仏堂のお話-1

  今回、「仏堂のお話」を掲載することにいたしましたが、寺院のどの建築までを仏堂
に含めるかで結論は出ずじまいでした。仏堂といえば寺院の多くの建築を表しますが
今回は「金堂」、「本堂」を主に掲載いたしました。
 寺院建築には和様、新和様、大仏様、禅宗様、折衷様と言う様式がありますが私自
身、和様と新和様、新和様と折衷様をどこで線を引くのか理解出来ておりません。我
が国の寺院は東南アジアの寺院のように手軽に入堂できず内部の構造が分からずじま
いの私では分類することできませんので様式がはっきり分かるものだけを記載してお
きました。
 これらの様式の根源は、大陸から伝来したものであるので大仏様、禅宗様、折衷様
で分ければ理解し易いですが。国が指定・登録・選定した文化財の情報を見ても建築
年代は記載されておりますが建築様式は記載されておりません。建築様式で分ける事
が出来ないので仏堂の紹介は北から南の順に並べました。
 「彫刻」の時代区分では白鳳時代がありますが鎌倉時代以降の国宝指定の彫刻は存在
いたしません。一方、国宝指定の建造物はどうかと言いますと白鳳時代は取り立てて
建築がなく白鳳時代という時代区分は無いようです。建築は彫刻と違って国宝指定が
鎌倉時代で終わりではなく江戸時代まで続いております。江戸時代の国指定国宝の中
には善光寺本堂、比叡山根本中堂、清水寺本堂、東寺金堂、東大寺金堂など大型の建
造物があります。白鳳時代の遺構を強いて挙げれば法隆寺の金堂、法起寺の三重塔で
ありますが確証はありません。国指定文化財での時代区分では2棟とも飛鳥時代とな
っております。

 中国では宮殿建築の様式を仏殿建築が模倣したのですが、我が国では中国の仏殿建
築の様式を仏殿建築に転用しさらに宮殿建築にも採り込んだのです。洋の東西を問わ
ず公式の建築は整然とした左右対称であり中国も同様でした。左右対称の建築の配置
は、見た目にはバランスが取れていて好まれましたが、我が国では最初の寺院
「飛鳥寺」こそ左右対称の伽藍配置でしたが左右非対称を好む傾向があり飛鳥時代には
もうすでに中国の左右対称の奥深い伽藍配置を真似ていない左右非対称形の伽藍配置
の寺院が建立されております。

 例えば7世紀頃の創建と考えられている「川原寺(かわらでら)」を見てみますと

  「川原寺」は当時の建築は何一つ残っておりませんが礎石群は見事に復元されてお
ります。南大門跡を入っていきますと中門跡に至りそこから右前方に「五重塔の基
壇」、左前方に「西金堂の基壇」があります。さらに進むと回廊が繋がっていた「中金
堂跡」がありますが現在、中金堂跡に「弘福寺(ぐふくじ)」が建設されています。当
時、川原寺は
弘福寺とも呼ばれており飛鳥寺、大官大寺、薬師寺と共に
「飛鳥四大寺」の一つに数えられたほどの官の大寺でした。平城京遷都には通例通り
寺院も移りました。飛鳥寺は元興寺、大官大寺は大安寺、薬師寺は薬師寺と言う寺
名で移りましたがなぜか川原寺は飛鳥に残ったままでした。
 余談ですが玄奘三蔵がインドから持ち帰った膨大な経典の翻訳を開始した由緒あ
る寺院は、唐時代に建立された「弘福寺(こうふくじ)・大慈恩寺」でした。
  「弘福寺(ぐふくじ)」は「こうふくじ」とも読むことが出来ますが平城京の「興福寺」
との関係はどうなるのでしょうか。
  
 「法隆寺」では、創建当初の「若草伽藍」は左右対称伽藍でしたがそれから数十年後
に再建した現在の伽藍は既に左右非対称伽藍となっております。

 我が国最古の寺院である飛鳥寺は3金堂、川原寺は2金堂と言うように飛鳥時代
には複数の金堂を持つ寺院が存在いたしました。
 原則、金堂(本尊)は南向きですがこの原則は仏教の故郷インドで出来たものでは
なく中国での思想で、貴人は南面してが本尊に取り入れられたのでしょう。しかし、
 聖徳太子御生誕地の伝承があります「橘寺」は南向きではなく東向きとなっておりま
 す。
 明日香の「薬師寺(本薬師寺)」は回廊内で金堂前の東西に両塔を配置する最初の寺
院で、左右対称の伽藍配置に復帰しました。その伽藍配置を「現薬師寺」が踏襲して
います。現薬師寺は天平時代の建設ですが本薬師寺の伽藍配置ですので白鳳伽藍様
式となっております。ただ、天平時代の「大安寺」は南大門より外に東西の七重塔を
配置しています。 

 中国建築様式を倣った仏堂建築はまず最初、韓国から伝来し、間もなくして中国
から直接請来するようになりました。ところが、伝来当時の仏堂建築の遺構がある
のは我が国だけで中国、韓国共に残っておりません。
 ただ、建築様式の範となった中国は降雨量が少なくしかも我が国のような地震列
島とは違って構築物に被害を与えるような地震も少ないので建築様式をそのまま真
似る事はできませんでした。しかし、中国の内陸部では「四川大地震」のような大地
震も発生しています。
 建築資材も中国では石材や塼(煉瓦)ですが我が国では石材を得ることは難しい代
わりに良質の木材は豊富にありますので木造建築に終始いたしました。  

