讃美歌547の一番の歌詞は、「ささげまつるものはすべて み手よりうけたるたまものなれ」です。わたしたちが神に献げるもの(今で言えば献金)は、主なる神が与えてくださった賜物にほかならないのです。わたしたちは、自分たちが汗水流して働いて得たものの中から献金していると思っています。つまり、もとはと言えば自分のものであったものの中から、献げていると考えているのです。しかし、この詩編は、上記讃美歌の歌詞と同様、わたしたちが献げているものは、実は「すべてわたし(神)のもの」にほかならない、と繰り返し語っているのです(8∼13節)。そのことを忘れてしまって、自分の所有物の一部を献げてあげているという驕り高ぶりの中に居りはすまいか、とこの詩編は激しく問い、わたしたちの驕り高ぶりを諫めているのです。
イエス様は、レプトン(当時の最小銅貨)二枚を献げた婦人をご覧になって、他の金持ちは有り余る中から一部を献げたが、この女性は生活費全部を入れた、と仰せになりました(ルカ21:4)。生活費全部ということは自分自身を献げたことであり、それだけ、一切を主なる神から賜っていることを認めていたということです。献げるときに大切なことは、そのことです。「献げてあげている」という思い上がりではありません。
わたしたちは、主なる神が御子イエス様において御自身を献げて下さったことによって、御前に生きる者とされたのです。それならば、「告白を神へのいけにえとしてささげよ」と繰り返されているように(14,23節)、主の自己放棄と献身とによって救われ生かされたことに感謝し、主こそが主であるという告白をいけにえとして献げるのです。その告白をいけにえとするということは、自分自身を主に献げることですが、その意味での献身が願われているのです。
|