ヘッダーイメージ 本文へジャンプ

洛東
豊国神社と方広寺




豊国神社唐門(国宝)


アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(6分)→博物館・三十三間堂→豊国神社(スタート)→阿弥陀ヶ峰(ゴール)→東山七条→市バス206系統(7分)→JR京都駅中央口
歩行距離等
●歩行距離:3キロ
●所要時間:2~3時間

○豊国神社

■歴史 京都国立博物館の北隣、正面通にある。祭神は豊臣秀吉。「ホウコク」さんの名で親しまれている。慶長三年(1598)秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峰に葬り、翌年にはその山腹に広壮な社殿が創建された。正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、同九年秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。その様子は当社所蔵の狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」(重要文化財)に詳しい。豊臣氏滅亡後、徳川幕府の命により社号を廃止されて荒廃。明治元年(1864)新政府の命により、別格官幣大社として新日吉神宮の神楽殿を仮本殿として再興。同十三年旧方広寺大仏殿境内に社殿が造営された。

■見どころ 豪華な彫刻が施された唐門は、南禅寺金地院から移築したもので伏見城の遺構と伝える(国宝)

○方広寺

■歴史 豊国神社の北隣、正面通にある。山号はなく天台宗山門派妙法院の末寺。大仏殿として知られた。豊臣秀吉の創建で文禄四年(1595)完成。開山は木食応(もくじきおう)()高さ六丈三尺(19メートル)の木製金漆塗の盧遮那仏が安置された。寺名は、この大仏が華厳説法方広仏の体相をしているので、それに由来するという(『雍州府志』)。慶長元年(1596)地震で大破。その後、子の秀頼が銅製大仏を再建した。そのときの大仏殿や仁王門の威容は「洛中洛外図屏風」(舟木本)で知られる。しかしこの大仏も寛文二年(1662)地震で倒壊し、仏像は銅銭の材料となって木像に改められた。これも寛政十年(1798)の雷火で焼失。天保年間(183044)に半身の大仏が造られたが、昭和四十八年の火災で焼失。

■見どころ 秀頼の再建に際して鋳造された大鐘(現存、重要文化財)は、銘文の「国家安康・君臣豊楽」が豊臣氏の徳川家康への反逆の意思を示すものとされ、豊臣氏滅亡の因となった。

不思議

 このあたりには今も、「大仏七不思議」という言葉が残っている。人によってその内容が異なるが、『京の七不思議』によると、①専定寺の烏、②御上り蕎麦、③大仏餅の看板、④石川五右衛門の抜け穴、⑤石川五右衛門の秤、⑥三つ棟、⑦泣石などがそれという。本書では、現存しているものを中心に九つの不思議をとりあげた。


馬塚

①馬塚(豊国神社)

豊臣秀吉の遺骸は阿弥陀ヶ峰の頂上に葬られた。後に徳川幕府はこの墓を破壊し、大仏殿の東南に「馬塚」の名で五輪塔を建てて周囲に高塀を巡らし、妄りに域内に入ることを禁じた。俗に「太閤御馬塚」といった。『京の七不思議』によると、ここに初代藤四郎作の陶製駒二匹があり、夜泣いたという。馬塚は現在、豊国神社境内の東南隅(宝物館の奥)にあり、石垣の上に五輪塔が残されている。史跡。

②唐門の鴻の鳥(豊国神社)

豊国神社の唐門には、鴻の鳥の見事な彫刻がある。この鳥について『京の七不思議』は、「唐門の破風の彫刻は左甚五郎作といい、この鳥がいるので、雀は止まらないし蜘蛛は巣をかけないという。鳥は夜になると飛び出すという。この門の雨垂れには窪みができないのも不思議なこと」とある。


唐門の鴻の鳥


③鷹石(豊国神社)

 唐門内にある細川幽斎遺愛の名石。形が鷹に似ているので、この名がある。もと伏見城にあったといい、豊臣秀吉もこの石を愛したという。残念ながら唐門内は立入禁止になっており、様子は窺い知れない。


方広寺の梵鐘

④淀君の幽霊(方広寺)

 方広寺の鐘楼にある銅鐘は、高さ4.2メートル重さ82.7トンの立派なもので、知恩院、東大寺の銅鐘と並んで日本三巨鐘の一つに数えられている。鐘銘に「国家安康 君臣豊楽」とあり、これが徳川家康を胴斬りするものとして鐘銘事件に発展、豊臣家滅亡の糸口になった。この鐘の内部に白い雲のようなものがあり、東のものは人が立っているように見える。淀君の怨みが幽霊になって残ったものという。