 我が国では、建築部材は化粧材となるまで
製材加工しました。その部材は一応塗装しま
したが塗装が剥落しても再塗装せずそのまま
にしています。住宅でも柱が汚れても塗装す
ることはありません。第二次世界大戦後占領
軍が駐留した建築物にペンキを塗りたくった
ということなのでこのことは西洋では当たり
前のことなのでしょう。伊勢神宮は今だ素木
造を守っております。鎌倉時代に禅宗様の建
築が伝来しました
が禅宗様は彩色せず素木造という点が我が国
で好まれる要因の一つでしょう。
 他の国では建築部材は自然木のまま(右写
真)使用しますので仕上がりの悪さを補うた
めに華やかな塗装が施されるのです。 


  垂木は太さが違ったり曲がったり
 しております。

 「柱」だけで屋根、床、組物などを支えます。柱と柱を繋ぐのは梁です。
 柱の製作過程は、巨木と言えるような大木を縦に楔(くさび)などで四ツ割にした
四分の一から柱を作りました。その四分の一の用材を釿(ちょうな)で四角柱に加工
しさらに槍鉋(やりがんな)で八角柱、十六角柱、三十二角柱と形を整え後は手探り
で丸柱を完成させました。垂木においても角柱から丸地垂木を造りました。当時は
台鉋はありませんと言うより原木を楔で割っているので表面には凹凸があり台鉋は
使えなく槍鉋でないと駄目でした。横挽きの鋸はありましたが縦挽きの鋸は室町時
代から使用するようになりました。縦挽き鋸で切った面は平らであるため台鉋の使
用が可能となりました。これらから考えると天平時代までは用材の加工が大変で装
飾彫刻まで手が回らなかったとも言えるでしょう。

 古代の木材は現在のように根元まで日が当たるよう間伐などの手入れをしない悪
環境での生育でした。木の成長は遅く一年で1,2ミリというものですから年輪は
詰まった丈夫な木材でした。また、枝打ちをした同じ太さの材木ではなく枝打ちを
しないので円錐状の木材を縦に四分割するには大径木でなければならずそれはそれ
は樹齢の長いものではなりませんでした。
 例えば、屋久島の杉は千年未満は小杉(こすぎ)と言い千年以上の杉を縄文杉と言
うくらい樹齢の長い木が多く存在しておりましたがそれも乱伐の結果中世には世界
最良の木材も枯渇してしまいました。室町時代に縦挽きの鋸が伝来したのは良材で
なくても薄板の製材が出来るようにするためでした。ただ、真っ直ぐな柱が好まれ
てきましたが中世の茶室では逆に曲がった柱が好まれました。 

 我が国特産の桧、杉などは割裂性に富んでいて真っ直ぐに割ることが出来ました。
例えば、杉は幹が真っ直ぐに伸びるので「直木(すき)」から転訛したものと言われて
おります。真っ直ぐに成長した大木といえば桧、杉などの針葉樹であって西洋で使
われる広葉樹の楢や樫では無理でしょう。
 木造建築が盛んになったのは良材が確保できたことと比重が軽いので水に浮き水
路で搬送できたことが大きい要因でもあります。古代は現在では考えられないほど
川の水量が多かったのも事実です。 

 我が国の建築は木材を構造材だけでなく装飾材としても使っておりますので木部
の彩色が控え目であるのが洗練された建築と言われております。
 伊勢神宮の建築は無彩色であるように我が国の伝統ある建築は無彩色であったこ
とも影響していることでしょう。  
 寺院建築は仏堂空間を支える柱のみで壁は構造材ではなく仕切り材で壁を取り払
っても建築の強度には影響がありません。
 柱は真壁造の建築では目に触れ眺める内装材です。柱は神をも象徴する聖なるも
ので神を数える単位が柱と言うことが表しております。
 洋の東西を問わず主要な建築の柱は円柱が用いられております。
 
 遷都の際、巨木の積み重ねである仏堂を解体してすべてを新都へ運んだ場合と旧
都に残したままで新都で新築した場合とがあるようです。桧は用材として使い始め
て300年間くらいは強度が増し1,000年後でも伐採当時の強度があるという建設資材
では考えられない特徴があります。例えば、「唐招提寺の金堂の解体修理」で、「桧」
の新材、旧材の強度検査結果、金堂の1250年前の直径15センチの「地垂木」の強度は
新材の地垂木なら強度は2トン位と言われるのに比べ
驚くべきことに4.7トンの強度がありました。このことは、1250年前の桧材の強度
が新桧材の2倍強もあったということです。それと、古材は十分に乾燥しているの
で割れたり反る懸念が払拭されているのと、古代は過剰仕様と思えるくらい太い柱
でしたので再利用の方が新材を使うより価値がありました。

 

 「金堂」と言う呼称ですが中国、韓国では「大雄仏殿」「仏殿」とか呼ばれ、「殿」と言
うのに対し、なぜ我が国では金堂の「堂」となったのでしょうか。宮廷建築で殿が使
われていたので遠慮して堂にしたのか、それともこんでん「金殿」では言葉の響きが
悪いと考えたのでしょうか。
 しかし、法隆寺の「夢殿」と言われるようになるのは平安時代になってからでそれ
以前は「八角仏殿」と呼ばれておりました。飛鳥時代から短期間は中国の呼称である
仏殿が使われていたようです。それが時代を経ると金堂の呼称に統一されていきま
す。
 

