門のお話

 と言えば外国では高い城壁をイメージいたしますが我が国では「平城京」でも城
壁は門の両側に形式的にあるのみで門が外部からの侵入を遮断する役目は果たすこと
はありませんでした。
我が国では昔から「水と平和」はタダと言われてきましたが今日
ではどちらも貴重なものとなっております。しかし、
現在でも盗難除けの守り札があ
るくらい
の平和は残っているようです。
 都には門としての機能を果たす城壁はありませんでしたが古代寺院には築地塀、回
廊があり通用口の門は
境内地と外部とを区画する役目を果たしておりました。
しかし、東大寺などの官寺は巨大な敷地を誇っていただけに敷地の境界に塀が設けら
れたかは疑問です。また、山岳寺院は地形的に塀や垣根の設置は困難なため門は物理
的なものではなく精神的なものとなっておりました。平安時代ともなると山岳寺院が
数多く建立されました。精神的なものでは寺院で聖域と俗界との結界に用いられる神
社の鳥居があります。
 
 寺院の門の名称は、方位、場所、安置する像(仁王門)などで表しており、重要な門
には大門を用いました。主に重要な門として中門、南大門がありましたが鎌倉時代に
なると三門(山門)などに代わります。
 
 当初、門の規模は「尺度」をもって表しておりましたが後述のように門の規模を尺度
に関係なく何間何戸(なんげんなんこ)で表すようになります。
 中国では1枚扉が「戸」であり2枚扉が「門」であると表現しました。成程と思えるの
は、戸と戸の裏返った字を組み合わせると門と言う字になるからです。ところが、
我が国では1枚扉、2枚扉もしくは扉なしでもすべて門の出入り口を「戸(こ)」と言い
表しております。例えば桁行(柱間)3間で出入口が1間の場合は3間1戸(こ)、桁行
が5間で出入口が3間の場合は5間3戸と表しました。これらは門が一重、二重は関
係ありません。中世になると、二重門の2階部分に仏像などを安置したりする場合で
も何間何戸で言い表しました。古代の「法隆寺中門」などは二重門ですが2階は設けま
せんでしたが2階を設けた「東福寺三門」などは二重、二階門と言うべきでしょう。
 古代寺院では南向きの門が正門で、読み方は「しょうもん」ですが「せいもん」と読ん
でも笑われることはないでしょう。ただ、正月を「せいがつ」と読むと笑われますがこ
の読み方の違いは外国人が日本語で苦労するところでしょう。

 中門に取り付く「回廊」の遺構ですが法隆寺には天平時代の回廊が残っており回廊そ
のものが国宝指定という貴重なものです。回廊は神社でも採用されるようになります。
 平安時代ともなると密教寺院が霊山に建設されたため回廊の建設が難しくなりまし
たので門は本来の役目である外部からの侵入を防ぐためではなくなりました。また、
山岳寺院では門まで行くのに登らなければならないケースが多くなっております。密
教寺院の場合の門は防犯上ではなく聖域への結界として設けられており、門と塔、本
堂の3棟が重要視されました。後述の「長保寺」などは3棟とも国宝指定です。
 門の梁行は2間が標準です。法隆寺中門のように梁行3間というのは飛鳥・白鳳時
代にはありましたが天平時代ともなると梁行は2間が決まりとなります。これは回廊
が複廊となることも影響していることでしょう。

 天平時代では盛んだった建築様式の「三棟造」は、複廊の回廊だけでなく単独門でも
使われております。
 
 門の場合簡単な構造故中世には移築が多くありますが古代では修築せずに新しく建
て替えるため古い門は余り残っておりません。
 禅宗寺院では総門と三門がありますが古代の南大門に当たる総門の遺構は少ないで
す。 

 

 「中門」とは主に回廊の南中央に設けられます。禅宗寺院では中門に当たる門を
「三門」と言います。天平時代以前は二重入母屋造ですが天平ともなると南大門が重要
視されるようになり中門は二重から一重の切妻造に変わります。
  天平時代では回廊に設けられる重要な門は中門、境内の境界を示す築地塀に設けら
れる重要な門は南大門となり、中門、南大門は仏門、他の門は僧門と呼ばれました。  

 

 「南大門」は後に「仁王門」とも呼ばれます。禅宗寺院では総門が南大門に当たります。
  天平時代、東西南北の四面に付く門のうち南門が「南大門」と呼ばれ重要な門でした
が当時の遺構は存在しません。 