(なき)(いし)(方広寺)

 方広寺の石垣は、豊臣秀吉が諸将に命じて寄進させたもので、出所や諸将の家紋が刻まれているという(『都名所図会』)。中でも大きいのは西北端の巨岩である。この石は前田加賀守が秀吉の機嫌をとるため奉納したが、余りにも重いので大大名の前田家も経費が嵩むのに閉口して泣いたことから、泣石とよばれたという。一説に、ここに据えたら石が加賀に帰りたいと毎夜泣いたので、泣石とよばれたという。泣石を含む方広寺や豊国神社の石塁は延べ300メートル余りにも及び、現在「方広寺石塁および石垣」として史跡に指定されている。


泣石


耳塚
⑥耳塚
 方広寺から正面通を西へ100メートルの左手にある。高さ約7メートルの墳丘で、上に五輪の石塔が立つ。「鼻塚」ともいう。妙法院の飛地境内という(『京都坊目誌』)。天下を統一した豊臣秀吉が、大陸をも支配しようとして朝鮮半島に出兵・侵攻した文禄・慶長の役に関る遺跡と伝える。『都名所図会』に「(みみ)(づか)は仁王門の前にあり。元禄元年(1592)朝鮮征伐のとき、小西摂津守(行長)・加藤肥後守(清正)を大将として、数万の軍兵を討ち取り首を日本へ渡さんこと益なければ(みみきり)(はなきり)して送り、このところに(うず)み耳塚といふ」という。同じような説の地誌が多い(『洛陽名所集』、『京雀』、『雍州府志』、『山城名勝志』、『都名所車』)。一説に、方広寺の大仏が鋳造された際、鋳型の土を埋めた御影(みえ)(づか)が訛ったものという。

烏寺(からすでら)

 耳塚の斜向かいにある寺院。浄土宗西山禅林寺派で正しくは熊谷山専定寺という。烏寺はその俗称。寛文六年(1666)浄西の開創。寺伝によるとその昔、専定という僧が松の木陰で休んでいると、二羽の烏がその松にとまり「今日は熊谷蓮生坊が極楽往生する」と話しているのが聞こえた。専定が蓮生坊の庵を訪ねたところ、まさに烏が話をしていた同日同時刻に亡くなっていた。そこで、専定がこのありがたい地に庵を営んだのが、当寺の始まりという。一説に、その烏は熊野権現だったともいう。


烏寺


⑧大仏餅の看板

 江戸時代の商家の軒下に吊るす看板は、どちらから来ても見えるように壁に垂直に取り付けたものだ。ところが方広寺前にあった大仏餅屋の看板は、東向き、つまり方広寺に向いて取り付けられているということで、大仏餅の美味しさと相まって評判を呼んだ。『都名所図会』に「洛東大仏餅の濫觴(らんしょう)は、すなはち方広寺大仏殿建立のときより、この銘を蒙り売り広めける。その味はひ、美にして()るに(とろ)けず、(あぶ)るに(かんばし)うして陸放翁が(すい)(もち)、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり。唐破風造りの額標版(がくかんばん)は正水の筆にして代々ここに住して遠近にその名高し」とある。大仏餅を商った家は現存していないが、豊国神社の前の正面通が本町通と交差するあたりにあったという。


豊国廟

⑨豊国廟(阿弥陀ヶ峯)

 東山三十六峯の一つで、七条通の真東にある標高193メートルの峯。余り高くはないが、円錐形の優美な山容を持つ。見晴らしもよかったので、戦略上の拠点ともなった(『源平盛衰記』、『太平記』)。鳥部山ともいわれたが、天平年間(72449)行基が山腹に阿弥陀像を安置して以来、阿弥陀ヶ峯と呼ばれるようになったと伝える(『山州名跡志』、『京都坊目誌』五)。『枕草子』は「峯は阿弥陀が峯」と賞賛している。この峯の山頂には、豊臣秀吉を葬った豊国廟があったが、豊臣氏滅亡の後、徳川幕府により破却された。明治新政府により秀吉の名誉が回復されたことに伴い、豊国廟は明治三十年、旧地に再建された。廟の中央に、高さ三十尺(12メートル)の五輪大石塔がある。山頂まで石段が五百数十段もあり少々骨が折れるが、挑戦してみよう。













豊国神社・方広寺不思議探訪順路(イメージ)


フッターイメージ