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御 祭 神 天照大御神
今 福

皇 大 神 宮
 
皇祖神(皇室の祖神)・伊勢の神宮は
内宮に御祭りされ、高天原を統治される
神々の中で最高至貴とされる大御神様で
す。     


御神徳 生けとし生けるもの全ての誕生
から生成発展を司り、八百萬の神々の御神
徳をより高められるという御神力は他に並ぶ
もののない偉大なる御神徳です。
ゆえに大御神徳(ご利益)を挙げれば限りが
ありません。
国家守護
開運隆盛、勝運合格、子授安産
文学歌謡、厄災消除、交通安全
立身出世、罪障祓滅、先導開拓
など




摂社・末社

小女郎稲荷社

今福恵比寿社

天満宮

弁財天社

吉松彦七稲荷社

摂末社の紹介




現在の社殿は、享保二年(1742年)・天保十
三年(1842年)・明治十三年(1880年)に改
修され、昭和七年(1932年)に大阪城の設計
を手がけた古川重春氏の設計により改築され
た桃山様式の風雅な流造の社殿です。

由 緒 略 記

当宮の創祀には諸説がありますが
平安末期(1000年以前)今福村の
開発されたときに創祀されたと伝えら
れています。
榎並荘今福樋の東南の小丘(伊勢神
宮の神税を納める斎蔵があったと言
い伝わる)に鎮座し榎並一荘(現在の
寝屋川以北の城東区域・旭・鶴見・都
島区に当たる)の鎮守社として崇祀さ
れた古宮であります。
荘内各村の開発と人口増加に伴い各
村が産土神を祀ったことから旧今福村
の産土神となりました。
後醍醐天皇の御代に法華神道がさか
んに信仰されたころ、三十番神(日蓮
宗の守護の神々)を合祀したころから
三十番神宮と称されるようになり、そ
の社号が文禄三年の検地帳に見るこ
とができます。
明治維新後、神仏混祀を禁じられたこ
とにより、もとの皇大神宮として称され
るようになりました。



榎 木 の 老 大 樹

現在は枯死して見ることが出来ませ
んが、東生郡・古市郷(後の榎並荘)
の鎮守社であったと伝えられる当宮
には、大正末期まで境内には樹齢千
年以前と言われる大老榎木が数本
あったと大日本老樹名木誌【本多林
学博士著】に収録されています。
かつて榎並荘は古榎木の大樹が多
く、この事から榎並荘の名を得たと伝
えられています。

 (大正時代の当宮と榎老大樹)


今 福 の 道 標

この道標は、天保三年(1833)年三月
に世話方六名により建立されました。
もとは古堤街道(大和街道)の四辻
(今福南一丁目・中央の交差点)の東
南角に建っていたもので、古堤街道は
野崎詣や伊勢詣の交通の要路であっ
たことから道標が建てられたと言われ
ています。
「城東区史」に中央・四辻の東のあた
りで伊勢の御札降りがあり村民が踊
り狂った(ええじゃないか踊り)と記載
されています。この一件もあって当宮
に道標が持ち運ばれたと伝えられて
います。
安政六年(1859年)三月には今福村
の大峰山登山人等により上部に常夜
灯が加えられました。

道標には、「左 大阪道、右 のさ
き、ならいせ道 當村山上講」と刻
まれています。






三 郷 橋 の 樋 

当宮の北西に三郷橋稲荷という
小祠が祀られています。
このあたりにはかつて鯰江川が流
れていて三郷橋が掛かっていまし
た。
橋には今福樋【水門】があり生駒
方面から幾重にわかれた井路川
の合流地点があり、水害の多かっ
た榎並荘より上流の村々の水害
を防ぐ為に、増水の調節のする総
元締を行う重要な拠点を担ってい
ました。
大正六年五月に今福三卿橋閘門
樋工事の際、橋にあった三本の石
柱で組まれた門のうち二本が当
宮に持ち運ばれ、小女郎稲荷の
前に横たわっています。残念なが
ら、一本は工事の際に鯰江川に
沈んでしまったそうです。

石柱には、「三郷三拾六ヶ村立
会悪水門樋」「澱川通御国役今
福村領有之東榎並荘九ヶ邨悪
水門樋」と刻まれています。


 







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