 

 「三門」は三解脱門(さんげだつもん)とも言われ空門、無相門、無願門のことです。
この三つの解脱によって涅槃に入るすなわち悟りを開いた後、仏殿に至るということ
です。ですから、解脱出来ていない者は三門を通るべからずで三門を閉鎖した寺院が
多いのはそのためです。三門は山門とも表現します。
 「山門」とは山岳寺院であるということと高僧が聖なる山に分け入って修行した後下
界に降りてきて寺院を開いた場合山号(さんごう)を付けたことから使われうようにな
ったとの説もあります。しかし、最初から平地に開いた寺院でも山号を付けますがそ
の場合は一般庶民を対象にした寺院であることを表しております。
 三門は楼門ではなく二重門でしかも二重・二階門も多いです。

 

 「四脚門(よつあしもん・しきゃくもん・四足門)」、「八脚門(やつあしもん)」とは真
中にある柱が門柱で、前後にある柱が控柱ですがこの控柱の本数をもって表します。
たとえば、前後左右にある控柱が4本あるのを四脚門、前後左右に控柱が8本あるの
を八脚門というように分類します。ただ、違うところは八脚門の柱はすべて丸柱です
が四脚門の場合門柱は丸柱なのに控柱は角柱となります。    


 四脚門・切妻造


   八脚門・切妻造

   八脚門・入母屋造

   「四脚門」は門柱は丸柱であるのに控柱は角柱なので住宅門が出発点かもしれませ
ん。この四脚門は住宅においては格式の高いものでした。

 「八脚門」は遺構が多く、一重で切妻造だったのが中世には「法隆寺南大門」の如く入
母屋造も出て参ります。天平時代の「法隆寺東大門」、「東大寺転害門」は三棟造で妻飾
りは二重虹梁蟇股式です。妻飾りの二重虹梁蟇股は天平時代の門だけでなく切妻造の
建築にも使われました。二重虹梁蟇股も中世には大瓶束に変わって参ります。室町時
代再建の法隆寺南大門の妻飾りは大瓶束となっております。

 八脚門は3間1戸が通常ですが「崇福寺媽姐門(まそもん)」は3間3戸という珍しい
ものです。後述の「万福寺三門」も3間3戸です。  


          媽姐門(崇福寺)


  舟底天井
三棟造 輪垂木天井

輪垂木天井(大雄宝殿・崇福寺)

 媽姐門は3間3戸で、間口の柱間の総てが出入口となっており「媽祖堂」へ向かう正
門で
す。
 航海の守り神を御祀りした
媽祖堂は、港町長崎だけに船主たちが航海安全を祈願し
建立された珍しいお堂で、媽祖門と共に長崎でしかお目に掛かれません。  
 
天井は三棟造で舟底天井と黄檗天井(輪垂木天井)で構成されております。舟底天井
とは舟底をひっくり返したような天井で和様建築では見ることが出来ます。寺院建築
では平らな天井で舟底天井はあまり見掛けませんが三千院で著名な阿弥陀三尊像をお
祀りした「往生極楽院」は舟底天井でした。
 輪垂木天井とは輪垂木を用いた天井で黄檗天井と言われるくらい黄檗宗独特のもの
です。輪垂木は後述の「唐破風」にも用います。
 三棟造で左右の天井形式が違うのを初めて知りました 。

 

 

 「二重門」とは初重と二重目に屋根を設けたものですが最近まで後述の「楼門」が二重
門に含まれていましたので楼門が二重門と呼ばれることも多いです。
 平面規模は5間3戸が多く古代寺院では二重目には床を設けませんでした。二重門
の5間3戸の遺構には「東大寺南大門」があり二重門は格の高さを表しておりました。
その昔は5間3戸より大規模な門が存在しましたが現在の遺構では5間3戸の二重門
が最大です。
 古代では二重門が多くあり法隆寺中門は二重門ですが天平時代ともなると法隆寺東
大門、東大寺転害門のように一重門となります。  

 

 「二重、二階門」とは二重目に床を設けた二階造の門で、その二階部分には宝冠を被
った釈迦如来像などを安置して法要が執り行われます。二重、二階門は禅宗寺院の三
門から始まったようですが後述の浄土宗の「知恩院三門」のように禅宗寺院でなくても
禅宗様式の二重、二階門で建立されることが多々あります。
 5間3戸の二重、二階門といえば後述の「東福寺三門」が著名です。
 禅宗寺院の場合三門の前に古代の南大門に当たる「総門」がありますがあまり見掛け
ないです。

