本の虫

◆第63回『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』/カント◆

 光文社が、「古典新訳文庫」なるものを始めた。「いま、息をしている言葉で」というキャッチフレーズで、第一弾としてこのカントの著作や、『カラマーゾフの兄弟』、『飛ぶ教室』などが9月に刊行された。新聞の書評ですごく褒めてあったし、ネット書店のカスタマーレビューでも「確かに読みやすい」とあったので、ずっと気にはなっていたものの手に取る勇気が出なかったカントを買ってみた。

 エマニュエル・カントといえば、名前だけは学校でも習う超有名な大哲学者様。代表的著作は『純粋理性批判』とか『実践理性批判』とか。もちろんそんなもの読んだことはない。

 この新訳は、確かに日本語としては、読みやすいのだろうと思う。言葉としては、読める。でもやっぱり意味はわからない。一番最初の、『啓蒙とは何か』の冒頭、「人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ」という一文は、「なるほどいいこというなぁ」と思ったが、その後に続く説明が何を言っているのかは、今ひとつよくわからない。というか、「自分の理性を使う勇気をもて」という冒頭の結論だけで、この文章は十分だろう、と勝手に思っておく。

 次が、『世界市民という視点からみた普遍史の理念』。もうタイトルからしてなんのこっちゃ、という感じ。ものすごーく読み進むのに気力がいるし、字だけは読んでいけても、内容はほとんど頭に入らない。しょうがないので、ペンで傍線を引いたりしているが、ところどころ「なるほど」と思う一文に出逢っても、全体としての意味は理解の彼方。まぁ、一回読んでわかるぐらいだったら、世に哲学科などというものはないであろう。

 『世界市民という…』で、カントは「被造物のすべての自然的な素質は、いつかその目的にふさわしい形で完全に発達するように定められている」と言う。ほら、なんのことやらさっぱりわからないでしょう? つらつら読んでいくと、「人間はより良い状態、人間だけに与えられた“理性”という能力を完全に発達させた状態へと進歩していくはずだ。そのように自然が定めたはずだ」ということらしい。もうこの前提が呑み込めないので、その後の議論もついていけない。まだ「神が人間をそのように造った」と言わないだけマシだな、とは思うが、人間は本当にそんなに特別な生き物なのか?と思ってしまうから、後の議論が全部「うーん」である。

 その前提を認めないなら、「法則にしたがう自然ではなく、目的なしに戯れる自然をみいだすことになる。そして理性の導きの糸ではなく、慰めのない偶然が自然を支配することになる」と、カントは言う。いやぁ、ないんじゃないの、慰めなんて(笑)。もしかして神様がいたとしても、神様に理性なんてないかもしれないし、世界を造るにあたって、ちゃんとした目的や理由があったかどうかはわからない。ただの気まぐれとか、暇つぶしだったかもしれない。人間だけを特別に愛する必要もないし、「こーゆー生き物造ったらどー動くかな?」ぐらいの気持ちだったかもしれない。……つーか、神様に“気持ち”ってあるのか???

 自然現象には色々と法則があって、動物の体も人間の体も、「なるほどうまくできてるもんだ」ということがあって、だから、人間の感情とか理性とか、歴史とかいうものにも、何か必然的な、「合目的性」みたいなものがあるはずだ、という話は、わかるような気もするのだが、しかしやっぱりどこか「ほんとか?」と納得できないものがある。この、私の「それは納得できない」と思う「感情(理性?)」には、どのような自然の目的があるのでしょうか。

 「自然の計画は、人類において完全な市民的連合を作りだすことにある」 そうだったらいいけどねぇ。うーん。

 次。『人類の歴史の憶測的な起源』。アダムとイブのエデン追放から始まって、狩猟から牧畜・農耕へ、みたいなところを哲学的に考えてみよう、という小論(らしい)。「(人間が「それは私のためのものだ」と羊から毛皮を奪い、初めて身に纏った時)人間は自分の本性を理解し、すべての動物よりも高い位置についている特権を認識したのである」と書いてある。確かにそーゆーことを人間は思っているだろう。でもその特権が正当なものかどうかについては、私は疑わしく思う。でもこの小論の最後の、「人間をおし潰そうとする諸悪を、神の摂理のせいにしてはならないこと、そしてみずから責を負うべき悪事を、先祖が犯した原罪のせいにしてはならないこと」という文には共感できる。「人間はみずからの行為には、完全な責を負うのである」

