神の箱(十戒を記した石の板が入れられており、神の臨在を示すもの)がエルサレムに運び入れられることになりました。神の箱を乗せた牛車がキドンの打ち場にさし掛かったとき、牛がよろめいたため、落ちそうになった神の箱をウザが支えました。ウザは善意からそうしたのですが、それは主の怒り給う所であり、彼はその場で死んでしまいます。どうしてウザは死ななければならなかったのか、わたしたちには納得しかねるかもしれません。しかし、15:2によれば、神の箱を担ぐのは清められたレビ人である必要があったのです。神の箱を、神の都エルサレムに運び入れることは御心にかなうことですが、だからこそ、それを運ぶ際も、御心に適うように御前に清められている者が為すべきであったのです。人の善意から出たことだから、
嘉
せられるのではありません。御心に適うかどうかが、いつでも問われることになるのです。
神の箱は、活ける神の御臨在を示すものです。神がここにおいて活きて働き給うて、わたしたちを契約の民として御自身の御手の内に置いてくださるのです。上記の聖句からも分かるように、神は幾千代にもその契約を堅持し、必ずやわたしたちを救いの完成にまで導き給うのです。その変わることがない恵みの御心に甘えてはならないのです。どうせ赦して下さるのだから、と侮ってもいけないのです。むしろ、活ける主の現臨とその恵み深き救いの御業を覚えればこそ、善意であったとしても、そういう自分の思いを主とすることを止めて、御前に悔い改めをもって主とその教会に仕えるのです。「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出エジプト記3:5)と言われたのはモーセですが、主の日ごとの礼拝に出る度に、わたしたちも主への畏敬という聖なる装いを身に着けることが願われているのです。
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