 密教寺院では楼門が主に使われ、禅宗様寺院では二重門が通例です。

 

 


      三 門(崇福寺)

 「三門(崇福寺)」は中国様式の二重門
(二階建)と言われております。また、形
状から「竜宮門」とも呼ばれております。 
 下層はアーチ型の門で構造は煉瓦積み
の表面に赤漆喰で仕上げその上に楼門の
上層らしきものを乗せておりますが下層
にも屋根があり二重門です。
 両端には脇門が設けられております。
 二階には華燈窓、丸窓が嵌められてお
ります。
 大屋根には両端に想像上の動物、マカ
ラ(鯱?)、中央には宝珠が飾られております。屋根の反りはいかにも中国風で

大きく豪快そのものです。ただ、造営に当たっては日本人が関わっていたとのこと
です。
 左右の狛犬はメスのみでオスは不在とのことです。

 

 「棟門(むなもん)」は門柱が2本のみで控柱がありません。 

 

  「上土門」とは1間1戸で平らな屋根に土で屋根勾配を付けた建築です。唯一の遺
構は後述の「法隆寺上土門」ですが現在は土屋根が桧皮葺に改変されております。 

 

 

 「楼門」とは楼造の門で大変好まれ多く造られるようになり、逆に二重門の建立は少
なくなりました。楼とは二階建を意味します。
 我が国で考案されたものだと言われておりますだけに二重門より軽快です。
 平安後期に誕生したらしいですが遺構は鎌倉時代のものしか残っておりません。
  屋根の大半が入母屋造で下層の周囲には高欄付きの縁を廻らすので屋根がなく、屋
根は二重目のみに設けます。 
  中央間を広くして出入り口とする3間1戸が多い中「般若寺」のように1間1戸の楼
門は珍しいです。さらに少ないのは5間3戸の楼門で「東大寺中門」があります。
 3間1戸の楼門は中央の一間を出入口とし両脇の柱間には仁王像を安置します。
 1間1戸で「鐘楼門」というものがあり、上層に梵鐘を吊っております。
 楼門は神仏習合の影響で神社にも多く見られます。 

 ただ参考までに、「経蔵」は天平時代
の造営で楼造の建築では現存最古の遺
構です。下層の中央間を通り抜けにす
れば楼門となりますので天平時代に楼
門が存在したのではないかと思われま
す。ところが、楼門が平安時代から造
立され始めたのですが遺構としては平
安のものはなく鎌倉時代のものしか残
っておりません。それとも、楼造の建
築が廃れたので楼門が出来たのでしょ
うか。


       経 蔵(法隆寺)

 「唐門」とは屋根を「唐破風」造りにした門のことで殆どが四脚門です。唐門には「平
唐門」と「向唐門」があります。
 唐破風の「唐」とは中国のことではなく、唐破風そのものは我が国で考案されたもの
だそうです。垂木は曲線状の輪垂木が用いられます。 

 平唐門とは正面に向かって左右両側面に唐破風があるものを言います。一方、向唐
門とは正面に向かって前後に唐破風があるものです。 

 

 

 唐門とは軒全体が唐破風になっているものですが、唐門と呼ばれる中には切妻造、
入母屋造の屋根に目立つような「軒唐破風」を取り付けたものもあります。桃山時代
に盛んに造営されました。華やかな装飾が好まれた時代なので生まれたのでしょう。

           

 「陽明門」は3間戸の楼門で
す。東照宮には主だった門とし
て巨大な「石の鳥居」、八脚門の
「表門(仁王門)」、次の本社の
「唐門」があります。
 門は八脚門で
屋根の軒唐破風
は二方だけではなく四方にも付
いた贅沢な入母屋造です。
 
彫刻品で門を造ったと言える
ほど数多くの彫刻を始め、飾り
金具、さらには
極彩色で煌びや
かに彩られていて
圧倒される迫
力で、そのため、日が暮れるま
で眺めていても見飽きないため


        陽明門(日光東照宮)

「日暮(ひぐらし)門」とも言われます。
 
禅宗様が多く取り込まれて一層賑やかなものにしております。

 唐破風の下で扁額の左右に珍しい「麒麟(キリン)」が向かい合っています。眺めるに
は距離がある上に暗くて肉眼では見辛いです 。


      唐 門(東照宮)