 さて、金堂の名称の由来ですが確たる証拠はあり
ませんが金色の尊像金人(きんじん・本尊)を祀った
堂だからとか堂内を写真のように金色で煌びやかに
装飾したためとか言われております。写真のような
らまさに金色に光り輝いた仏堂で金堂という名の由
来そのものです。当時はこのような建築に一種の憧
れをもって迎えられたことでしょう。現在では金メ
ッキや金箔が剥落したのが逆に喜ばれますが。
 金箔を押した塼仏、金メッキされた鎚鍱仏を壁一
面に貼り付けたりさらには壁画を描いたりして本来
の白壁をそのまま置いておくことはなかったようで
す。堂内の荘厳では、氏寺では塼仏、鎚鍱仏、荘厳
具で浄土を表現しました。これは、金堂は仏の占有
空間であることを表しております。ただ、官の大寺

 
    夏 目 廃 寺
(資料提供:名張市教育委員会)

では繍仏で壁面を飾りました。
 当時は神社建築にも窓がないように仏堂も窓がなく薄暗い空間だったということ
ですが「夏目廃寺」では明るい空間だったことでしょう。写真の周囲で赤いのは柱で
壁は金箔が押された塼仏です。ですから夏目廃寺は塼仏寺院と言うことになります。

 我が国では壁には土壁を使用しませんでしたが仏教建築伝来とともに寺院建築は
土壁を使用するようになります。ところが、鎌倉時代に伝来した禅宗様は土壁を一
切使用せず板壁のみです。
 壁は白土や漆喰仕上げの白壁です。古代の壁は白土で石灰を用いなかったので耐
久性には乏しかったようですが後世、消石灰・糊・麻苆・水を混ぜる漆喰となると
耐久性は一段と向上しました。

 金堂は須弥壇が一杯に築かれ、金堂は仏像を安置する大型仏壇のようなものでし
た。仏の占有区間は金堂だけでなく回廊そのものが仏の占有空間で僧といえどもむ
やみに立入は出来なかった筈ですが「四天王寺式伽藍」の源である大阪の「四天王寺」
は、回廊が講堂まで繋がっておりました。法隆寺の再建伽藍では回廊が金堂と五重
塔のみを囲んで聖なる空間を築いていましたが平安時代には凸字伽藍となり回廊が
講堂まで繋がり聖なる空間と俗なる空間の結界が無くなりました。
 また、天平時代までの仏堂空間は間仕切りもなく本尊だけの閉鎖的空間であり、
法要の儀式は堂前の広場で行う庭儀か、講堂、中門で行われたようです。
 中国に比べ降雨量の多い我が国では屋外の法要は不都合でした。そこで、飛鳥、
白鳳時代は中門が礼堂としての機能を持っていて、法要は中門でも行われたようで
す。門の梁行(奥行)は2間が決まりで梁行3間の中門は法隆寺にしか存在しません
が飛鳥時代には礼堂として使われていたのか中門の梁行が3間と言う寺院が数ヶ寺
存在したらしいです。


      中 門(法隆寺)


      転 害 門(東大寺)

 法隆寺の「中門」に天井が張られていますのは法要が行われたためと思われます。
それと当時は中門の方が南大門より大きかったです。しかし、中門には仁王が祀ら
れることから門としての機能をも持ち合わせておりました。   
 中門も天平時代になると梁行3間はなくなり梁行は2間となりますが回廊は単廊
から複廊となります。
 法隆寺東院の桁行七間の中門の跡地に現在の「礼堂」が建てられております。
 余談ですが東大寺の「転害門(天平時代)」には宇佐の「八幡大神」を迎え、八幡大神
の「神輿」を置くための石が四つありその部分だけ天井が張られています。
  ただし、中世ともなると天井を張られる門が多く見受けられ室町時代再建の
「法隆寺南大門」にも天井が張られております。

 塔が伽藍の中心だったのがその位置を金堂に明け渡すことになり「塔中心伽藍」か
ら「金堂中心伽藍」へ変更となります。白鳳時代の塔は回廊内で金堂の斜め前方に東
西2塔、天平時代になると塔を回廊外に2塔ないし1塔の配置となり塔は伽藍の中
心位置からますます離れていきます。
 飛鳥、白鳳時代までの金堂の桁行(間口)は五間ですが塔が回廊外に移される天平
時代になりますと桁行は7間の横長となります。これにより、正方形に近い金堂か
ら梁行は変わらず桁行の大きい長方形の建築となっていきました。ただ、東大寺の
金堂は横長ではなく方形の建築でした。桁行7間の金堂では金堂の両側に回廊が取
り付くものも出て参ります。 

 通常、金堂と塔が回廊内にある場合の金堂は入母屋造で重層の五間堂です。塔が
回廊外に移されたのは興福寺が最初で、これ以降伽藍の主役は塔であったのが金堂
となり、金堂は入母屋造だったのが当時としては格の高い寄棟造に変わります。官
寺の薬師寺金堂は裳階付きで重層の桁行7間です。私寺の唐招提寺金堂は桁行7間
の単層であるため柱間を脇にいくほど狭くしていて金堂を大きく見せるための工夫
が成されています。
 
