○豊国神社
■歴史 京都国立博物館の北隣、正面通にある。祭神は豊臣秀吉。「ホウコク」さんの名で親しまれている。慶長三年(1598)秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峰に葬り、翌年にはその山腹に広壮な社殿が創建された。正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、同九年秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。その様子は当社所蔵の狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」(重要文化財)に詳しい。豊臣氏滅亡後、徳川幕府の命により社号を廃止されて荒廃。明治元年(1864)新政府の命により、別格官幣大社として新日吉神宮の神楽殿を仮本殿として再興。同十三年旧方広寺大仏殿境内に社殿が造営された。
■見どころ 豪華な彫刻が施された唐門は、南禅寺金地院から移築したもので伏見城の遺構と伝える(国宝)。
○方広寺
■歴史 豊国神社の北隣、正面通にある。山号はなく天台宗山門派妙法院の末寺。大仏殿として知られた。豊臣秀吉の創建で文禄四年(1595)完成。開山は木食応其。高さ六丈三尺(19メートル)の木製金漆塗の盧遮那仏が安置された。寺名は、この大仏が華厳説法方広仏の体相をしているので、それに由来するという(『雍州府志』)。慶長元年(1596)地震で大破。その後、子の秀頼が銅製大仏を再建した。そのときの大仏殿や仁王門の威容は「洛中洛外図屏風」(舟木本)で知られる。しかしこの大仏も寛文二年(1662)地震で倒壊し、仏像は銅銭の材料となって木像に改められた。これも寛政十年(1798)の雷火で焼失。天保年間(1830-44)に半身の大仏が造られたが、昭和四十八年の火災で焼失。
■見どころ 秀頼の再建に際して鋳造された大鐘(現存、重要文化財)は、銘文の「国家安康・君臣豊楽」が豊臣氏の徳川家康への反逆の意思を示すものとされ、豊臣氏滅亡の因となった。
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