  彫刻のパノラマは中国の故事に纏わる
 物語を表現しております。

  「唐門」は規模こそ小さいですが絢爛豪華な建物です。両側に取り付く透塀も見応え
のあるものばかりです。東照宮では一番重要な建築物である「本殿」の門だけに細密な
彫刻で埋め尽くされております。
 
四方軒唐破風の屋根の正面と背面には、夜間のガードマンとして百獣の王・虎より
も強いという「恙(つつが)」という奇獣を、昼間のガードマンとして東西に「龍」を配置
して
本殿への不審者の侵入を防いでおります。

   

 「山門」は上層と下層の階高が等
しいため見栄えが悪いですが、こ
れは上層に床を設けて多くの尊仏
を祀り法要する空間を必要とする
からです。このことは視覚を重視
した二重門から実務的な二重門に
変わったと言うことです。
 山門は柿葺で、「東大寺南大門」
のように屋根の大きさは上層と下
層が同じですが、当山門の場合は
下層屋根に上層屋根の積雪が落下
して柿葺が損傷することを防止す
るための工夫らしいです。


           山 門(瑞龍寺) 

  山門は「禅宗様」の建築仕様通りで大変参考になります。
  「総門」から南北一直線に並ぶ南北の基本軸形式で山門、それから山門の中央間から
見えている「仏殿」、その奥の「法堂」へと続きます。

 


        唐 門(
宝厳寺)

 「宝厳寺(ほうごんじ)」は琵琶
湖に浮かぶ
竹生島(ちくぶしま)
にあり西国第三十番札所です。
 「唐門」は国宝指定ですが上部
のどっしりとした豪華さに比べ
足もとが少し弱いように感じま
した。桃山時代作だけあって刻
まれた多彩な彫刻は見ごたえが
あるものばかりです 。
 1間1戸の向唐門で観音堂の
出入口となっております。
 竹生島を見て驚きましたのは
「かわう」の数の多いこととかわ

うの糞の被害で多くの樹木が枯れていることでした 。
 この唐門は後述の「豊国神社」にありました創建当初の唐門を移築したものです。

 

 「唐門」は日が暮れるまで眺めて
いても見飽きないため「日暮(ひぐ
らし)門」とも呼ばれます。日暮門
といえば先述の「
東照宮陽明門」が
ありさしあたりこの門は西の日暮
門と言えるものでしょう。

 
四脚門は入母屋造の軒唐破風で
伏見城から移築されたとのことで
す。
 桧皮葺の唐破風は優美な曲線を
描き素晴らしい眺めです。
 当初は表面塗装の黒漆と豪華絢
爛な装飾が見事なコントラストで


          唐 門(西本願寺)

あったことでしょう。桃山文化の象徴といえる門です。


            鶴
 右写真の破風の下に付けられております。
 丹頂鶴ではなさそうです。


       唐獅子とボタン


      麒麟(キリン)と雲 

 「唐獅子」は体毛が巻毛で、4本の爪をも
っておりますが角はありません。百獣の王
・獅子と百花の王・ボタンの組み合わせは
中国で大変好まれた組み合わせです。

 「麒麟」は一角で蹄があります。鳳凰で
は鳳が雄で凰が雌であるといわれるよう
に麒は雄で麟は雌と言う説もあります。
 麒麟は空想上の動物です。


 木 鼻(ボタン(籠彫り)と唐獅子) 


       孔雀 松と竹
  孔雀はインドの国鳥でインドでは毒蛇を
 退治すると言うことで霊鳥です。仏教では
 孔雀明王が有名です。


       龍と波


       唐獅子とボタン

                唐 獅 子(扉)

                 唐 獅 子(扉)


    豹(黒色の斑点がある) 


    虎(黒色の縞がある)

 昔、豹は「なかつかみ」と呼ばれ虎の雌と考えられており母虎が3匹の子虎を生む
と1匹は雌虎(豹)でこの豹が兇暴なところから「虎の子渡し」という説話が生まれた
のです。虎の子渡しと言えば龍安寺の石庭が有名ですね。           


      龍に乗る人物


      馬に乗る人物  

 中国の故事を題材に彫刻したものです。

 


     唐 門(豊国(とよくに)神社)

 


