『ソロモンの事績の書』(41節)が残されるほど、彼の知恵、功績は
耳目
を引くものでした。しかし、主なる神は、人間的な功績があるかないかによって、その者を判断しはしないのです。「ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」(6節)とあるように、主なる神は、まったき仕方で、主に従い通すか否かをご覧になるのです。
彼には「七百人の王妃と三百人の側室」(3節)がいたと記されています。わたしたちの感覚からすると、人数の多さに驚かされます。主なる神は、その数よりもその中に多くの外国人がいたことを問題にします。妻を始め側室でさえも、主なる神を礼拝しようとする「心を迷わせ、彼らの神々に心を向かわせ」(2節)ようとすることがあるからです。「結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれることになるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」(Tコリント7:33∼34)と、パウロが注意喚起をしている通り、ソロモンは彼女たちが礼拝している神々のために「聖なる高台」(7節)すなわち礼拝所を築いてしまったのです。ソロモン自身が彼女たちの神々を拝むことをしなかったとしても、それは明らかに十戒の第一の言葉に背く行為でした。その結果、彼が生きている時から既に王国分裂の動きがありましたし(23節以下)、実際、彼の死後、イスラエルは北イスラエルと南ユダとに分裂することになるのです。
冒頭の4節の言葉は、ソロモンが主なる神に対して真実ではなかった、ということを言っています。主が求め給うのは主への真実であり、主に対して一途であることです。イエスさまも「心の清い(一途、一筋という意味)人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ5:9)とおっしゃっています。その御言葉にこそ心を寄せましょう。
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