15章前半には南ユダの二人の王たち、15章後半〜16章には北イスラエルの六人の王たちの名前が、それらの王たちへの評価をも含めて、記されています。その評価の基準は、「主の目にかなう正しいことを」(15:11)行ったか、それとも「主の目に悪とされることを」(15:26他)行ったかです。
この世的な判断によれば、どれほどの政治的業績を上げたか、人民の生活を豊かにしたのかということどもが、名君か否かの判断基準になるでしょう。しかし、聖書はそれらの事は一瞥もせず、その者が神に対してどのように生きたか、即ち、主の目に適うこと正しいことをしたのか、それとも、主の目に悪とされることを行ったのか、ということだけを見るのです。イスラエルにおいて、王は、神に油注がれてその立場に就くことになるのです。たとえ、世襲であったとしても、王は神の恵みの選びの御心によって立てられるのです。その点では、どの王であっても
些
かの変わりもないのです。ですから、王たちには、主なる神の目に適うのかどうか、神に対して忠実であるかどうか、更に言えば、いつも「
御前
に」(コーラム・デオ)立っているという信仰的自覚が求められるのです。
「コーラム・デオ(御前に)」はカルヴァンが重んじた言葉の一つですが、わたしたちも神の恵みによって御前に義なる者とされているのですから、そのことを自覚して信仰生活を送っていくことが必要です。主なる神の御栄を表すことになるかどうか、主キリストがお喜びになるかどうか、そのことを思って歩むのです。「忠実な良い僕だ」と称賛されたのは、「少しのものに忠実であったから」(マタイ25:21)なのですが、どんなに小さなことであっても、主がお喜びになることを願っていくのが、キリスト者の歩みなのです。
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