 天平時代までの金堂は
母屋を内陣とし、庇を外陣としましたが金堂に奥行きがな
いため内陣に当たる母屋は広いが外陣に当たる庇は狭いものでした。それと、庇は
一般人は入れず僧のみが礼拝する空間でありました。
 
 金堂の遺構は法隆寺金堂、唐招提寺金堂、室生寺金堂、醍醐寺金堂、興福寺東金
堂、東寺金堂だけで後世の本堂の方がはるかに多いですが、金堂がこれほど多く残
ったのは幸せなことです。    

 法隆寺では塔と金堂が対等に並んで建設されておりますが既に金堂が格式高い仏
堂として扱われていたようです。たとえば、雲斗栱に雲文様の線彫が金堂にはあり
ますが五重塔にはなくしかも金堂の柱は強いエンタシスにしているなど、金堂と塔
は対等ではなく金堂が主要堂となっております。


      金 堂(法隆寺)   


       五 重 塔(法隆寺)

 

  「講堂」は金堂の後方に建立されます。講堂は法要と経典の講義が行われますので
仏像を安置しますが須弥壇は小さくなっています。
 天平時代の寺院では多くの僧侶が在籍しておりましたので大型の仏堂でありまし
た。しかし、古代の講堂の遺構は残念ながら存在しません。天平時代の講堂では
唐招提寺の「講堂」は平城京の「朝集殿」を移築改築したものであり、法隆寺東院の
「講堂(現在の伝法堂)」も橘夫人の「住まい」を移築改築したものです。
  法隆寺の「大講堂」は平安時代の再建ですが それ以前の記録には食堂と記載され
ており古代では講堂が食堂と併用されていたのかもしれません。法隆寺でも講堂で
儀式が行われるようになり改めて「政屋」という建築を食堂として流用したようです。
 後世には講堂は建立されなくなったためか秋篠寺の「本堂」は講堂の跡地に再建さ
れております。講堂を改築して本堂としたという説もあります。
 法隆寺大講堂は当初、桁行8間(現在は桁行9間)で、飛鳥時代には桁行8間の講
堂が存在したらしいです。ただ、桁行が奇数である筈なのに何故偶数になったのか
は不明です。

 金堂の柱間は中央間から端間にかけて逓減していきますが講堂などの主要でない
建築の柱間は等間隔となります。ただ、唐招提寺の講堂は両脇間が他の間より狭く
改築されています。
 斗栱も金堂に比べ簡素なものとなっており法隆寺大講堂の斗栱は平三斗です。 
 講堂の付随として前方の左右に経蔵、鐘楼が建設されました。 

  禅宗寺院では仏殿が金堂に、法堂(はっとう)が講堂にあたりますが仏殿より法堂
に重きをおき法堂の方が大きく造られることがあります。  

 

  「平安時代」になると平安京内には官寺の「東寺」「西寺」以外、寺院の建立は禁止と
なりました。東寺と西寺(廃寺)は天平伽藍を踏襲して平地伽藍ですが、新築寺院は
京外の山地に建築されましたので配置も地形に合わすものとなり全くの非対称の伽
藍配置になりました。当然、回廊はなくなり寺院建築は一様ではない伽藍配置とな
りました。
 菅原道真による遣唐使の廃止により建築様式の国風化が起こりました。これが後
世に言われる「和様」の先駆けです。京内での新築寺院の禁止令により藤原摂関家で
も京内に建立することは控えました。貴族たちは邸宅に持仏堂を建立するため瓦葺
ではない住宅風で建築しましたので、仏堂が住宅化したのが和様化が進展する要因
の一つと言えるでしょう。当時は瓦の使用と鐘楼の建立が禁止されていたと言われ
ております。

 鎖国時代にあっては「密教寺院の金堂」、「阿弥陀堂の仏堂」に我が国ならではの変
革があり国風化が進みました。

 平安時代は人間の空間を重視、すなわち「礼拝空間の拡張」に力を注いだ時代でし
た。
 後述の密教寺院が奥深い堂を必要としたので「双堂(ならびどう)」、「孫庇付き仏
堂」が大いに持て囃され双堂、孫庇が進化発展を促して内陣、外陣に分かれた
「本堂」へと進みました。天平時代の双堂、孫庇には僧しか自由に出入り出来なかっ
たので本堂には民衆のための礼拝の場を増やす目的がありました。

  双堂、孫庇についてですがまずは双堂から説明いたします。

 

  「双堂(ならびどう)」とは別々の機能を持つ堂が並んでいることを言います。
 「東大寺法華堂」は正堂の前面に軒を接して礼堂がありました。礼堂は鎌倉時代に
再建した後2棟を一つの屋根で覆う本堂と言う形式に改築されました。東大寺の
法華堂は正堂が天平時代の土間、礼堂が鎌倉時代の再建ですので板敷となっており
ます。現在、双堂の遺構としては法隆寺の「食堂と細殿」が唯一のものです。
 建築技法から梁行を大きくできないので2棟を並べて双堂としその2棟の軒先が
接触するところに大きな木樋を掛けました。左の拙い図は概略を表したもので当時
の法華堂とは似ても似つかないものです。緑の囲いが木樋で右の写真は現在の東大
寺法華堂です。何故か不要になった木樋を残しております。
 金堂の国家鎮護と違い双堂は個人の祈願を対象にしたのか双堂は伽藍では主要な
仏堂ではなかったようです。庇には僧と言えども自由に出入りが出来なかったので
双堂が考えられたのでしょうか。
 双堂を一つの屋根で覆うと相の間のスペースが有効利用出来ると言う利点があり
ます。この件に関しては後述の「東大寺法華堂」で説明いたします。

