アマ小説家の作品

◆パペット◆第32回 by日向 霄 page 1/3
 ジュリアンは狭い殺風景な部屋に押し込められた。隅に便器と小さな洗面台がある。公安内部で問題を起こした者が入れられる独房なのだろうか。監獄のそれと違って饐えた匂いはしない。一度も使われたことがないかのように清潔だ。
 ジュリアンは床に腰を下ろした。他に腰を下ろす場所はない。手錠はかけられたままだ。
「ご苦労だった」
 声がした。天井に据え付けられたスピーカーからだ。
「誰だ?」
 ジュリアンはうろたえなかった。壁にカメラが埋め込まれているのには気づいている。監視の目は弛んでいない。それに。
 それに、このままでは終わらないはずだ。俺のゴールはここじゃない。
「君をずっと見守ってきた者だ。正直私は君を息子のように感じている。無事帰ってきてくれて嬉しいよ」
「父親が息子をテロリストに仕立て上げるのか? 記憶を奪ってまで」
「君が望むなら、記憶は返してあげるよ。ジュリアン=バレルの役目は終わった。君の本名は――」
「待て!」
 思わずジュリアンは叫んだ。スピーカーを睨めつける。
「俺は、過去を欲しいとは思わない」
 知りたくない。知る必要もない。そこにマリエラはいない。マリエラに愛されたジュリアンも、そこにはいないのだ。
「では、何が望みだね」
「言えば叶えてくれるのか?」
 スピーカーから漏れる、かすかな笑い声。くすくすと、面白がるような。
「幸福な未来、というやつだろう。愛する女性と仲睦まじく暮らす。可愛い夢だ。彼女の名は、マリエラというんだったな」
 ジュリアンは眉をひそめた。落ち着け、マリエラの名を知っているからどうだって言うんだ? 何が起ころうと不思議じゃない。たとえ、たとえマリエラが――。
「実を言うと」
 そこで言葉を切り、十分もったいぶってから声は続けた。
「マリエラは私の娘なんだ」
 ジュリアンの視界が、一瞬光を失った。座ったままなのに立ちくらみがする。
「だから?」
 精一杯平静を装って、ジュリアンは声を絞り出す。
「あんたに結婚の許可を求めろとでも?」
 父は反政府主義者だったとマリエラは言っていなかったか? 私は置き去りにされたと。あれは嘘だったのか? マリエラもまた偽りの記憶を植えつけられていたのか?
 もちろん、こいつの言葉だって嘘に決まっている。
 何者とも知れぬ声が、大きな笑い声を立てた。あからさまな嘲笑。
「君にそんなユーモアのセンスがあったとは驚きだよ。いや実際人間というのは計り知れないものだ。どれほどデータを揃え、どれほど分析しても、君の心の変化を正確に予測することはできなかった。自我などというものは、所詮情報に対する反応の蓄積に過ぎないというのに」
 ジュリアンは深く息を吸いこんだ。相手の術中にはまってはならない。とにかく冷静でいることだ。
「あんたの働きには満足している。俺はあんたに礼を言うよ。あんたは俺のためにマリエラを育て、そして俺とマリエラが出逢うように仕向けた。あんたは俺を利用したつもりだろうが、それは違う。俺があんたを利用したんだ」
 再び、笑い声が弾けた。
「かまわんよ、好きに思っていたまえ。それで何かが変わるわけじゃない。残念だが、君の役目はもう終わりだ。私の役目も、そして娘の役目も」


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