異母兄を殺したアブサロムは、父ダビデの怒りを恐れてゲシュルの地に逃れ、
三年が過ぎました。アブサロムは愛する息子であり、情状酌量の余地はあるにせよ、義兄を殺したのですから、王であるダビデは何らかの裁きを為すべきでした。しかし、ダビデは何もしません。「王の心がアブサロムに向かってい」(1節)たからです。その言葉は、五年ぶりにアブサロムに会えた時のダビデの行為(33節)と同様、我が息子への溺愛ぶりを示していると言って良いでしょう。
ダビデがアブサロムに会いたがっていることを察した軍の指揮官ヨアブは仲
介役を買って出、一人の女性の協力を得て、アブサロム召還の提案をします。ダビデはそれに応じて、アブサロムをエルサレムに呼び戻しますが、彼を「自分の家に向かわせよ。わたしの前に出てはならない」(24節)と命じます。酷い仕打ちのようにも見えますが、我が子を裁きたくないからとも読めます。その状態で二年の月日が流れ去ります。
いつになっても父ダビデに会えないのに苛立ち、アブサロムは「何のためにわたしはゲシュルから出て来たの…か」(32節)と不満を口にします。義兄を殺しているのですから、仮に何年も獄に投ぜられたとしても何も言えないはずです。それを考えても見ずに、上記のように語るのです。彼の
驕慢
を示す以外の何ものでもありません。ダビデもアブサロムも表れ方は違いますが、自分の思いを主にして生きているだけです。御前にあることを考えても見ないのです。それが、次回読むサムエル記下15章にあるような悲惨な事態を招きます。罪へのまっとうな裁きがない所には破局しかないのです。
我々の罪の裁きを代わって受けてくださった御子の故に、破局に至らずに済んでいる事を感謝して、御名を崇めつつ歩んでゆくしかないのです。
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