メタンガスの自家発生



何でも知りたがり少年 『ぎさおいさん! こんちわっ! あのー 夏子おばさんは?』

 「裏におらい…さっき甘酒炊いとったきん…裏の流しの方ぞ!」

      『馬通し…通って行こわい!』

      「さっき 荷ーが入っとったが…足元に気ー付けやっ!」

 裏の流し横の板間で、゛ひちりん゛ とも違う金物の上に大きいゆきひら(ゆきひら鍋)を載せて、おばさんが甘酒を炊いているのが見えます。
おばさんの好きなお酒を甘酒に追い足ししたのか、少し酔いそうな良い匂いが流し一杯に拡がっている。

 それにしても、ゆきひらの底を舐める様に燃えている火は、 

『一体何が、どして燃えとるん?』

 不思議でたまりません。前から気になっていた事なので、何かの用事に来たのかも忘れて、おばさんに尋ねた。

『おばさん!これっ…なんが燃えよるん? あぶら?…違うなー…油の容れもん無いしなーこのチューブに、なんぞ、よー燃えるもん入っとるんじゃなっ…』
Tちゃん分からんかい…分かるまいなー。こりゃーガスが燃えとるんょ…分かる?ガス…
ガスってー?…屁ーかな?…ちょーさいぼ(嘲斎坊)言うて…』
「ちょーさいぼなんか言うとらせんょ…よー燃えるガスが入っとるんぞな…」
『醤油屋のえー兄さんが言うとったぞなっ…屁ーのガス、よー燃えるゆーて、違うんかな?…』
「教えてあげるきん 覚えときやー! メタンというガスなんょ!、分かる…? メタンガスいうガス…難しい事おばさんも分からんけど…、野菜屑なんかほり込んどくと、腐って自然にガスが出てくるんよ…」

何やら少年は頭がこんがらがって、嘲斎坊どころではなくなって来ました。


簡易型メタンガス発生装置

 N商店のおばさんとのお話しは、昭和十年より二〜三年も前の事です。
四国愛媛の田舎町で、T少年の目に映り頭に刻みこまれた燃えるガスの正体が、自家発生させたメタンガスだったという事は、今考えても確かに大きな驚きです。

裏庭の路 おばさんはT少年を、屋敷の庭を通って柿や橙の木が何本も植わった裏庭に連れて行って呉れました。かなり広い裏庭の先には、白壁の大きい蔵があります。

 『あヽ この蔵… 』

 少年は何か思い出したように頷きます。

 少年の父親は、例年、自家消費する醤油や味噌・ひしお等を全て自分で造っていました。醤油造りの原料処理は、中々大変な作業だったようで、特に原料荒麦は大竈で一度に多量を煎らない事には作業が進みません。

 親父は仕込みの時期が来ると、夏子おばさんとは従兄妹同士の気安さもあって、何時もN商店に出向いて大竈を借り、この蔵と蔵の前で煎りや原料処理の作業をやっていたようです。作業を終えるのに、二〜三日は掛かります。

 ぎさおいさん

「 N へ行って、煎り…やってこうわい!」
「ご苦労さん…手許…誰かやりましょか?」

夏子おばさん

「ええじゃろー、要るようなら言おわい…誰ぞおるん?」

 この時期に交わす父と母の遣り取りです。

 この後私も一度だけ、大竈を前に汗だくで煎り作業中の父を見ました。竈と煎り焙烙や炊き釜の大きさ、竈を焚く火の熱さが忘れられません。
味噌麹は家の蔵の二階でねかせて造っていました。

 夏子おばさん所の裏庭には何筋も畑畝が作られ、その奥の方に大きいコンクリの水槽みたいなのがあります。水槽にはブリキか鉄で造った大きいお碗みたいな蓋があって、蓋は水槽タンクの水に浮いてる様でした。

 少し重そうな大きいお碗で蓋をしたタンクは、子供心に 

『これ…何んするもん?』

私には大変不思議な物体に映りました。

 タンクの正体が良く掴めないまま、畑地の隅にあった ゛生ゴミ捨て場の白っぽい容れもの゛ の印象だけが、今日まで消えないで残っています。
UFOがもし実在するのなら、その残像の印象はきっとこんなんでしょうか?