          蟇 股
 正面の大きな蟇股には豊臣秀吉
の「五七の太閤桐」が刻まれており
ます。桐の五七とは花びらが中央
に七つ、左右に五つあるのでそう
呼ばれております。

 「唐門」は伏見城の城門を移築されたとのことです。桃山文化といえば太閤秀吉だけ
にもっと煌びやかな華美な門を想像しましたが予想外に落ち着いた門でした。
 唐門は先述の西本願寺唐門と並んで京都の三唐門の一つと数えられるほど優れた建
築です。「ほうこくじんじゃ(豊国神社)」とも呼ばれます。
 豊国神社の極楽門が移築されたのが先述の「宝厳寺唐門」です。

  巨大な「鶴」は右の写真の左下にあります。破風は当然輪垂木の構造となってお
  ります。

 

  左の写真は瓢箪型の絵馬が
千成瓢箪を形作るように奉納
されております。

 

 

 

    扉の下方には「鯉」が彫刻
   されております。鯉の滝登
   りでしょうか。

 


 白線内には「君臣豊楽」
「国家安康」と線彫されて
おります。


             鐘 楼(方広寺)

  「方広寺」は大仏殿を要した巨大寺院だったのが現在は鐘楼のみを残すだけで栄華を
誇っていた面影はありません。豊臣家を滅ぼす端緒となった「梵鐘」は残っているのは
運命の皮肉としか言いようがありません。問題の鐘楼は「豊国神社」から約30mの近
距離にありますのでどうぞ。

 


        三 門(東福寺)


  山 廊 山廊から大階段
を昇ると2階です。2階では
釈迦三尊像や十六羅漢像を祀
り法要が行われます。

  「三門」へは手前の放生池(ほうじょうち)の橋を渡り向かうのが正規のルートです
が通常は通行禁止です。仏殿が南北の一直線に並ぶ南北の基本軸形式です。
 禅宗寺院では最古最優の三門です。三解脱門ですので入口が三つ必要で5間3戸の
二重・二階門となっております。
 上層部分で儀式を行う関係上従来より階高が高くならざるを得ないので、上層部分
より下層部分が高くなるよう全体を一段と高く設計されており見事にバランスが取れ
た豪快優美な門となっております。
  禅宗寺院の三門(山門)には仁王像は安置していないようですが当三門にはつい最近
まで仁王像が安置されていたようです。また、先述の「瑞龍寺」の山門には仁王像が安
置されております。
 室町時代の傑作で、建築様式の主体は禅宗様式ではなく大仏様式が多く採り入れら
れております。
 手前が放生池であるため全景が見通せる素晴らしい眺めです。
  禅宗寺院では総門と三門が続きますが総門は見当たりませんでした。

 

 「三門」は高い石段上にあり
圧倒されるような風格のある
雄大荘重な門で東大寺南大門
と並んで我が国最大級の門で
す。平面規模では東大寺南大
門より大きいです。
  浄土宗の門であるのに禅宗
様式で建立されております。 
 三門の両脇に設けられた
「山廊」の中に階段がありそこ
から階段を上がり2階に行き
ます。 


       三 門(知恩院) 

 2階は儀式が行えるよう荘厳された仏堂となっております。そして須弥壇には
「宝冠釈迦如来像」が安置され脇侍は十代弟子の「荷葉と阿難像」と思っていましたら
「善財童子と須達長者像」でさらに両脇には「十六羅漢像」が八体ずつ安置されており
ました。

 


      蓮花門(東寺・教王護国寺)

 「蓮花門」は3間1戸の八脚
門で、「東寺」伽藍の西側に建
てられております。一度境内
を出て西側に回らなければ眺
めることが出来ないため訪れ
る人も居りませんでした。
  鎌倉時代建立ですが天平時
代の門ではないかと錯覚する
くらい天平様式で建築されて

おります。
 二重虹梁蟇股ですが三棟造ではありません。
 昔、寺院では「華」の略字「花」が使われることもあり「法華寺」も「法花寺」と記載さ
れていたことがあるようです。 

 

 「三宝院唐門」は平唐門である
ため1間1戸が通例ですが袖壁
を設けて3間1戸となっており
ます。
  桧皮葺で三宝院の正門に相応
しい品格があります。
  鏡板一杯には五七の太閤桐、
十二弁の菊の文様が薄肉彫して
あります。当初は文様に黒漆を
下地に金箔を捺してあったらし
いです。 