 

 次に「庇、孫庇」についてですが天平時代までは寺院建築の母屋を内陣、母屋をめ
ぐる周囲の空間の庇部分を外陣としました。狭いですが庇は最初からあったもので
す。
 礼堂としてもっと広いスペースは確保をしたいときは正堂の前にさらに孫庇を葺
き降ろします。
 天平時代の孫庇は一面だけですが平安時代になると二面、四面と増え外方周囲に
つけた四面ともなると「裳階」のようになります。
 孫庇の増設には問題点が出て参りますがこの件に関しては「野屋根」のところで説
明いたします。
 孫庇を密教寺院では礼堂と言われたこともあるそうです。 


        金 堂(室生寺)


       本 堂(当麻寺)  

 「室生寺金堂」は縋破風(すがるはふ)と呼ばれる形式で孫庇を増設して堂内を正堂
と礼堂に分けております。「当麻寺本堂」も同じです。次の裳階と違う所は孫庇は母
屋の屋根を延長しているところです。


    三十三間堂(蓮華王院)


             金 堂(薬師寺)

  「三十三間堂」は庇の間を入れると「三十五間堂」となります。一般には
「三十五間堂」と名乗ることがありますが観音菩薩の三十三化身というように観音は
三十三と関係深いことから三十三間堂となったのでしょう。

 「裳階(もこし)」とは母屋の柱を利用して屋根を付けるものです。裳階は法隆寺金
堂でも分かるように竣工後の増築工事であることから仏のための空間ではなく僧の
ための礼堂として設けられたのでしょう。ただ、裳階に関しては異説があります。

 天平時代までは柱間の寸法は完数値で表わされました。平安時代になると桁行
(間口)の柱間は何間、梁行(奥行)の柱間は何間と表示するところを、「梁行は2間」
と決めておき梁行を表示しない「間面(けんめん)記法」が採用されます。
 桁行は3間、5間、7間、9間と大きくすることができますが梁行は2間以上大
きくすることは構造部材の関係上出来ないからです。
 当初、庇の増設は一面の一面庇だったのが二面庇、四面庇へと発展していきます
が四面庇となっても梁行が四間どまりでそれ以上梁行の大きい建築は出来ませんで
した。  
 例えば、桁行3間、梁行2間で四面に庇がつくと三間四面堂と表現します。桁行
が五間、梁行2間であれば五間四面堂という表現となります。

 

 「野屋根」についてですが、天平時代までの屋根勾配は中国風の緩い屋根勾配で
下から見える化粧垂木の「
地垂木(青部分)」と「飛檐垂木(緑部分)」上に直に瓦を葺い
ていました。詳しく言えば垂木上に板を張りその上に土を敷いてから瓦を葺きまし
た。大陸ではこの様式を頑なに守っています。

 ところが平安時代ともなると椅子、ベッドの生活から板敷きの床に坐る生活
に変
わった
ので落ち着いた空間確保のため天井を下げたり、板敷の床になると建築の周
りに縁が設けられたため縁を濡らさないように
孫庇を長くしたり、飛檐垂木を長く
して
一段と深い軒にしたり、さらには、古代の軽快な緩い屋根勾配で起こる雨漏り
を解消する為強い勾配の屋根にしたりという要望が起きたのです。
しかしながら、屋根勾配を急にすると軒先が下がり、室内から外を眺めたとき、急
勾配で下がった軒が目障りになるのと、軒先が下がると照明を外部の採光に頼って
いたため室内が暗くなります。そうかといって軒先の下がりを抑えると屋根勾配が
緩くなり雨漏りの心配が出てくる欠点がありました。
そこで我が国で考案されたの
日本独特の屋根の上に屋根を被せるアイデア「野屋根(野小屋)」形式であり、例え
は悪いですが「屋上屋」です。
 

 


          野屋根に拮木を設ける
   野屋根 :当初は拮木を入れること
  など考えつかなかったのでしょう

 従来、化粧垂木は構造垂木でもありましたが化粧垂木と構造垂木(野垂木 ・紫部
)が別個のものとなり屋根勾配の強い建築が可能となりました。結果、化粧垂木
は屋根勾配と関係がなくなったので水平でも良くなりました。
古代は梁行(奥行)が
2間でしか建築できないので拡張する為、孫庇を設けて解決
しておりましたが鎌倉
時代ともなると 、
その両垂木の間に拮木(はねぎ・赤部分)」を組み込んで梁行が
3間以上の
建築が出来るようになりました。下から見えない架構を野小屋と言いま
す。天平時代までの化粧垂木は見栄えの良いものではならず細い木材でしたが、野
小屋は天井裏で見えない構造であるため丈夫な太い材料の野垂木、拮木が使えたの
で飛檐垂木を長くして深い軒にすることできました。分かりやすく言いますと天平
時代までの地垂木、飛檐垂木では大きな屋根を支える事は不可能でしたが太い野垂
木、拮木の利用で屋根勾配の強い大きな屋根を支える事が出来るようになったと言
うことです。
 野屋根は雨漏りの解消と時代の要請である梁行の深い仏堂を建立できるようにし
ました。結果、堂内の構造を自由に決めることが出来るようになり鎌倉時代に起き
た新宗派は独自の平面の仏堂を建立しました。
 屋根勾配が増し高い屋根ばかりが目立つ建築となり一部では悪評高いですが、豪
放に見えることも事実です。
 この野屋根形式の現存最古の遺構が「法隆寺大講堂」であります
 

