上記聖句は、エリシャが死に瀕した時、イスラエルの王ヨアシュが見舞いに来て語った言葉です。この言葉は、天に上っていくエリヤを見た時、エリシャが語ったのと同じ言葉です(列王記下2:12)。神の人である預言者は神のために戦う戦車、騎兵であるのでしょう。そう言えば、スコットランドの宗教改革を成したジョン・ノックス(1513〜72)は「もはや武将だ」と言われ、彼の「祈りは全欧州の軍隊よりも怖い」と女王メアリー・スチュアートをして
震撼
せしめたという逸話が残っています。神に仕える者が戦車や騎兵、軍隊のようである、否、それらより強いというのは、いつの時代でも変わらないのでしょう。それは、彼らが個人的に強いからではありません。彼らを捕らえ、彼らが拠って立っている御言葉に力があり、その御言葉の主に権威があるからです。
そうであればこそ、その御言葉に聞き従い続けるのです。ここでエリシャはヨアシュに、矢を「大地を射なさい」と命じます。ヨアシュは三度射て止めました。エリシャは言います、「五度、六度と射るべきであった」、三度しか射なかったので、「三度しかアラムを撃ち破ることができない」と。実際、その通りになりました(13:16∼19,24参照)。御言葉が「射よ」と命じたら、射続けるのです。自分で勝手に、これで充分だろうと決めるのではありません。自分の判断を主にするのではなく、御言葉に主にし、それに聞き続けるのです。それほど、主とその御言葉への信頼をもって生きるのです。
「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたにからし種一粒ほどの信仰あれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」」(ルカ17:5∼6)。自分の信仰を増し加えて自分を強固にすることよりも、御言葉の主への健やかな信頼に生きることの方が、遥かに必要なのです。
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