       三宝院唐門(醍醐寺)

 桐の五七とは花びらが中央に七つ、左右に五つずつあるのでそう呼ばれております。

 

 
          総 門(万福寺)

 「黄檗山万福寺」は中国の高僧
「隠元禅師」が開山された寺院で
す。隠元禅師と言えばお馴染み
の「いんげん豆」を我が国にもた
らされた方でもあります。
 「総門」は3間1戸の門か四脚
門か迷うぐらいユニークな形状
です。中央の屋根を高く上げて、
左右の屋根を低くしている中国
風の門で、我が国でも中華街で
見かける牌楼門(ぱいろうもん)
と同形式の門です。
 総門は禅宗様寺院の表門です
があまり見掛けない珍しいもの
です。


 マカラ(右・裏側)


  マカラ(左・裏側)

 マカラ(インド・サーンチー)

 この門で見応えのあるのは大棟の左右に設置されている想像上の動物「マカラ」で
しょう。マカラは鯱(しゃち)とは違いますがどちらかと言えば鯱の祖先かも知れま
せん。鯱との大きな違いは脚(青矢印)があることです。
 インドでは大人しかったマカラですがこんなに威勢がいいのは中国で考えだされ
たのでしょう。


 3間3戸とは間口の三つの柱間が
総べて通路となっているものです。
 中央の扁額は「万福寺」と書かれて
おり隠元禅師の親筆です。


           三 門(万福寺)

 「三門」は3間3戸の二重・二階門です。禅宗寺院の三門は5間3戸が普通ですが
隠元禅師が質素を重んじられたのでしょう。正面の両側には山廊がありそこから階
段を伝って2階へと登ります。 
 三門をくぐると仏殿と言う仏堂がくる筈ですが当寺では天王殿がきてそれから仏
殿という伽藍配置となっております。

 

 


      仁王門(光明寺・裏側)


   板敷に置かれた賽銭箱。
  後間に仁王像を安置するのは
 珍しいです。

 「光明寺」は「君尾山(きみのおさん)」の中腹にありますが「仁王門」は山中にぽつんと
離れた位置に建立されております。
 写真は本体の正面は樹林に遮れているため裏側からの撮影です。しかし、右の仁王
像の写真は正面からです。
 鎌倉時代の傑作で、この時代は楼門の時代でありながら費用の掛かる二重門を建立
するくらいですから門の周辺にも多数の建築物があったのかもしれません。しかも屋
根は保守管理が大変な「栩葺(とちぶき)」です。

 

 「転害門」は天平創建当時の貴
重な建物です。ただ、天平時代
の建物と言えば「法華堂」があり
ますが別院の建物です。
 手向山八幡宮の転害会の旅所
として用いられたところからの
名称です。
 佐保路門とか西北大門とも言
われます。
 創建時の平三斗から出組に変


          転害門(東大寺)

更されて屋根が大きくなっております。天平時代の特徴である三棟造、二重虹梁蟇
股と言う形式です。  


        南大門(東大寺)

 「南大門」は大仏さんの正
門に相応しい豪放磊落な印
象です。
 基壇は創建当時のものを
再利用しており、平面は創
建当時のままと言うことで
す。
 5間3戸二重門では知恩
院の「三門」と並んで最大級
です。

  数少ない大仏様の遺構だけに貴重な建築です。
 南大門では何といっても両脇の「仁王像」でしょう。巨大伽藍を守るに相応しい我
が国最大の木彫像で、像高は8.4メートルもあります。仁王像だけでなく「天井」を
見上げてください。天井まで見上げる方は僅かしかいらっしゃいません。
 巨柱の林立はまるでビル工事現場での鉄骨の骨組のようです。円柱の総てが化粧
屋根裏まで伸びた様は壮観な眺めで圧倒されることでしょう。野屋根、天井の無い
大仏様でなければこれ程の高さまで見通せることは不可能です。   

 「中門(ちゅうもん)」は江戸
時代に再建された楼門で、3
間1戸が通例ですが5間3戸
という大規模な門です。
 建築様式は大仏様ではなく
和様です。
 南大門が仁王門である故中
門は二天門となり兜跋毘沙門
天像と持国天像が安置されて
おります。
 正面に見えておりますのは
「金堂・大仏殿」です。


             中 門(東大寺)

 


