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この詩編の背景には、バビロン捕囚からの解放があると言って良いでしょう。2節後半から読みますと、「ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました。/御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました」とあります。多くの預言者が指摘しているように、バビロン捕囚はイスラエルの罪に対する神の裁きであり、神の怒りの表れだったのです。しかし今や、神はその罪を赦し、咎を覆い、ヤコブの民をエルサレムに連れ帰ってくださったのです。この詩人はそのこと喜べばこそ、2〜4節のように歌ったのです。
しかし、実際にエルサレムに戻ってみると、神殿は崩壊し、町は荒れ果て、住むところもなく、食べる物も十分ではありません。彼らを待ち受けていたのは、新しい苦悩でした。未だに神の怒りが収まっていないことを示すような現実でした。そうであればこそ、彼は改めて祈ります。「わたしたちのために苦悩を静めてください。…再びわたしたちに命を得させ/あなたの民があなたによって喜び祝うようにして」(5∼7節)ください、と。
わたしたちは、自分が置かれている現実に心を奪われ、神の御心を見損なうことがあります。しかし、わたしたちの現実がどれほど変わろうと、神の御心は変わりません。ひとたび、罪から解放してくださったのであれば、そのことを必ず成就してくださるのです。それほどの真実をもって、わたしたちに関わってくださるのです。実際、ここには「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけする」と言われているのです。慈しみとは契約における愛のことですが、それが真実であることが明らかになり、正義(裁き)と平和(和解)が口づけするのです。キリストの十字架においてです。十字架において罪の赦しを成就し給う主への信頼に生きて参りたいのです。
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