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この詩人は、「主よ」と十回(原文では七回)も呼びかけています。ほかにも「わたしの神」という呼びかけも、何度か語られています。そのように各節ごとにと言って良い程、「主よ」「神よ」と、この人は呼んでいるのです。他方、この詩人自身は、自分のことを「僕」と語ります(2,4節)。単に謙遜してそのように言っているだけではなさそうです。16節では、「あなたのはしための子」とあります。自分の母もまた、はしためであり、僕であったのです。代々僕の家系であったのかもしれませせん。だからこそ、「嘆き祈る」(6節)ことも少なくなかったし、「苦難の襲うとき」(7節)もしばしばであったでしょう。或いは「傲慢な者が・・・逆らって立ち/暴虐な者の一党が・・・命を求め」る(14節)という危険を覚えることもあったのかもしれません。
しかし、そのような中にあっても、この人は主(なる神)に絶対の信頼を寄せるのです。否、僕であり奴隷であったからこそ、主にしか助けを求めるほかなかったのかもしれません。「わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです」(4節)、「あなたは偉大な神/驚くべき御業を成し遂げられる方/ただあなたひとり、神」(10節)、更には、「御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください」(11節)などの言葉を読むとき、主なる神により頼むほか、術がなかったことがよく分かります。
それは、この人が特殊な状況の中にあったから、そうだったのではありません。それは、どのキリスト者にも共通していることです。信仰生活には誘惑が多いのです。艱難辛苦も絶えることはないのです。だからこそ、誰しもが、いつでも「御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください」と祈りつつ信仰生活を送ってゆくのです。
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