  禅宗様は通常、野屋根がなく高い屋根を形成するために垂木の勾配を急なものに
していますが和様のように雨に濡れては困る縁がないので深い軒にする必要はあり
ません。とはいえ、禅宗様である「円覚寺舎利殿」が野屋根・拮木を採用しておりま
すように禅宗様でも野屋根・拮木が利用されたようです。円覚寺舎利殿は年に数日
間しか拝観できませんので残念ながら今だ訪れておりません。 

 

 飛鳥、白鳳、天平時代に伝来した大陸の建築様式は「密教寺院」に引き継がれまし
たが、瓦葺から桧皮葺、土間床から板敷き床へと国風化され和様化が進みました。
 「密教本堂」は当初、双堂、孫庇による礼堂で法要を営んでおりましたがこれを一
つの屋根で覆い出来た仏堂が本堂で、この堂内部を内陣と外陣に整備しました。こ
の結果平安時代に起こった間面記法は適用できなくなりました。礼堂を設けるのは
密教仏堂の大きな特徴です。

 密教では人々を引き付ける素晴らしい仏像を、秘密の仏教だけに秘仏扱いで信者
の目に触れないようにしました。それと、内陣を簡素にして豪華な宮殿型の大型の
「厨子」を安置したことは金堂が厨子に変わったとも言えます。厨子に安置するため
本尊の大きさは小さめに造像されます。これにより、内陣が仏の占有空間では無く
なりしかも内陣は奥、奥へと追いやられ外陣の充実に一層の拍車が掛かるようにな
っていきます。 
 当初、堂内に立ち入ることが許されても内陣、外陣の境界は厳しく制限されてい
たものが、境界を格子戸に変更して内陣より外陣を重要視していきます。
 年とともに、母屋柱(内陣柱)の前2本を取り去り、さらには後ろの2本は後退さ
せると同時に厨子を後方へ後退させていきます。このことは、礼堂付き仏堂が主役
に躍り出たことになります。余談ですが外陣の拡張は塔も同じ現象が起きています。
 鎌倉時代には床板敷の人間の空間を外陣に、内陣の仏の空間を一段低い土間(石
敷)とする寺院もあります。 

 

 「阿弥陀堂」は天台仏教での「常行堂(じょうぎょうどう)」をモデルにした方形の平
面で屋根は宝形造です。
 阿弥陀堂には方五間、方三間がありますが施主が有力な貴族であれば方五間、そ
れ以外は方三間の阿弥陀堂でこの方三間堂が多く建立されました。方五間、方三間
と言うのは母屋に四面に庇を廻らすので方三間四面堂(方五間)、方一間四面堂
(方三間)と言うことです。方五間の阿弥陀堂ともなると間面記法は成り立たなくな
ります。 
 常行堂は阿弥陀如来の周囲を阿弥陀の名号・念仏を唱えながら「右繞礼拝」が出来
るようになっています。ところが、阿弥陀堂は内陣を後ろへ下げ礼拝の外陣を広げ
しかも仏後壁を設けたりして、阿弥陀如来を右繞礼拝ではなく正面から礼拝するよ
うなスタイルに変わっていきます。
 阿弥陀堂には名称の如く阿弥陀如来が安置されるものだけではなく阿弥陀如来以
外の仏が祀られることもあります。その後、方形の阿弥陀堂ではなく九体阿弥陀堂
など桁行の広い堂が造営されました。
 独自の建築として苑池を前にした平面が方形、屋根が宝形造の阿弥陀堂が盛行し
ます。平面が正方形の阿弥陀堂が多いですが後述の禅宗様の仏殿の平面も正方形と
なっています。
 有力貴族は邸宅内に阿弥陀の持仏堂を建設しました。邸宅内に造営することから
京内は仏堂の建設禁止を考えて住宅風で建設しましたので必然的に和風化となりま
した。摂関家の藤原氏などは京外に大規模な阿弥陀堂伽藍を建設しました。
 阿弥陀堂は鳳凰堂、九体阿弥陀堂のように間口が広い仏堂でなければ見栄えが良
くないのですが一方、樹林に囲まれた阿弥陀堂は、平面が方形の方が背景に溶け込
んで落ち着いた気品漂う建築となっています。
 末法思想により現世では仏になることが不可能であれば来世、浄土に往生して仏
になることを阿弥陀如来に願い、それを叶えるには善を多く積まねばならないとい
うことで阿弥陀堂が多く建設されました。その結果方三間堂の小規模の阿弥陀堂が
多く見られるのです。方三間堂阿弥陀堂は方五間阿弥陀堂などに比べ簡素と言えま
すが堂内は折上小組格天井の落ち着いた空間を形成しています。
 また、間違いなく浄土に往生できる安心のために九品の九体阿弥陀堂も建設され
たのです。
 建築を中心として周辺環境が考えられていましたのが周辺環境を考えてから建築
を設計するようになります。すなわち、阿弥陀堂を荘厳するため堂を取り巻く周辺
まで浄土の表現を企てました。浄土に憧れるようになり浄土変相図を具現化するよ
うになって装飾が賑やかになっていきました。        
  先祖を追善供養するのではなく自分自身が浄土に速やかに往生できることを、他
力本願に縋り阿弥陀仏による浄土への往生を願いました。

