蓮ヶ峰(はちがみね)・歴史の道探訪

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    西照寺跡地 2003/03/16撮影
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    10時ごろ
    東照寺跡地にて 2003/03/16撮影
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    11時ごろ
    2003年3月16日(日)
    今から約1300年前の修験者の道をふりかえる歴史の道探訪が 3月16日、綾部市上杉町の施福寺に集合して行なわれた。
    この日の朝は、午後から雨の予報でしたが予定通り歴史の道探訪に出発した。

    古文書によれば弥仙山や蓮ヶ峰は、修験道の行場だったそうで、お寺がたくさん建っていたと記されています。
    今回は、施福寺のお寺から歩いて林道を30分ほど登ると、西照寺の跡地とされる 平坦な場所に着いた。
    「石があるで!」というので測ると、約60cm四方の平らな石でした。 もしかして、門柱が建ってたのかな?
    古井戸の跡もあるとかで、古代のロマンに、わくわくしながら話を聞いた。

    さらに、桧の植林地を進むこと約1時間で、上の方に反射板が見え、周りの地形が扇子(センス)の 止め金(かなめ)ような場所で平らになっている。
    石がごろごろしているのは、石垣の跡だという。
    ここが東照寺跡地のようなので一行は、石の前で記念写真に納まった。

    この辺からながめる山並みは、はるか1300年前もこんな風景をながめて ゆったりした時の流れで、修行を楽しんでいたのだろうか?
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    11時30分ごろ


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    12時50分ごろ

    反射板が斜め下方向に見えて、ここは蓮ヶ峰(はちがみね)山頂544mの地点です。
    昼弁当を食べ終わるころから、ポツリ ポツリと雨が落ちだしたので、雨具のカラフルな装いで、 はい、チーズです。
    早まる雨足に、足もとを気にしながら無事に下山した。

    きょうは、本当にお疲れさまでした。
    2003/03/16 記(写真)

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    雨乞いの祈祷をした場所?

    残された記録によれば、明治16年の旱害(かんがい)[農作物などの]ひでりによる被害)による 被害は多大なりき。それに、大正13年、昭和4年の干魃(かんばつ)も被害甚だしく、その都度、 弥仙山及び八丈ケ峰(蓮ヶ峰)に登り、かがり火を掲げ、雨乞いの祈祷をなせりと。

    参考資料
    綾部史談会会報79号
    於与岐の小宮
    丹波の山(下)蓮ケ峰
    地図(十倉の絵地図)
    呼びかけ人:吉田 晟
    「郷土誌東八田」によると弥仙山が開かれたのは
    701〜703年奈良時代
    行基(668−749)が文武天皇の大宝年間に 弥仙山が開かれ、奈良県吉野連峰の山上岳を縮図したもので、先祖たちの 交流がしのばれる。
    掲示場板に寄せられた投稿から

    丹波の山登りの資料(4点)から書き出してみました。

    ○弥仙山 misensan 664米  三角点:576.2米 別名:丹波槍/丹波富士/三仙ガ嶽(丹波志)、三仙(寛政11-1800 丹波国図)/ 美仙山/釈迦ガ岳 神の座する山、霊山、 弥仙山は仏教世界の須弥山から由来 金峰山神社/金峰神社 kinpou、 於成神社 onari (蔵王権現堂)、 水分神社 mikumari 幻のヘビ:ツチノコ(ヨコヅチ:地元呼名)、ムササビ、イノシシ ミゾソバ、ツリフネソウ、ヤマシロギク 展望 東:君尾山 南:頭巾山、天狗畑、蓮ガ峰 西:大江山連峰、烏岳  北:養老山、三国岳、青葉山   丹後・但馬・丹波の山々

    ○蓮ケ峰 hatigamine 544米  二等三角点:596.3米峰 別名:蜂ガ峯、八葉ガ峰  八丁の峰/「はっちょの峰」(地元呼名) 熊笹、イバラ
    ○歴史の道・修験者道について ・綾部市史:君尾山−口上林:東照寺、日円寺−東八田:蜂ガ峯:西照寺、施福寺−於与岐:弥仙山  雄大な修験道の道場 ・蓮ケ峰の中腹には、東照寺、西照寺など12ケ寺 ・上杉: 新宮、本宮 熊野信仰にまつわる地名
    以上ですが、大きな山には色々な呼び名があるようです。
    ・例として、福知山の南を閉ざす山塊は「親不知」の特異な名称です。(富山・新潟境の親不知・子不知は有名ですが)これは氷上地方の呼び名で、福知山からは、市寺山などと呼んでいたそうです。現在の市寺山は親不知に続く東山の名です。その東が氷上に通じる道です。
    ・改心の道の私見
    君尾寺の天狗の詫び証文伝説。
    弥仙山−仙人−天狗−(水分神社に天狗の彫り物あり)−改心の道と命名

