困難はだれにでも降りかかります。試み、試練と無縁である人はいません。大事なことは、そのような時にどうするのか、何を見るのか、です。困難、苦難を見るだけでは、直に万策尽き、途方に暮れるだけです。
南ユダの王ヒゼキヤ王も、アッシリア王センナケリブからの攻撃を受けます。センナケリブは、主なる神を罵り、自己の力を誇示して屈服するよう迫ります。ヒゼキヤはセンナケリブの手紙に振り回されず、その手紙をもって神殿に行き、手紙を開いて神に見せながら祈り、「あなただけが主なる神である」という信仰を表明します(15〜19)。そのような時であっても、否、こういう時だからこそ、主なる神は主として臨んでくださる、と信頼しているのです。
実際、主なる神は、預言者イザヤを通して、アッシリア王センナケリブもまたご自分の支配下にあるということを示し(21〜28節)た上で、上記に掲げた聖書の言葉を語るのです。主への信仰を失いかけるほどの、困難や苦難が続くこともあるでしょう。国が敗北して、何もかもが崩壊し、瓦礫しか残らなくなることもあるでしょう。それほど、全く希望が無くなることもあるでしょう。しかし、この31節にあるように、主なる神は残りの者を残してくださり、その残りの者によって、回復を与えてくださるのです。
バプテスマのヨハネは「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3:8)と言いました。国が滅び瓦礫しかなくなったとしても、神はその瓦礫の中の一つの石ころからでもアブラハムの子たちを起こし、国を再建し、救いを成し遂げることがおできになるのです。実際、神は御子をお遣わしになって、御国を来たらせてくださったのです。わたしたちは、どんな事態になっても、その主への信頼に生きるのです。
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