 

 「本堂」は野屋根、拮木の効用で梁行(奥行)が大きくなり仏の空間の内陣、人間の
空間の外陣を持ち備えています。これら本堂は宗派独自の仏堂空間が考案されまし
た。
 本堂とは双堂だった正堂(金堂)と礼堂が一つの屋根で覆われる建築が金堂と講堂
が合わさったものとも言われます。本堂は一つの建築となったので正堂、礼堂では
なく内陣、外陣と言われるようになります。
 後世になると室生寺、当麻寺のように金堂と本堂とが併存する寺院も出てきま
す。 
 仏教信仰の対象者の変化が平安後期から起こり始め、特定の人間だけでなく一般
大衆も礼拝するようになると、本堂は庶民に解放する場が重視され、仏の空間では
なく人間の空間であるというイメージが強いものとなります。塔は仏の空間ですが
本堂は人間の空間に様変わりしたとも言えます。
 そうなると、礼堂に柱が多く立っていれば礼拝空間としては不適切であるため柱
を減ずることに専念した結果、鎌倉時代に大陸から伝来した大虹梁を利用して柱を
減らすことに成功したのです。
 本堂化は密教の隆盛によるところが大きく、本堂となると内陣、外陣ともに板敷
き床が一般的ですので基壇がなくなります。屋根は瓦葺ではなく桧皮葺、柿葺、壁
は土壁ではなく板壁、組物は金堂に比べ簡素となり三手先はなくなり出三斗、出組
(一手先)が多くなりますがまれに二手先斗栱もあります。
 最初、結界は扉であったのが格子戸で仕切るようになりました。 
 庶民を対象にする寺院では「山号」と「寺号」が付いています。例えば、浅草(あさ
くさ)の観音さんの正式名は金竜山 浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)です。 

 

 

 「大仏様」は東大寺の大仏殿、南大門などの大規模な建築に適しているため大木を
必要としたのに対し禅宗様は小さな部材の組み合わせてで十分な強度を確保出来た
という大きな違いがあります。
 鎌倉時代に古都奈良において大仏様が採り入れられました。それは大仏様には野
屋根がなく、一軒の垂木、化粧屋根裏など天平時代の建築様式に当てはまるので修
築には好都合でした。
 大仏様の貫、木鼻、桟唐戸などは和様、折衷様に取り入れられました。貫により
構造強化が図られたため和様建築では長押から貫への移行が起こったことは当然な
成り行きで大仏様の最大の功績と言えるでしょう。
 大きな部材が露出していることが繊細な日本人には馴染むことが出来なかったの
か大仏様は「重源上人」が亡くなると運命を共にしました。
 
 「禅宗様」は南北に奥深い左右対称の伽藍配置に戻っています。ただ、禅宗様は仏
殿、法堂は土間床で四半敷の瓦敷ですが塔頭、方丈は和様を採り入れて板敷き床と
なっています。壁は中国にもない縦板壁で建築全体が木製となっています。
垂直性が強く天井が高くなっておりこの様式は和様の興福寺の東金堂にも採りいれ
られ柱が長くなっています。国宝指定の仏殿内部には立ち入れませんが富山の
「瑞龍寺仏殿」だけは立ち入ることが許されています。
 この四半敷の床は大変好まれて和様の床などにも採りいれられています。
 時代の要請は外陣の柱を抜いて礼拝空間を使い勝手の良いものにしたいことでし
た。和様にも虹梁という梁がありましたが、禅宗様からもたらされた大虹梁、海老
虹梁の使用で、苦労していました柱を抜くことが出来たのであります。
 釈迦如来を安置するので仏殿と言われるのでしょう。ただ、本尊は須弥壇に安置
され厨子に安置されるのは数少ないです。
 鎌倉時代末になると大仏様、禅宗様を採り入れた「折衷様」が出始めますが瀬戸内
海で多く見られます。 
 禅宗様は寺院建築すべてに影響を与えたので純粋の和様は姿を消してしましまし
た。    
 屋根は瓦葺でなく和様の桧皮葺が多いですが屋根の軒反りが強いのは禅宗様式で
す。
  禅宗仏殿は方三間一重裳階付で、和様では採用されなくなりましたが「裳階」、
「三手先斗栱」が復活しました。

  

 「桃山時代」になり建築の細部装飾はますます盛んになり「江戸時代」では過剰と思
えるくらいになります。桃山建築といえば昨年(2007)訪れた仙台の大崎八幡宮の
「豪華絢爛たる社殿」を思い出します。平成の修復作業が完了したところで鮮やかな
色彩に復元されており創建当初の姿が偲ばれました。 

