あなたを生かす聖書の言葉

2021年6月27日(投稿)

今週の聖句    列王記上22

 聖書「まず主の言葉を求めてください」(列王記上225)

アハブ王がアラム軍と共に戦うよう、南ユダの王ヨシャファトに依頼したとき、彼が言った言葉です。「まず主の言葉を求める」ことは、キリスト者にとっても大切なことです。イエス様も「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」(マタイと6:33)と仰せになりました。神の国と神の義とは、要するにキリストご自身であり、主の御言葉そのものです。まず、その御言葉を求めるのです。具体的には、週の初めの主の日の礼拝において、まず御言葉に聞いて一週の歩みを始める生活を作ってゆくのです。或いは、何か新しいことをする際にも、御心に適うかどうか、御言葉に聞くことが大切です。

アハブはヨシャファトの提案を受けて、自分のお抱えの預言者約400人に聞きました。お抱えですから、王の思いに逆らうようなことは言いません。しかし、必要なのは、人のことを思うのではなく神のことを思い、神の御心を示す、ことです(マルコ833参照)。そこで呼ばれたのがミカヤという預言者です。彼は「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」(15)と言いますが、これは「あなたの預言者達がそう言っているなら、攻め上ったらよいでしょう」という皮肉を込めた言葉です。実際に彼の目に見えていたのは「イスラエル人が皆、羊飼いがいない羊のように」なる(17)、つまりアハブは死ぬという光景でした。実際、彼はミカヤの言葉を聞かず出陣します。念のため、アハブ王は貧相な格好に変装しますが、敵兵が何気なく引いた弓矢に当り負傷、帰国途中、出血多量で死にます。2936節参照。

御言葉を聞くということを、侮ってはなりません。御言葉の前に謙遜になって聞くのです。異端(信仰の堕落)は、都合の良い言葉は聞くが、耳の痛い言葉には聞かないという所から始まります。自分の都合や好嫌を主にして聞くのではなく、自分を捨て ( から ) になって御言葉に聞くことこそが必要なのです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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