 『万物の終焉』。この論が一番よくわからなかった。何が言いたいのだろう。

 表題作『永遠平和のために−哲学的な草案』。わかるような気がする箇所が一番多かったところ。とてもタイムリーな議題ではある(この文を書くちょっと前、北朝鮮が核実験を実施して、また“永遠平和”が遠くなったのである)。

 「常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また、常備軍が存在すると、どの国も自国の軍備を増強し、他国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる」 ……その通りでしょう。でもその後すぐこう書いてあるのだ。「もっとも国民が、みずからと祖国を防衛するために、外敵からの攻撃にそなえて、自発的に武器をとって定期的に訓練を行うことは、常備軍とはまったく異なる事柄である」 これは日本の政治家達にはとても喜ばれそうな一文ではないだろうか。

 この論文はこの本に収められている5編の中で一番長いので、引っかかった箇所も多いのだが、一番「これは!」と思ったのは以下の文章。「公開性なしにはいかなる正義もありえない」。だから、「他者の権利にかかわる行動の原則が、公開するにはふさわしくない場合には、その行動はつねに不正である」 うーん、なるほど。でも不正であることを厭わない人間に対して、どうすれば正義を実行させることができるのでしょうか?

 自然がそのように目的しているから、人間は“永遠平和”に向かって進んでいくはずだ、というのは、とっても観念的な話だ。哲学だからしょうがないのか。でも確かに、「なぜ人間は(いわゆる)“正義”を行わなければならないのか」と考えた時に、その根拠は「そーゆーもんだから」としか、言いようがないのかもしれない。ヒトが遺伝子の乗り物であり、己の遺伝子を残していくことだけが生存の目的であるなら、邪魔な他の遺伝子を排除することは特段“悪”でもないし、他の遺伝子と仲良くしなければいけない理由は、“仲良くしておかなければこちらが倒されるから”、あるいは“共倒れになるから”でしかないだろう。北朝鮮を含め各国の“核保有”が問題になるのは、それが「ヒト絶滅」を招きかねないからだけで、“正義”などではないかもしれない。

 ヒトはなぜ自分以外のヒトを蹴落としてはいけないのか? 自然がヒトに十分な水と食糧を約束しなくなった時、生存のために争い、無法な状態に陥ることは“不正”なことなのだろうか。その状況でも、ヒトは自然の目的通り、理性を発揮して、「完全な市民的連合」を作り出さなければならないのだろうか。もしも世界のすべての人間が納得するなら、「どのような種類の人間から口減らししていくか」という法を作り、その法に則って平和を維持することは“正義”なのだろうか?

 ……と、ここまで最後の「解説」を読まずに書いた。この本には、本のおよそ4分の1を占めるほど長い、訳者自身の解説がついている。きっと、もう少しわかるように、噛み砕いた解釈をしてくれているのだろう。でもせっかく冒頭でカントが「自分の頭で考えろ」と言ってくれているのだから、解説に頼らず、自分の頭で、わからないなりに書いてみる方が、たとえまったくカントの論旨を無視しているとしても、有意義であるに違いない。

 『永遠平和のために』が書かれたのは1795年。1789年のフランス革命の6年後。カントって、オスカル様やアントワネットと同時代の人だったのだな。知らなかった。ちなみにその頃日本はもちろん江戸時代で、吉宗よりちょっと後の11代将軍家斉の時代。あと70年ぐらいすると明治維新。うむ、なるほど(って、何がや?)

『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』
以上 カント著 中山元訳 光文社古典新訳文庫


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