    ・蓮ケ峰の私見
    吉崎様が云われるように、「八」は「多い」を意味するものと思います。綾部から見ると6〜7峰ぐらいはありそうです。 釈迦像は蓮華座の上におられます。蓮華は極楽を意味するだけでなく、東大寺の廬舎那大仏の下にある蓮華蔵世界の一枚々に多くの修養世界があると、東大寺別当の故上司永慶師から伺ったことがあります。 弥仙山の別名に釈迦ガ岳とありますが、それに至る修験者道をその意味で蓮ケ峰と名付けたのではないでしょうか。
    ・修験者道・歴史の道探訪について
    以前、ふるさと自慢の個人々の小さな宝探しを、勧めましたが、これは巨大な宝探しですね。 実地調査と資料調査の両方があって、何を何処を探したら良いのかが見えてきます。 地元伝承、歴史書などを当たって、資料を集めることも大切です。
    以前、体育協会が「紅葉の綾部街道を歩こう」と呼びかけられました。綾部街道は歴史的な固有名詞なので、 丹波路などとしないとと注意しました。久田山−桜ヶ丘コ−スでした。
    史談会会長の山崎厳先生に聞くと、調べていただいて、綾部街道は、長宮峠から南に抜ける参勤交代の道で、 地図に載っているとのことでした。私は七(質)山峠の道だとの思い違いがありました。 郷土歴史家に聞かれると、色々な資料をあたって、教えて貰えると思います。 吉田晟さまは、文化協会の本部役員ですし、山崎先生とは心やすいと思います。 昔からの歴史の道の呼び名が判れば良いし、もしなければ、創作名(固有名称) も必要になると思います。
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    たくさんの資料を頂き、ありがとうございます。
    吉田さんから、知り合いに古代史に詳しい人から、蓮ケ峰にかかわる資料を集めているからと、お伝え下さいでした。
    蓮ケ峰は晩秋に登り、下山に途中に高い山でもないのに、北がわの急斜面が V字形にえぐられた谷から、清らかな水が流れていて、ふもとの水田をうる おした跡が残っていました。
    地元の人が言う地名も、いろいろあります。
    畑ケ谷-->さるとり-->茅(かや)畑-->まどおし-->すずがたに -->あしだに-->金又-->おくのぼう寺跡-->弥仙山にとつながる?
    蓮ケ峰から尾根伝いに国土地理院地形図閲覧システムからの地図で見ると険 しいようですね。

    お尋ねの、ツチノコ=ヨコヅチ  ???で、さっぱりわかりません。

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    いつも楽しく拝見しています。
    ツチノコの話題について記します。ツチノコはビール瓶に尾を付けたような形とか。
    この形をツチ=ヨコヅチに見立てました。
    以前丹波にツチノコがいると騒ぎになった記憶があります。結局見つからなかったようですが。
    ヨコヅチは、細工用の稲藁を柔らかくする道具です。普通、木槌は槌の木の軸方向に振りますが、 横槌は木の軸の直角な方向に振って使います
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    いろいろと情報をご提供いただき、ありがとうございました。

    「幻のへび:ツチノコ」が丹波に出没したとかで、新聞でも 記事になったそうです。 ツチノコ=ヨコヅチ
    ツチノコはいまだに出没したと聞いていません。BR> ----------------------------
    「ヨコヅチ」のHP拝見しました。随分太った「ヨコヅチ」ですね(笑い)もう少し 細目を想像していました。
    蓮ケ峰:歴史の道探訪に参加する予定で、足慣らしを始めました。元旦弥仙山初日の出では、 積雪と時間的な制約でピッチが早過ぎ息切れ状態でした。
    今度は時間的なゆとりもあるとのこと(吉田晟さま)ですので、少しはましかと期待しています。
    綾部の若者グル−プ「NEXT」のメ−リング・ネット「iネット・あやべ」に参加表明を 出し、ついでに弥仙山・蓮ケ峰の資料(前掲示板参照)も入れました。
    吉崎さま記入の「はっちょの峰」など地元の呼び名も紹介させていただきました。
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    蓮ケ峰の名称について
    ・歴史の道探訪:修検者道の中に「日圓寺」の名が出ていますが、吉田晟さまからの資料で 「何鹿郡史蹟概梗(42)」口上林村井根の「日圓寺」に蔵する縁由記によれば・・として、行基大士が 諸大寺を建てられ、この地は「山が八葉連綿として蓮華の如く、中峰は宝珠の如く尖っている形である・・」と読めます。
    実際は、漢文なので私の手に負えませんので、吉田様にお願いし、郷土史家に訳してもらいます。
     これが「蓮ケ峰」と別名の「八葉ガ峰」の所以かと思われます?。
    ・同じく吉田晟さまからの資料:於与岐地区小宮、金峰神社、伝説と由来の文章に、 「弥仙山の開山は文武天皇大宝年間(700−703)ともいわれ、僧の行基菩薩が入山し金峰神社を奥の院として、蜂覆坊堂等の 七属坊の古跡があり、殊に東西両寺の七堂伽藍は行基菩薩が開基で、空也上人が再建したのである。・・」と記述があります。
     ここに別名の「蜂ガ峰」につながる?「蜂覆坊堂」の文字が見られます。
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    蓮ケ峰(八葉ガ峰)と日園寺縁由記
     
