あなたを生かす聖書の言葉

2021年10月31日(投稿)

今週の聖句    列王記下18

 聖書「父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い」…「イスラエルの神、主に依り頼んだ」

(列王記下18:3,5)

この言葉は、南ユダの王ヒゼキヤについての言葉です。ヒゼキヤ王についての記述は、列王記下18章から20章まで続きます。この聖句でも分かるように、ユダのすべての王の中でも彼のような王はなかったと称賛され、更には、主もまた「彼と共におられた」のでもあります(7節)。

1416節を見ると、アッシリア王センナケリブが攻めてきたとき、ヒゼキヤは彼に屈したような言葉が記されていますし、貢物を渡したとも記されています。しかし、7節には「彼はアッシリア王に刃向かい…服従しなかった」とあり、19節以下を読んでもアッシリアに屈した気配は、全くありません。ヒゼキヤが、基本的には、主への信頼に生き抜いたことは確かです。

19節以下では、アッシリアの高官ラブ・シャケが自分たちの権勢を誇り、ヒゼキヤや南ユダの民を愚弄する過激な言葉を語り、降伏を求めていますが、「民は、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった」(36)のです。またヒゼキヤも、そのような悪口に対して悪口をもってやり返すのではなく、預言者イザヤに使いをやって、神に「祈ってほしい(194)」と願っています。そのように彼も沈黙を守り、主なる神への執り成しの祈りを求めるのです。イザヤはそれに対して、主なる神はすべてを聞いているので「恐れることはない」と答えます(1967)

主イエスはピラトやユダヤ教の指導者たちの理不尽な裁きを前にして、何一つお答えになりませんでした。沈黙して十字架の道を歩まれました。それが、主なる神の御心だったからです。「キリストに関する教えは、沈黙の内に始まる」と言った人がいます。わたしたちに求められていることは、自分たちのことについて 饒舌 ( じょうぜつ ) であることではなく、黙して主の言葉に聞くことです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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