その言葉を子供のある人や親から散々、言われてきました。けれど、不妊で生きてきた二人の友は、常識のある素敵な人です。
知り合って2か月経った春の一日、三人で、琵琶湖の遊覧船〈ミシガン〉に乗りました。私は結婚して初めて、気の合った人と、街に出て過ごす楽しみを知ったのでした。 最近まで私の子供の対象は小学生でした。結婚年数から言えば20歳の子供がいて当然です。そう思うと、いかつい高校生も大学生も可愛く見えてくるから不思議です。
不妊症を背負ってきた私は40歳になった頃、妊娠は諦めました。数冊の基礎体温表や不妊に関する本も全て処分しました。でも子供を産めなかったコンプレックスは一生消えません。
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