新型コロナが流行し始めたとき、礼拝などしている場合ではないだろうと言う人々がいました。実際、礼拝を休止した教会もありました。しかし、死に直面し二進も三進もいかなくなったとき、わたしたちは主の許に立ち帰り、真剣に主に祈願するしかないのではないでしょうか。この詩人が正にそうでした。この詩人は「死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ/陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている」(5∼6節)と言わざるを得ない中にあって、「わたしの岩、砦、逃れ場、大岩、避けどころ、盾、角、砦の塔」(3節)である「主に呼び求め」(7節)たのです。それに対して「主は天を傾けて降り」(10節)、「高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ」(17節)、「救い出され…広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださ」(18,20節)ったのです。
主なる神は、その点において御心を変えることはなさいません。それは、上記に記した31節の言葉からも分かります。31節の冒頭の「完全」と訳されている字は、26節で「無垢」と訳されている字と同じであり、「首尾一貫」とか「一途」「不変」という意味です。そうです、主なる神は、わたしたちの救いのために、天を傾けて(「天を裂いて」の意)降って来られるという点で、御心を変えることしないのです。
現に、主なる神は、最終的に御子イエス・キリストにおいて、天から地へと降り給うたのです。そのように、真の神を真の人として遣わしてくださり、更にはその御子を十字架にお掛けになって、わたしたちを罪と死の支配下から救い出してくださったのです。そのことを覚えて、わたしたちは「主のほかに神はない」(32節,十戒第一戒)、「主は命の神」(47節,復活の主)と告白し、その主を賛美、礼拝する点で一意専心であることが願われるのです。
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