    ・歴史の道探訪:丹波の山の登山書などから集めました資料によると、「修検者道」の中に「日圓寺」の名が出ています。
    ・吉田晟さまからの「何鹿郡史蹟概梗(42)」口上林村井根の「日圓寺」に蔵する縁由記によれば・・」の資料をいただきました。
    ・吉田晟様から、綾部市史談会の川端二三三郎先生にお願いして、漢文からの口語訳をお世話になりました(筆記)。文字入力してご紹介します。

    日円寺
    それ丹波州(丹前)何鹿郡上林郷井根村中照山日円寺開基のはじまりは、 人王四十五代聖武天皇厚く仁政をひき、国内は無事に治まった。
    而して三宝(仏法)を敬い神祇を崇重し徳沢は八州に満ち臣下(外)は鋭意天下庶民を治め恩波は四海にあふれた。 特に恩爾(勅命)を諸国に賜い行基大士をして諸大寺を建たしめた。
    この時、菩薩(行基)は此の地に来遊し、山の形たるや八葉連綿して蓮華の如く、中峰は突出して宝珠の如く、 而して周囲の地形は閑雅絶勝(しずかですばらしく)自ずから塵俗を脱す。因ってここに伽藍を造営し、みずから 聖観音の尊像をきざみ、もって本尊とし中照山日円寺と号した。
    而して、とりまく力蔵坊、明王院等の十九坊及七堂三門、弥陀の玉堂、五間表多宝塔、鐘楼、仁王楼閣、護摩堂等 その結構(すがた)は善美を尽し、珠髪は日に映え、宝鐸は月に輝き、遠くは華水山日閼伽(あか)の潤(たに)、近くは 湯屋を呼称する浴室を構え、殿内二季修制す。
    詣ずる者随喜の涙をもよおし、有信の者渇仰の袂をぬらすなり、是を視れば目をおどろかし、是をきけば耳をおどろかす。 然りといえども日に月に(年月とともに)おとろえ、ゆかりの人なく、力をかす者乏しく、寺閣高楼は荒廃して年久きなり。 醍醐天皇の時代、空也上人がたまたまこの地に来たりて、鎮護国家の霊場しばしば荒廃するを嘆き、再び伽藍宮殿楼閣を 起し、荘厳本に帰すなり。時に天正年間、織田信長等天下を洪乱し、兵火の災に罹りて、寺宇(建物)ことごとく消失す。
    わずかに日円寺本堂、地蔵堂、山門、仁王門等遺るといえども復昔日の観なし。ともに寺録六十余石をうしなう。惜しむべしという。

    2003.2.24 綾部史談会:川端二三三郎記(注:句読点を追加入力)
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    漢文を口語訳にお世話になった綾部史談会の川端二三三郎先生に感謝申し上げます。

    鍋師様には筆記を、ご投稿いただき、ありがとうございます。
    蓮ケ峰は、古くから開かれた歴史の詰まった山だったんですね。
    資料をありがとうございました!

    「郷土誌東八田」から年代順に書き出してみました。
      701〜703年奈良時代
            行基(668−749)が文武天皇の大宝年間に
            弥仙山が開かれ「行基菩薩(ぼさつ)とあがめられた。
       729年 上杉に西照寺、東照寺など12の坊の寺がたつ。
       947年 空也上人、弥仙山金峯神社を祀る
      1579年 戦国時代、弥仙山神殿などが焼き討ちされる。
      1612年 金峯神社石造りの神殿仮祭紀する。
      1628年 金峯神社神殿改築す。 
    

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