2月


23日
ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル 独(1685〜1759)ドイツ(→イギリス)作曲家
(ジョージ・フリデリック・ハンデル 英)

ザクセンのアウグスト公の宮廷理髪師兼外科医の子として生まれました。幼い頃、父親から音楽を禁じられましたが、こっそりと屋根裏部屋で、音楽の練習をしたといわれています。

その後、父親の遺志でハレ大学に進み、法律と神学を学びましたが、結局音楽を志し、ハレ教会のオルガニストとして働くかたわら、作曲を続け、更にハンブルグでカイザーの元でヴァイオリン奏者をつとめ、1705年、歌劇「アルミラ」を発表し有名になりました。

1706年イタリアへ行き、イタリア歌劇を研究し、1710年ドイツに帰りハンノーバーの宮廷楽長となります。その年の暮れにイギリスに渡り、大変な人気となりロンドンで作曲を続け、1726年イギリスに帰化して、宮廷礼拝堂学長となり、作曲もしました。

又、市民には、オペラ作曲家として人気があり、その後、オラトリオの分野へ転向し、「メサイア」をはじめ、計17曲のオラトリオを作曲しましたが、これらはイタリアの聖歌劇を元にした荘重雄大な宗教音楽で、オラトリオの模範となります。

66歳頃白内障のため失明してしまいますが、作曲活動は続けました。

74歳でなくなり、遺体はウェストミンスター寺院に埋葬されました。生涯妻を持
たず、又、自分の家も持ちませんでした。

代表作品
 オペラ    「ジュリアス・シーザー」
 オラトリオ  「エジプトのイスラエル人」
        「メサイア」第2部のハレルヤコーラスが有名
 管弦楽曲   「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」等多数

彼の音楽はバロック的な協奏様式であるが、ダイナミックで簡潔明瞭な表現により、直接訴えるものがあるといわれています。
彼は、「音楽の母」と呼ばれているが、女性ではありません。「音楽の父」と呼ばれたバッハと同じ年に生まれており、保守的なバッハと比べ、彼は新しいものをこのんだからだといわれている。
有名なハレルヤコーラスはロンドンでの演奏会の折りに、ジョージ2世がハレルヤコーラスの時に感激して起立し、その時の聴衆もそれにしたがったため、現在でもハレルヤコーラスの部分は聴衆が全員立ち上がって聴くという習慣が残っています。「ハレルヤ」は「ばんざい」という意味です。
もう少し「ハレルヤ」を詳しく言うと
「ハレルヤ」はヘブライ語でハーラル(讃美する)の二人称複数命令形のハレルー(ハルルー)と神の名ヤー(主)から成り、"(我らの唯一の神)主を賛美せよ"という意味です。これがギリシア語で伝わり"ハレルヤ"になりました。
「メサイア」の初演は予定通りキリストの復活祭であるイースターの時期に合わせ、アイルランドのダブリンで、チャリティーコンサートとして行われました。構成は、歌手8人、コーラス隊32人、それにオーケストラという大規模なもので、このときの熱狂ぶりは17日付けのダブリン・ジャーナル紙に「今までの中でもっとも完成された音楽。曲、詞、歌、演奏、すべてにおいて素晴らしかった。」と絶賛されました。しかし、翌年のヘンデルの本拠地ロンドンの再演では、イエス・キリストを主題にした作品を、教会ではなく一般の劇場で公演することで聖職者から強い反感を買います。ヘンデルは、しかたなくタイトルを「ア・セイクリッド・オラトリオ(神聖なオラトリオ)」に変えて公演したのですが残念ながら不評でした。
その後、アルトのパートに新たな部分を書き足すなどいくつかの部分を書き換え、50年に行われたロンドンでのチャリティーコンサートでようやく好評を得ることができました。そして、この年以降、59年にヘンデルが亡くなるまで、毎年ロンドンで定期的に演奏されるようになりました。