エリヤが、アラム王に語った主の言葉です。アハブ王は宮殿の
側
にあるナボト所有のぶどう畑が欲しかったのですが、ナボトは、それは先祖から受けたものだから譲る訳にはいかないと言って断ります。律法に基づいた真っ当な答えでした(レビ25:23参照)。アハブは妻イゼベルの入れ知恵もあり、ならず者に「ナボトが神と王とを呪った」と偽証をさせ、ナボトを石打の刑に処した上で、その畑を入手します。それに対して、エリヤを通して主が仰せになったのが、上記の言葉です。アハブはその言葉を聞いて、衣を裂き、粗布を身にまとって断食し、悔い改めます。主はそれに答えて、アハブには生きている間は災いを降さないが、その子に災いを降すと仰せになります(27∼29節)。
アハブとイゼベルは卑劣なことをしたのだから、もっと厳しい裁きを受けて然るべきだ、主のなさり方は甘すぎると思うかもしれません。ナボトがぶどう畑を守ったのは律法に忠実であったからです。つまり、それだけ御前に正しい歩みをしていたのです。しかし、その者が偽証により石打という極刑に至ったのです。にも拘らず、彼を死に至らせた王たちは、しばらくは刑の執行を猶予されるのです。納得いかないのは、皆同じでしょう。
考えてみれば、わたしたちが主イエスに対してしたのは、同様の事です。主イエスは、ナボトと比較できないほど、御旨に忠実であり、聖なる義なるお方です。しかし、その主が偽証に基づく裁判、不当な判決によって、十字架刑という極刑に処せられます。その主の十字架の出来事によって、わたしたちは罪贖われ、罪赦された者として御前に生きる者とされたのです。ナボトのぶどう畑事件は主キリストの御苦難を思い起させ、御前に
遜
って主を礼拝するしかないことを気づかせてくれるのです。感謝し、平れ伏すしかない!のです。
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