アラム王の軍司令官ナアマンは、重い皮膚病を患っていました。いろいろな治療を受けましたが、治りません。彼の妻の召使をしていた少女が、「サマリアの預言者(エリシャのこと)のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」(3節)と進言します。
ナアマンは、早速、アラム王の紹介状とたくさんの貢物をもって、エリシャを訪ねます。それに対して、エリシャが使いの者をやって言わせたのが、上記の言葉です。ナアマンはそれを聞いて、自分の故郷のどの川よりも汚れているようなヨルダン川に入れ、しかも七度も、と言うのかと憤慨して、帰ろうとします。しかし、家来が「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはその通りになさったに違いありません。あの預言者『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」(13節)とたしなめます。どんなことでもするつもりで来たのでしょう、それならヨルダン川に入るということは造作もないではありませんか、騙されたと思ってやってみてはいかがでしょう、ということでしょう。果たせるかな、ヨルダン川に七度身を浸したところ、重い皮膚病は治り、子供の皮膚のように清くなったのです。
わたしたちの救いも同じです。主イエス・キリストが十字架にお掛かりになって罪の赦しを与えてくださったことを、信じ受け入れるだけでよいのです。主の恵みによってのみ救われるということを、その通りです、アーメンと言って受け入れるだけでよいのです。何も難しい修業をしなくても良いのですから、造作もないはずなのです。しかし、それでは物足りないのです。自分のやっていることも役に立つと思いたいし、自分の業も誇りたいのです。恵みによって救われることを信じるだけでよいという一番簡単なことが最も難しいのは、私たちのプライドが邪魔しているからなのです。御前に謙遜になりましょう。
|