詮量山妙福寺 Senryozan Myofukuzi
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大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、大坂の町の復興に努めるよう家康の孫である松平忠明に与えられ、南の空堀付近に中寺谷町。北の天満付近に寺町を置いてここに寺院を集結させました。それは有事の際、この寺院に兵を駐屯させて前線基地にと考えました。
元和五年(千六百十九)大坂は幕府直轄領となり、翌六年(千六百二十)二代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、三期に渡る工事を経て三代将軍家光の時に完成しました。
時同じくして柏原今町にある了意川に船溜りを作り、鉄道が開通するまでの間「柏原船」を大阪との交通機関として活躍させた船株主の三田浄久は、自分の甥を出家させて本宗の僧侶とさせていました。その僧侶は廣演院日容といい、誕生寺等で修行をされ元和元年(西暦一六一六年)、大坂復興事業の際にこの天満寺町に詮量山妙福寺を建立されたのです。
 以来、江戸から明治の時代には大坂城に於いて勤修された豊臣家の法要に参列する為に来阪した加藤清正が暗殺を恐れて当山に宿泊したこともあり「清正公」の信仰が盛んとなり大阪一のご利益があると言われ、祈願成就された信者さんの幟(のぼり)が.たくさん立てられていたそうです


江戸末期の天満の大火や大塩平八郎の乱などの災難からも免れ、明治時代には豪商の檀家さん達に守られて大阪市内の日蓮宗の寺院としては、三ヶ寺という五人以上の庶家さん(住み込みで勤めておられた僧侶)がいる大寺院で中津には末寺の導通寺がありました。
しかし大東亜戦争の空襲によって消失し、焼け跡に導通寺を移設。昭和四十年まで使用していましたが、二十四世日海上人が一念発起。現在の妙福寺建立に二十五世日敬上人と共に尽力され、現在に至っています。
 そして平成二十八年に開創四百年を迎えるに当たり、庫裡客殿を増築することとなりました。
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