列王記上は、この後しばらくの間、預言者エリヤの働きを記しています。それに際して、聖書は上記聖句のように語って、エリヤのことを紹介しています。エリヤには、主なる神の言葉が臨んでいたのです。彼は御言葉に生きたのです。否、御言葉が彼を生かしたのです。
エリヤはここで、サレプタのやもめに対して二つの奇跡をなしています。一つは「一握りの小麦粉と、
瓶
の中にわずかな油」しかなったのに、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」ようにしてくれたことです(8〜16節)。もう一つは、病気で死んだ彼女の息子を生き返らせてくれたことです(17〜24節)。サレプタのやもめは、そのエリヤを「神の人」(18,24節)と繰り返し呼んでいますが、彼に超能力があったとか神のような特別な存在であったことを、聖書は語ろうとしているのではありません。彼を通して、神が働き給うことを告げているのです。いつも、神の御言葉が、神の御心が成るのですが、エリヤはその御言葉の器として用いられているのです。エリヤを用いて、御言葉が働いているのです。御言葉こそが力を持つのであり、その御言葉の主が働き給うて、人を生かすのです。
パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(Uコリント4:7)と言っています。わたしたちはだれであっても、脆く弱い土の器です。エリヤも同じです。現に、彼はこのあと、アハブ王の妻イゼベルの殺意に恐れをなして、逃亡します。そのように彼も弱い土の器ですが、主なる神がみ言葉という宝を盛ってくださるのです。主の言葉が彼に臨み、神が彼を用いて働き給うのです。わたしたちも同じです。キリスト(福音)という宝を盛っていただいているのです。そのキリストが、わたしたちを用いて働き給うのです。そのことを信じればこそ、わたしたちも主を証しするのです。
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