 ここ数年来東南アジア方面でも、学生NGOの指導の下で設置が進んでいる、簡易型メタンガス発生装置とかの記事・写真を見る機会がありました。
写真を見て驚きました。子供時代の似たような記憶が、半世紀以上の時間の流れを、一気に駆け戻った感じです。

 記事は、人が人らしく慎ましやかに、でも少しだけ科学的に生きようとする、循環型社会の地域モデル実用化の様子を紹介したものです。


 
西岡のおいさんとこ(所) ゛馬通し ゛のあるこのN商店は、明治初期までの一世紀有半に渉って、郡中町の開発と発展に貢献した大坂商人・和泉屋が拠点にした町家でした。その町家を引き継いだのがN商店です。
 お馬の親子
 子供時代に良く遊びに行きましたが、興味は馬通し(子供の頃には馬繋ぎとも言っていました)の見える二階の荷役場でした。

分厚い床板の一部を長方形に切り取り、滑車を使って重い積荷を荷馬車や馬の背から直接二階板間に引き揚げるのです。
二階を重量物の入・出荷倉庫として効率良く使うためだったのでしょう。

 床板は本当に分厚い一枚板で張られ、天井の無い屋根裏は、太く長い棟木が何本も組み合わされ、子供心にも何んか凄さを感じる構造でした。
積まれた商品の間の板間に寝転んで、何重にも重なり合った棟木の組み合わせを、ぼんやり何時までも眺める事もありました。

「いつまで見とるんぞ!家主の白蛇が挨拶に落ちてくるぞ。棲みついてる蛇は大きいぞー!一間はあるきんなー。
そうか…Tちゃんは、白蛇好きじゃったなー」

 私は声を飲み込んで跳び起き、一気に階段を駆け下ります。


 原理も構造も、現在のものに全く遜色なさそうな簡易型メタンガス発生装置が、昭和十年前後の頃にN商店の裏庭に設置され、日常の家庭燃料の一部としてメタンガスを供給していたのは、紛れもない事実です。

 半世紀有半を遡る昭和の一桁時代に、こうした生活の一面をさり気なく実行していた、内海沿いの小さな港町は、何だか驚異で興味津々です。

 郡中という町の超近代!の例などと喧伝するのは、少しオーバーかもしれませんが…郡中町の近代の背景に、もう少しメスを入れる価値が在るのでは…そんな気がします。

 問題は、N商店のどなたが何時頃、この発生装置を設置したのか?という事です。
江戸時代末期には、さすがコンクリはなかったでしょうから、簡易型メタンガス発生装置の設備された時期は、明治の終わりか大正時代だったのでは…と想像されるのですが…。

 少し大袈裟かもしれませんが、日本の科学史にも関係してくる可能性だってありそうに思えます。

イラスト:ピン          郡中町:大正・昭和の近代          イラスト:ピン

 夏子おばさんは、

「野菜屑や (笑いながら) 馬の糞などの生ゴミ?を抛り込んどくと、ガスが自然に出てきよるんょ…不思議じゃろ!」

と言っていましたが、よく考えると、おばさん所の商売とも大いに関係があったのかも知れません。

 商売の隆盛期、あの馬通しには、頻繁に荷馬車の出入があった筈です。
荷役が終わるまでの間、馬通しに繋がれた馬が催す馬糞・尿は、馬鹿にならない量と思われます。

 郡中町の近代:大正・昭和のバイオの先駆
 メタンガス発生の原料として、生ゴミの他に糞・尿を効果的に利用しよう…そんなアイディアがあって、こんな仕掛けを実現させたとも考えられます。

 これがガス発生装置の設置時期を探る手がかりになるかも知れません。

 大正〜昭和のこの時期、日本国内の何処かでバイオテクノロジー的発想のメタンガスが、自家で製造・利用されていたような事例は、他所にも在るのでしょうか? 

 郡中町が万一にもその先駆けだったとしたら、かなりエキサイティングな近代科学史の一ページを飾るかも?などと、キーボード打つ手は意外と真剣です。

 …だとすると、私の少年期残像集も、焦点の合わせ甲斐があったというものでしょうが…


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