斗栱・蟇股・木鼻のお話-1

 これからの話に深くかかわってまいります「和様」、「大仏様」、「禅宗様」について簡
単に説明いたします。
 
 
とは我が国古来の様式ではありません。平安時代、我が国は鎖国だったことも
あり、中国渡来の建築様式をベースにし、我が国の風土、生活習慣に照らして我が国
好みの構造すなわち国風化を測った様式です。堂内の内部空間に間仕切りをして部屋
数を増やしたりさらには、土間から床式にしたり天井を低くしたりして坐式生活に相
応しい落ち着いた空間を造りました。中国では今でも外食風景を見れば理解できます
ようにイス、テーブル式ですがその中国様式のイス、ベッドの習慣を捨て堂内では靴
を脱ぐ習慣に変更したのであります。しかし最近は、冠婚葬祭を含め日常生活はイス、
テーブル式に変わってきております。私事ですが90歳の母親と一緒に外出する際には
洋式トイレがあるか、食事はイス、テーブル式かを調べないと出掛けることはできま
せん。
 平安時代は貴族社会であったため、室内の装飾を華やかな彩色にしたり明かり障子、
蔀戸、引き違い戸など色々と考案されましたが建物の構造についてはあまり関心がな
かったようです。ただ、気候風土、生活習慣に対応する構造にするため今までの屋根
の上に屋根を載せる「野屋根方式」が考え出されました。
 鎌倉時代に入り中国との国交回復に伴って請来した新しい建築様式、たとえば「貫」
という革命的な技法は建築構造の強化に大きな変革をもたらしました。持ち込まれた
中国の建築様式と我が国の今までの建築様式との違いが歴然であるため区別する必要
上、和様と呼ぶようになりました。それと、後の呼称ですが請来した中国の建築様式
を「大仏様」、「禅宗様」と名付けました。

 大仏様とは鎌倉時代、中国の宋の建築技術を習得した高僧「俊乗坊重源」が、東大寺
大勧進として東大寺再建に採用した建築様式で豪放そのものです。ただ、あまりにも
表現が豪快すぎて穏やかな空間を好む繊細な日本人には受け入れられませんでしたが
桟唐戸や木鼻などの細部意匠は和様に応用され流行いたしました。「
天竺様とも呼ば
れます。

  禅宗様とは鎌倉時代、禅宗とともに中国から輸入された建築様式です。ただ、本山
は本瓦葺の屋根ですが地方の禅宗寺院は我が国特有の桧皮葺、柿葺、野屋根、板壁が
採用され総て木造の建物が多いのも事実です。日本各地にある禅宗寺院様式で、皆さ
んもよくご覧になっていると思います。
  天井は和様は低く
しているのに比べ高く、それは見事です。国宝指定の仏殿では富
山の「
瑞龍寺仏殿だけは堂内に入れていただけますのでどうぞ。「唐様とも呼ばれま
す。

 
 折衷様とは和様建築に大仏様、禅宗様の構造が部分的に取り入れられたものですが
はっきりとした区分もなく判断するのは難しいです。中世以降では純粋な和様建築も
なくなり総べてが折衷様化したかと思われます。特に、中国地方には大仏様の細部を
取り入れた折衷様の建物が多くあるのには驚きでした。

 

◎斗 栱(ときょう)
 「斗栱」は「斗(ます)」と「肘木」との組み合わせたもので軒の荷重を支えます。和様の
斗栱は必ず柱上にあります。
 斗は物の量を測る
枡(ます)の形からきたともいわれますが枡と言っても若い方は見
たこともないでしょう。我が国ではつい最近まで風袋で穀物の量を測っておりました。
酒などの液体は器に従いますがコメなどは詰め方によって量が変わってきます。
斗(と)と言えば量の単位で10合が1升、10升は1斗、10斗が1石となり時代劇などで
前田家100万石といえば貨幣価値を米の量で表したものです。米だけではなくそれ以
外藩で収穫できる生産物も石高で表しました。酒瓶を私は1升瓶と言いますが殆どの
方は1.8ℓ瓶と称されることでしょう。ただ、一般的に枡といえば正方形ですが斗栱の
斗には正方形と長方形があります。

 斗栱の組み合わせの多さは仏堂の格によって違っておりましたが、平安時代傍流で
ありました双堂(後述)が一体化して本堂となり金堂がその本堂に取って代わるに従っ
てその慣習も消えていきました。古代、建築は装飾を用いないため斗栱は構造物だけ
でなく
装飾を兼ねたものともいえます。

 
       雲斗(法隆寺)


     雲肘木(法隆寺)  

