年代 |
三島鴨神社の変遷 |
関連事項 |
300年代中葉
(古墳時代初期) |
創建は第16代仁徳天皇(313~399)が、大山祇神を迎えて、摂津御島に淀川鎮守のやしろをつくる(唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力する) |
このころ三島の王族が高槻の弁天山に三代にわたり古墳をつくる |
507〜531
(古墳時代 後期) |
第26代継体天皇(507~531)即位して活躍、 晩年に寿塚(今城塚)をつくり、死後そこに葬られる(三島縣主 三島神社の維持につとめる) |
三島の王族 縣主となり赤大路に三島鴨神社 馬場に溝咋神社 その対岸上流に上宮をつくる |
538〜574 |
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百済から538年に仏教が伝わり、554年に医学、暦、易の博士が渡来する。574年には聖徳太子が生れる |
600年代中葉 |
柿本人麿(660~720) 三島江を歌う (万葉集)、いらい神妙幽玄の和歌をもって、神と天地に融合する歌枕の里となる |
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時期不明 |
摂津御島の三島社を分社して、伊豫越知郡に「大山祇社」、伊豆賀茂郡に「三島神社」ができ、日本三三島として崇敬されはじめる |
(699 文武天皇3年)役行者 三島江にきて伊豫と同じ神だと知り 唐崎に韓からの船が着いているのを見る |
749 |
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大仏建立で神仏混合がはじまり 宇佐八幡が淀川上流に勧召されて石清水八幡ができる |
900年頃 |
淀川船運の安全祈願をかねて、柱本に三島神社の旅所がつくられ 、そこまでの船渡御がはじまる |
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1000年頃 |
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天皇や藤原一門 さかんに淀川を船で往来する |
1160(永暦元) |
建春門院が、三島神社に祈願して、皇子(第80代高倉天皇(1161~1181))を懐妊して安産
第77代後白河天皇(1127~1192)の命により、平重盛が三島神社から大山祇神をむかえて、京都上馬町に三島神社を祀る |
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1205(元久2) |
第82代後鳥羽上皇(1180~1239)、水無瀬にて藤原定家らに命じて「新古今和歌集」を撰じさせ、この時期に玉江と玉川の歌が多くの歌人によってつくられる |
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1400年代
(室町時代) |
唐崎に三島神社の若宮できる |
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1598(慶長3) |
豊臣秀吉の命により淀川右岸の堤防がつくられ、三島神社は川中島から三島江村内に遷される |
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1615〜1624
(元和年中) |
高槻藩主に幾島大明神ととどける |
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1697(元禄10) |
高槻藩主の尽力で延喜式内社三島鴨神社と改称、川中島から遷されてから船渡御が中止されていたが、藩主の支援で溝咋神社までの神輿渡御がはじまる |
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1725(寛保15) |
「淀川両岸一覧」に三島鴨神社掲載される |
三島江浜から妙見への参詣の道があった |
1871(明治4) |
新政府によって「郷社」と格づけられる |
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1890(明治23) |
町村制が実施され 三島郡三箇牧村の「村社」となる |
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1908(明治41) |
政令により大字唐崎の「唐崎神社」、大字柱本の「天神社」「稲荷神社」、大字西面の「八幡神社」を境内に合祀、西面の大西注蓮縄講ひきつづいて注蓮縄奉納を約束 |
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1916(大正5) |
大正天皇即位大典を記念して、拝殿新築、社務所炊事場を増築 |
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1917(大正6) |
淀川堤防大塚切れで境内の絵馬殿つぶれる |
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1919(大正8) |
境内に「表忠碑」(忠魂碑)できる |
軍国主義の流れ強くなる |
1928(昭和3) |
昭和天皇即位大典を記念して昇格運動を展開する
絵馬殿再建ならず |
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1937〜1945
(戦争中) |
応召軍人の武運長久祈願、戦勝祈願などで国家神道一色となる |
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1945(昭和20年7月9日) |
空襲により拝殿炎上 |
8月15日敗戦 以後民主化はじまる |
1948(昭和23年3月) |
宗教法人登記 |
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1963(昭和38) |
拝殿再建 |
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1995(平成7) |
阪神淡路大震災により大鳥居倒壊、各社殿いたむ |
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1996(平成8) |
氏子が総力をあげて大鳥居再建、各社殿修理はじまる |
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