      楼 門(般若寺)

 「楼門」は寺院では珍しい1間1戸
です。
  旧京街道に面する西向きの建築と
なっております。このことは、楼門
は正門ではなく西門だったのでしょ
うか。現在、楼門からの出入りは出
来ませんが正面の視覚に十三重塔を
入れております。
 上層は出組、下層は出三斗、細部
意匠は大仏様を採り入れております。
 鎌倉時代の傑作門が歴史の争乱の
渦中に巻き込まれながら焼失せずに
残ったのは奇跡と言えるでしょう。    

  花の寺で有名ですがとくに咲き乱れるコスモスが一番人気です。

 

 「中門」は通常、桁行は奇数です
が4間という変則になっておりま
す。梁行が通例2間であるのが3
間、梁行3間という門の造営は飛
鳥・白鳳時代に限られますが
「増上寺三門(江戸時代)」は梁行3
間となっております。
 二重であるのは重要な門という
ことだけに安定感のある優美な建
築です。
 金堂、五重塔のように裳階もな
くエンタシスなどの古代の構造が


      中 門(法隆寺)

一目で理解できる貴重な飛鳥様式の建築です。
 エンタシスは我が国では法隆寺系寺院建築で終わり告げ、後の時代はエンタシスら
しきものだけですが韓国では続きます。
 建築構造は飛鳥時代の建築様式です。飛鳥時代の建築様式は多彩だったとも言われ
ていますが飛鳥時代様式の建築は法隆寺系寺院しか残っていないだけに興味尽きない
建築です。それと、木造建築の古代の遺構は中国、韓国にも残っていないだけに木造
建築の歴史は法隆寺から始まっているとも言えます。


        東大門(法隆寺)

 「東大門」は国宝指定の建造
物で、後世の改築も少なく、
天平当時の面影をよく留めた
門として貴重なものです。
 三棟造は天平時代の門と回
廊に採用されました。
 開口部からかすかに見える
のは東院の夢殿です。
 我が国には国宝の門は20棟
しか存在しませんがそのうち
3棟が法隆寺にあります。

 「南大門」は焼失後室町時代に再建
されました。法隆寺の建築群は白鳳、
天平時代が多い中新しい復古建築で
す。現在は入母屋造ですが当初は切
妻造でした。
 正門に相応しい安定感のある優美
な姿を誇っております。
 和様を基調に大仏様、禅宗様の細
部様式が採り入れられております。


        南大門(法隆寺)

 古代の通例通り中門前の接近した位置にありましたが平安時代に現位置に移築され
ました。

 
     上土門(法隆寺)

 「上土門(あげつちもん)」とは屋根の
平面な板上に土で屋根の形を造ったも
のです。
 現在は屋根の土は取り除かれ桧皮葺
に変わっております。とはいえ、上土
門の唯一の遺構という貴重なものです。
 蟇股風の大きな絵振板が目立ってお
ります。 
 ただ、江戸時代の再建時から桧皮葺
だったとの説もあります。


   留 蓋 鎌倉時代
  「留蓋(とめぶた・青矢印)」
は丸瓦の分岐点での雨漏りを
防ぐためのものでお椀の蓋を
伏せたような形状です。


       宗源寺四脚門(法隆寺)

 「宗源寺四脚門」は子院の表門で格式ある子院を表しております。細い控柱で簡素
な造りとなっております。
 記録上では最古の四脚門ではないかと言われるくらい古い門です。
 この門は先述の東大門から夢殿に向かう参道の左側にあります。

 写真の留蓋は蓮の葉を裏返して茎を切ったものです。当初の留蓋は茎もない雨漏
りを防ぐだけの単純な形だったのが時代を経ると獅子などの動物、蓮華などの植物
その他バラエティに富んだ興味ある装飾が加わっております。子院、塔頭の表門に
は競って自慢の装飾がありしかも低い位置にあり見易いので、どうぞご覧ください。


     北室門(法隆寺)

 「北室院表門」は現存最古の平唐門と
して有名です。輪垂木、蟇股は優れた
形をしており一番優美な唐破風屋根と
評判です。
 唐門は平安時代から建築が起こりま
すがこの門は室町時代の造営です。現
存最古の唐門と言われるのは門は建築
費が掛からないため修復でなく新しく
建て替えられるので古い建造物は残っ
ていないからです。
 この門の前を過ぎると有名な
「弥勒菩薩半跏思惟像」が居られます
「中宮寺」です。