 エキゾチックな雲形組物は飛鳥時代の特徴で法隆寺、法起寺、法輪寺の法隆寺系寺
院でしかお目に掛かれない我が国特有な形式です。古代の工人は防火の守りとして雨
を呼ぶ雲を描いたのか謎に包まれております。

 
       斗栱なし(浄瑠璃寺)


        舟肘木(円成寺) 

  柱上には斗も肘木もなく直接丸桁を
 受ける珍しいものです。

  「舟肘木」とは柱上に肘木(青矢印)
  のみが乗っているものです。

 
      大斗肘木(新薬師寺) 


        平三斗(法隆寺)

  斗栱で柱上に直接ある大きい斗を「大斗(だいと)(青矢印)」、それ以外の巻斗や方斗
を「小斗(しょうと・こます)
(赤矢印)」と言います。

  「大斗肘木」とは柱上に大斗、肘木が乗っているものです。

 「平三斗(ひらみつど)」とは大斗肘木の上に小斗を三つ並べたものです。 

  
        出三斗(長弓寺)

 

 
    出組(一手先)(東大寺)

 「出三斗(でみつど)」とは平三斗で大斗にクロスに組まれた肘木に小斗を乗せたもの
です。

 一手先(ひとてさき)とは平三斗組にさらに手先の組物が前方に出て丸桁を支えるも
です。一手先は通常「出組(でぐみ)」と呼ばれております。  

 
     二手先(大法寺)


      三手先(薬師寺)

 「二手先(ふたてさき)」とは出組にさらに手先の組物が増えたものです。

 「三手先(みてさき)」は斗栱では最高のもので天平時代の塔・金堂の主要な建物など
には必ず用いられました。それに比べ先述の「出組」「二手先」は主に脇堂に使われまし
た。

 天平時代、「双堂(ならびどう)」が流行いたしました。白鳳時代までの金堂は、仏像
収蔵庫ともいうべきもので僧といえども仏像を納める以外は金堂に立ち入ることが許
されず、法要は金堂前の庭で行う「庭儀」でした。これでは、雨の日が多い我が国では
大変不都合で、そこで、金堂の前に礼堂(神道は拝殿)が設けられました。それが
「双堂」の始まりです。参考までに双堂の面影を残しておりますのが「法隆寺の食堂と
細殿」「東大寺の法華堂(三月堂・出組)」です。時代が下がるとその「双堂」が一つの建
物となり内陣、外陣(礼堂)が備わった「本堂」へと変わっていき天平時代までの金堂が
消えていきました。
 
先述の「庭儀」ですが、「庭」とは関係者が集まって政事(まつりごと)を行う場所のこ
とでした。「朝庭」は「朝廷」と変わりましたが朝廷とは勤務が日の出の早い時間から始
まり昼頃に終わるという午前中勤務だったからです。が、636年には朝6時に出勤し、
午前10時以後に退出せよとの通達が出ており、当時の勤務振りは相当いい加減だった
ようです
。現在の市場も昔は市庭と書かれておりました。
 平安時代以降和様建築では塔を除いて一部の建物にしか三手先は使われていません
でした。しかし、鎌倉時代に請来した禅宗様建築では中国様式の三手先が復活しまし
た。

  
    四手先(切幡寺)


    六手先(東大寺・大仏様)

 「四手先(よてさき)は多宝塔の上層階で使用されています。図は切幡寺の二重塔
です。

 「六手先(むてさき)」は大仏様の組物で東大寺の大仏殿、南大門に用いられていま
す。大仏様独特の挿肘木で横に広がらず前へ前へと迫り出しており、大仏殿、仁王
門にふさわしい豪放な構造となっております。

 肘木については実肘木、枠肘木、通肘木など多種に及んでおりますが割愛いたし
ました。


    三手先(上華厳寺・中国) 


   三手先(上華厳寺・中国) 
 
 手先の組物が壁から直角だけでなく45度
の方向にでるのは私は不知ですが長崎の
「崇福寺」にあるとのことです。5月に訪れ
る予定で楽しみにしております。

 「中備(なかぞなえ)」とは斗栱と斗栱の間に入れるもので後述の間斗束、撥束、蓑束、
笈形、花肘木、蟇股などがありました。それらは構造材だったものが構造材と装飾材
を兼ねたものとなりついには専ら装飾材というものに変わっていきました。


       「雲岡石窟」ですが参考になればと思い掲載いたしました。

 
  人字形割束(直線・雲岡石窟)

 
   人字形割束(曲線・華清池) 

