この詩編は、「わたしたちを祝福してくださいますように」という言葉が繰り返されていることで分かるように、祝福の祈願の詩編です。しかし、その祈願は、決して自分達さえ祝福していただければよいという身勝手なものではありません。わたしたちの祈願はともすれば、そのようになりがちです。自分の困難、苦難、辛さ、悲しさ、そのようなものが解消されることだけを求めるということがないではありません。しかも、そのとき、あろうことか「御心ならば」という言葉を使って、あたかも、自分の祈りは正当であるかのように装うということがないではないのです。しかし、それは、神の御心の冒瀆的使用です。
勿論、苦難の中にあってそれを取り除いて欲しい、祝してほしいと願うこと自体は、少しも間違っていません。当然のことでもあります。しかし、それ以上に大切な祈りは、自分が癒され祝されることによって、その祝福してくださった主の御業が広まって行くことです。ここの4,6節には、「神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。/すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように」と繰り返されていますが、その言葉のように、祝福を受けている自分たちを通して周囲の者たちが神を崇めるようになることが、この詩人の本当の願いですし、それが、わたしたちの姿でもあるべきです。
わたしたちの教会では、主日礼拝の最後に「願わくは、主、その御顔をもて汝らを照らし、汝らを憐れみたまえ」と祈ります。これは民数記6:24∼26にある「アロンの祝福」の一部です。その祝福の言葉は、この詩編の2節とリンクしています。わたしたちは主の日毎に、主の祝福の内にあることを示されているのです。それならば、その祝福の事実に後押しされて、祝福を賜う主の現臨を証しするためにも、御名を高らかに讃美してゆくのです。
|