この人は、「大水が喉元に達しました」(2)と言わざるを得ないほど、命の危機の内にあります。それほど激しい苦難を受けているのです。その苦難の理由は、定かではありません。言えるとすれば、この人の「神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしている」(10)ゆえです。そのために、嘲りがふりかかって来るのです。「わたしが断食して泣けば…嘲られ/粗布を衣とすれば/それも…嘲りの歌になります」(11∼12)ということも、同じ事態を示しています。神に対して誠実であり、御心に適うように生きようとするとき、そのことの故に嘲りを受けるということは、いつの時代でも起こり得るのです。
預言者エレミヤは、御言葉を語った故に、不法だ、暴力だと叫ばずにはいられないほど、人々から笑い者にされました。それで彼は、主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思うほどであったのです。しかし、主の言葉が、彼の心の中で火のように燃え上がり、押さえつけておくことができず、結局、彼は「あなたの勝ちです」「わたしの負けです」と言って、御言葉を語ることになったのです(エレミヤ20:7∼9参照)。御言葉を語るがゆえに苦難を受ける、だから語るまいと決心するが、御言葉が迫ってきて語らざるを得ず、それで苦難が更に増し加わるのです。
主イエスの宮清めの時、それを見ていた「弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」と、ヨハネ2:17にはあります。『あなたの家を思う熱意云々』は、詩編69:10の言葉です。イエス様も主なる神に忠実であったからこそ最終的には苦難を受けたのです。しかし、それによってわたしたちは罪の赦しに与ったのです。そのことを覚えて、わたしたちも主の御栄を現わすことを願って、信仰生活を送っていくのです。
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