 我が国では「人字形割束(にんじけいわりづか)」と言っておりますが人字形割束の故
郷の中国では人の字が直線的なもの
(青矢印)から唐時代に曲線的な形(赤矢印)に変わ
るだけで後世まで踏襲して用いられました。我が国での間斗束は見当たりませんでし
た。 


   人字形割束(直線・四天王寺)

 「四天王寺」では斗栱と斗栱の間に後述
の間斗束ではなく人字形割束が施されて
おります。
 四天王寺は第二次世界大戦後の再建で
すが聖徳太子が創建されました当時の様
式で建立されております。直線的な人字
形割束
(青矢印)が中備に使われているの
は我が国では珍しいですが中国では通例
です。

 

   間斗束(けんとずか)」とは斗栱と斗栱の間に短い柱すなわち束の上に斗がのった
ものです。余談ですが我々が日常使う束の間の束のことです。和様では斗栱と斗栱の
間に間斗束
(青矢印)が入り、これを「疎組(あまぐみ)」といいます。


     中備なし(法隆寺)


     疎 組(東大寺)

  同じ聖徳太子が創建されました四天王寺、法隆寺ですが四天王寺は間斗束ではなく
人字形割束が組み込まれており一方の法隆寺では逆に間斗束すら入っておりません。


             詰 組(正福寺) 
 

 禅宗様では、和様の間斗束のところにも斗栱が入りこれを「詰組(つめぐみ)」といい
ます。和様の仏堂では見られなくなった三手先であるのと後述の蟇股などの入る余地
がない構造で禅宗様では構造美が特徴ともいえます。禅宗様寺院では図のように中央
間が脇間の1.5倍あり法隆寺の中門、金堂と同じ様式です。斗栱は和様に比べて細い
感じで禅宗様の特色である繊細さが表れており我が国で好まれる要因と言えるでしょ
う。写真で白壁でなく板壁であるのが理解していただけることでしょう。


     三手先(興教寺)

 
       詰 組(興教寺)

 中国寺院は我が国では見られない華やかさですね。

蓑 束(みのづか)

   
      蓑 束(金峯山寺) 


      蓑 束(向上寺) 

 「蓑束」とは束の上辺に植物の装飾彫刻が付いたものです。 鎌倉時代から間斗束は装
飾的なものになっていきました。

撥 束(ばちづか)

  
    撥 束(金剛林寺)

 
          撥 束(浄土寺)

 「撥束」は間斗束の束は同じ幅の長方形でありましたが束の下方が広がる形状で三
味線の撥のようになっております。時代を経ると撥束が多くなります。

 間斗束の左右に文様が描かれたりしますが資料を持ち合わせておりません。

双 斗(ふたつど・そうと)

   
     双 斗(観心寺)


     双 斗(金峯山寺) 

  「双斗・二斗」は主に折衷様で中備の間斗束の代わりに用いることがあります。写
真のように大斗上に小斗を二つ乗せた肘木という様式です。
 
金峯山寺の双斗は後述の蟇股上に乗っております。

花 肘 木(はなひじき)

 
      花肘木(法隆寺)


    花肘木(金峯山寺)

 「花肘木」とは大仏様の双斗を図案化・装飾化したものです。中備は間斗束か蟇股が
主ですが花肘木も用いられました。この
花肘木は室町時代に目覚しい発達を遂げまし
た。図の花肘木は秀逸で知られる南大門(法隆寺)のもので日本建築の特性である簡素
で装飾性のない和様建築にワンポイントマークとして設けられるようになります。

大瓶束(たいへいづか) 


 大瓶束(浄土寺・広島)


  大瓶束(室生寺)

  
   大瓶束(大崎八幡神社)

 「大瓶束」は禅宗様で用いられ虹梁上に立っておりますが和様にも取り入れられまし
た。梁上に立ち上部の荷重を受け止めるためのものです。
 中央にふくらみがあり瓶のような形からのネーミングです。

笈 形(おいがた)


      笈 形(東大寺)


      笈 形(法隆寺)

 「笈形」とは大瓶束の左右に彫刻が付いたもので構造と装飾を兼ねたものです。主
に妻側に用いられております。

 

蟇 股(かえるまた)

  まず最初に、「蟇股」、後述の「木鼻」は我が国では独自な発達を遂げ神社の「社殿」に
も採用されております。
社殿には優れたものが多くありますが私は仙台の「大崎八幡
神社」しか訪れておりませんので少し物足りない内容となっております。
 蟇股は和様建築のみで間斗束
あったところに設けられており建物の見所となって
います。古都の寺院、神社を訪ねられたら是非注意深くご覧ください。蟇股の文様が
表裏で違うとか並んでいる蟇股の一つひとつが違う文様というものもあります。
「蟇股・木鼻」を見て回られると古都巡りの楽しみが増すことでしょう。
 