 

 「仁王門」は土産物店を見物し
ながら坂道を上がってくると目
の前に現れます。南向きの本堂
に対し逆向きの北向きに建立さ
れております。
 東大寺大仏殿と並ぶ巨大な本
堂に相応しい雄大な二重門で前
に空地がないため全景写真撮影
は不可能でした。
 入母屋造で、本堂は桧皮葺で
あるのに本瓦葺です。上層には
和様の跳高欄付きの縁が回って
おります。 
 下層の中央は出入口で両脇に


        仁王門(金峯山寺)

は仁王像が安置されておりますので仁王門です。 

 


       楼 門(円成寺) 

 「苑池」から眺めた風景で、正面の
建物が「楼門」です。
 紅葉の季節は素晴らしく心和ませ
る景観で楼門の前に苑池があるのは
珍しいです。苑池を沿いながら楼門
に向かいます。
 3間1戸の楼門で、山岳寺院にふ
さわしい桧皮葺の楼門は自然の山懐
に抱かれております。
 縁はありますが通常あるべき縁高
欄、扉、連子窓がありません。
 「円成寺」は「えんじょうじ」と読み
ます。

 

 「楼門」ではなく上層に鐘を吊った「鐘楼
門」です。鐘楼門では現存最古の遺構で、
しかも、寺院でも創建当時の唯一の遺構
と言うことです。
 楼門と鐘楼とを兼ねた非常に珍しい建
築です。貴重な建造物である鐘楼門を見
るのは初めての経験でした。
 下層は1間1戸で、上層は3間です。
屋根の反りも穏やかで美しい曲線で構成
しているうえ杮葺の屋根だけに優しい感
じがいたしました。
 上層は高欄付き廻り縁となっておりま
すがその上層に釣ってあった梵鐘は残念


      鐘楼門(長岳寺)

なことに現在はありません。
 本堂の本尊「阿弥陀三尊像」は平安時代の作で、鎌倉時代に流行した「玉眼」を採用
した我が国初の仏像として著名です。

 


       朱雀門(平城京)

  「朱雀門」は天平時代の5間3戸
の二重門を今に伝える貴重な復古
建築で、建築に興味のある方は必
見です。車が便利ですが進入道は
幅員が狭く分かりづらいです。拝
観料、駐車料共に無料です。
  中央間から微かに見えるのは
「大極殿」で平城遷都1300年にあた
る2010年3月の竣工を目指してお
ります。

 

 「長保寺(ちょうほうじ)」は
大門、本堂、多宝塔の3棟が国宝
指定と言う由緒ある名刹寺院です。
 「大門」は3間1戸の楼門で扉は
ありませんが威風堂々とした構え
で風格が偲ばれます。
 入母屋造、本瓦葺で屋根の軒反
りは少なく禅宗様を一部取り入れ
た和様建築です。
 正面からの撮影は樹林に遮られ
ており裏側からの撮影です。


       大 門(長保寺)

 扉は当初から無かったようです。頭貫と飛貫の間に絢爛豪華な彫刻が嵌めこまれて
おります。

 


       二王門(石手寺)

 「二王門(石手寺・いしてじ)」は最
も優れた楼門と評判なだけに門の姿
が見通せないのは残念でした。
 2階部分の高欄付き回り縁は上が
る階段も無いので装飾のためかと思
いましたが設けた縁は装飾にしては
広すぎる感じがしました。
 蟇股が評判高く細部彫刻は見応え
があります。
 中央間の両側にある「藁草履」を撫
でると足の病気が治るや健脚になる
といわれており「撫で仏」でなく
「撫で草履」と言えるものです。

東大寺南大門に奉納されている藁草履よりはるかに大きな草履には驚かされました。

 

 「第一峰門(だいいっぽうもん)」
は四脚門ですが例を見ない斗栱で
中国で加工された材料で組立施工
されたとのことです。
 軒下一杯に隙間なしに組まれた
複雑な斗栱は珍しい網の目のよう
な組み方で大陸建築様式ならでは
でしょう。
 我が国では見慣れない数々の文
様は彩色も残り素晴らしい眺めで
す。
 この門を潜ると「大雄宝殿」です


      第一峰門(崇福寺)

が長崎の地形上中国の伽藍配置にはなっておりません。


     三手先(側面)


       四手先(正面)