 建築本体の良さすなわち建築の組み方、素材などの良さを、世間一般の人はなか
なか理解出来ないため興味が起こらず、最大の関心事は彩色、装飾彫刻になってし
まうのでしょう。それらの絵画や彫刻には物語があり大衆が興味を抱く題材を重点
に絵画、彫刻で表現しています。絵画や彫刻は多くの人に注目されるわりには建築
費用から見ると経費が掛からないので盛行したのでしょう。
 それと、例えば薬師寺では天平時代の東塔より色彩が残っている昭和の西塔の装
飾の方に興味がいってしまうのは見ていても楽しいのとデジカメでカラー撮影して
送信すれば仲間との話題ができるからでしょう。
 中備の蟇股の出来不出来が建築の良しあしの判断基準となり、ついには、大衆に
評価される建築に仕上げるために彫刻家の「左甚五郎」まで動員されるに至ったので
す。
 とはいえ、古色蒼然を愛する方は木部の彩色に興味を示すどころか彩色が剥落し
た素木の方が好まれることも事実です。  

 

 近世になると仏堂と高僧の尊像を祀る影堂、御影堂祖師堂を並べて建設するか
またはそれら祖師の堂を正面に持ってくるくらい重要視され、我が国独特の仏教が
起こりました。堂内は信者への説法の場として広く設計されております。
 ただ、禅宗寺院での開山堂は伽藍から離れた場所に建設されております。  
 一方、江戸時代、大名たちは下手に城の改築、増築をすると江戸幕府に睨まれて
改易にでもなれば大変でしたので、城ではなく社と寺院とが融合した「廟堂」を盛ん
に建設するようになります。廟堂でお馴染みの日光東照宮では建築の外壁は構造材
が見えないほど著しい装飾が施されています。
 世界各地にはどんな廟堂があるかは不知ですがインド旅行で訪れたのがインド最
大の廟堂「タージ・マハル」です。 


         タージ・マハル

 「タージ・マハル」は総大
理石造でムガル帝国の皇帝
が亡き王妃を偲んで建てた
霊廟です。
 最初見た時凄いと言う感
想より公害問題を抱えるイ
ンドで白亜の殿堂を保って
いるメンテナンスに感心い
たしました。
 私はタージ・マハルより
この近くにある「マトゥラー
博物館」の方に興味があり、
2度目に訪れた時は入口で

門の基壇に腰かけてグループの帰りを待っておりました。洋の東西を問わず霊廟は
技術の粋を集めた豪華絢爛な建築です。しかし、我が国ほど細部彫刻を賑やかには
しておりませんでした。

 ここで少し思いついたことを述べますと

 「亀腹」は仏堂内に床板を張れば
大陸から伝来した建築様式の基壇
を用いません。それと、床板張り
の建築は周囲に縁を廻らすこれら
床下、縁下に設けられた白漆喰仕
上げされたものです。亀腹を設置
したのは床下を見せるのを避けた
という説には一理あると思われま
す。


      亀 腹(金堂・観心寺)

 また、山岳寺院では傾斜地に仏堂を建立するため解決策として亀腹を採用したと
の説ですが余程大規模な仏堂ならいざ知らず一般的な仏堂の敷地面積ぐらいの整地
は簡単に出来た筈です。
 私素人が考えますには、床下の上には聖なる仏の台座があるだけに床下を清浄に
しなければならないため日常の床下掃除を省くためではなかったか。それと、山を
背にしている場合など山からの雨水が鉄砲水となって金堂を襲った時敷地の傾斜を
利用して速やかに流すと同時に泥水が床下に流れ込むのを亀腹で防ぐためではなか
ったのか。「観心寺金堂の亀腹」の高さは前面で3.3尺、背面は2.5尺となっておりま
す。しかし、この亀腹も近世になると使われなくなっていきます。 
 
  平安時代になると、和様では基壇はなくなりますが禅宗様だけは基壇があります。
大仏様では「東大寺南大門」には基壇はありますが「浄土寺浄土堂」には基壇がありま
せん。 

 下記の二点は禅宗様の基壇です。

   「壇上積」ですが天平時代までの
    基壇に比べ低いものです

 壇上積の基壇より「乱(石)積」の基壇
の方が多くあります。

 


       和 様


        禅 宗 様 

  和様が大仏様での「貫」を利用する以前はどうであったのかを説明しますと古代の
建築は貫ではなく「長押(なげし)」を用いました。柱を両側から挟み込んだ長押に大
釘を打ち柱を固定しましたが貫に比べ横への力が弱いという弱点がありました。た
だ、貫と違って長押は組み立て途中でも柱の上部の調整で水平を出す利便さはあり
ました。それと、長押でも充分だったのは古代の柱が太かったためで、時代を経る
と柱が細くなってくるので長押では不十分となり貫と交代しました。上記の写真で
和様と禅宗様の柱を見ればその太さの違いは歴然です。貫の使用によって長押は構
造材ではなく装飾材となりました。  

 

 「台輪」とは柱頂を繋いだ平たい厚板で柱
が横に広がるのを防ぐ効果があります。台
輪は禅宗様で用いられますがわが国でも古
代から塔のみに使用されていました。た
だ、禅宗様の台輪の端は繰形のある「木鼻」
となっています。 


     東 塔(薬師寺)

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