 「蟇股」とは、蟇が脚を広げてふんばった姿勢と似ているところから蟇股と名付けら
れました。どうして蛙ではなく蟇が選ばれたのかそれとどうして蟇股の形状を見て蟇
が股を広げている姿を想像されたのか不可解です?それとも、蟇に何か謂れがあって
のことでしょうか。ただ、蟇股は蛙股とは記述いたしませんが事典などでは蛙の説明
欄で蛙股と書き説明する場合もあります。 
 蟇股の形状は時代の趣向がよく出ておりますので年代の判定の好材料といえるもの
ですが、修築が時代の趣向を取り入れている場合は駄目です。
 
 先ほど説明しましたように天平時代までは重要な塔、金堂が三手先であったのが平
安時代からの本堂では三手先が姿を消し出組を中心にした斗栱に転換した結果、軒下
が余りにもシンプルになり構造美が低減したのを補うために蟇股が採用されたと思わ
れます。
 
  当初、蟇股は梁の上に設けられておりましたが平安時代後期からは斗栱と斗栱の間
にも使われ始めました。蟇股は当初、構造材と装飾材を兼ね備えておりましたが建築
技法の向上で不要となりました。構造材ではなく装飾専用となりますと何の制約も受
けませんので棟梁が自由にデザインしました。我が国特有の発達を遂げたのは蟇股は
常に目に触れるところに設けられていたため蟇股の出来栄えで棟梁の大工としての腕
前まで判断されることがありました。当然、棟梁は蟇股の制作に力を注ぎましたので
傑作が多いのです。ところがあまりにも、蟇股に世間の注目が集まり過ぎたため優れ
た蟇股を造るべく大工ではない専門の彫刻家まで登用されたのが、かの有名な左甚五
郎です。国内には左甚五郎作の蟇股は数多くあり
後述の日光東照宮の「眠猫」がよく知
られております。

 
 室町、桃山時代では装飾的細部が大きく発展したのを受け蟇股、木鼻の文様の題材
も豊富となり装飾的に華々しいものとなりました。蟇股内部の飾りが賑やかになるの
を通り越して薄肉彫から枠内からはみ出る豪快な丸彫の蟇股も出てまいります。 

  先に述べましたように和様では斗栱は柱上にしか置かないのですが禅宗様は柱と柱
の間にも斗栱を置きますので蟇股の入る余地はありません。蟇股の頂部に斗(ます)を
置きます。
 

 
 「板蟇股」は天平時代後期から梁上に設置され上部の荷重を受ける構造材のため一
木の厚板で製作されました。平安前期の遺例は見つかっておりません。 

  「本蟇股」は平安後期から左右対称の二枚の厚板を合わせ中を刳り抜き透かしたも
のが作られ始めましたが鎌倉からは1材で刳り抜いたものとなります。構造材ではな
く装飾専用となりますと板厚は薄くなっていきました。左右対称の文様であったのが
南北朝から非対称となると同時に彫刻に重点がおかれたので素材の板も厚くなり丸彫
も出て参ります。「刳抜(くりぬき)蟇股」とも言われます。

 余談ですが法隆寺でガイドをさせていただいた福岡の方は地元の神社の氏子役員を
されていて、社殿改築の際宮大工が引いた社殿図面を見て“この「蟇股」は・・・”と
言うと宮大工始め役員達がどうして蟇股の事を知っているのかと驚かれたので鼻が高
かったとのお便りを頂いたことがありました。このように、皆さん日頃目にしておら
れてもそれが蟇股とはご存知のない方が多いようです。

 
       人字形割束(四天王寺)

 
         人字形割束(法隆寺)

 中国からの渡来の「人字形割束」ですが、人の字が四天王寺は中国当初の直線式です
が法隆寺では次代の曲線式となっております。ただ、中国で曲線式となるのは我が国
の天平時代で、法隆寺はそれ以前に再建されておりますので再建当初から曲線式であ
れば我が国の考案と言えます。
 木造では法隆寺の人字形割束が「東南アジア唯一の貴重な遺構」です。
 人字形割束は蟇股の源流ではなく扠首だと言われる方もありますが私は「原始蟇股」
であると考えております。当初は梁上で上の荷重をささえる一枚の厚板で出来た構造
材でありました。
  余談ですが人字形割束の上部構造物は有名な「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうら
ん)」です。
 
 
中国では、人字形割束で終始しましたが我が国での独自な発達をこれから写真でご
覧いただきます。


斗栱・蟇股・木鼻のお話-2